対岸町のサーカステント

あきさき

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第二部

旅館の話 【14】

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 受付に向かう廊下の途中を左に曲がり、中庭を横目にしつつ奥へと向かう。中庭を挟んで対面に見えたのは、例の宴会場だろうか。誰も居ないのに場違いなほどに明るく保たれた部屋が、どうにも寂しく映った。
 続く廊下を再度曲がった前条さんが、あれ、逆だったかな、なんて言いながら方向を変える。手を繋いだまま振り回されかけた僕は、そこで浴場への案内が出ていることに気づき、前条さんの手を引っ張り返した。

「向こうみたいですよ」
「……ふーん? そっちだっけ、まあ良いや」

 何やら独り言染みた呟きを零した前条さんが、軽い足取りで暖簾の掛かった入り口へと向かう。青い布地を潜りながら、前を行く前条さんの背に、ふと浮かんだ疑問を投げかけた。

「なんで急にお風呂入る気になったんです? 前条さん、濡れるの嫌いでしょうに」
「そりゃまあ、せっかく来たんだから旅行気分も味わっておきたいだろ?」
「旅行気分を味わうには大分物騒な旅館じゃないですかね……」

 座敷童子が殺され、そのせいで三人が呪い殺された旅館である。呑気に風呂なんて入っていていいものか、とは思うが、汗でべたついているのも事実だ。布施さんだって僕らがそういうことをしたのは知っているのだから、確かに、此処は入っておくのがマナーだろう。一応、部屋にもシャワーはついているようだったけれど、布施さんが在室のなか二人で入る気には──たとえ布施さんが気にしなかったとしても──なれないし。多分、前条さんは僕と一緒でないと入る気にならないだろうし。
 流されるままに自分を納得させる理由をいくつか挙げていた僕の目に、振り返った前条さんの楽しげな笑みが映った。
「それにほら、けーちゃんのこと構っておかないと、と思って」
「…………もう充分構って頂いたんで大丈夫です」
「へー、そう。じゃあ今度は俺のこと構ってくれる?」
「…………いいですけど」

 どうにも、転がされる運命からは逃れられないようである。



 ────前条さんは風呂が嫌いだ。それは体温が無いから、というのもあるが、『浴槽に浸かる』という行為自体に嫌悪感を覚えるようだった。本人の口から聞いたわけではないが、きっと僕の勘違いではないだろう。謙一さんに聞いた話を思えば、忌避の理由は想像がついてしまう。つきたくはないが。
 そんな想像がつくような理由なんてなければいいのに、と本気で思ってしまう。前条さんがこれまで苦難を乗り越えるためにしてきた努力を無視してでも、最初からそんな辛いことが彼に訪れなければよかったのに、と願ってしまう。たとえそれが理由で僕と彼が出会わなかったとしても、それでも、前条さんがただ幸せでいてくれる世界があればいいのに──と、願いかけて、やっぱりそれは嫌だなあ、なんて思ってしまう辺りが僕の馬鹿なところである。
 前条さんに出会えない世界は嫌だな、と素直に思う。彼には、僕の隣でずっと幸せでいてほしい。楽しく暮らしていてほしい。そのために僕に出来ることならなんだってするつもりだ。一体僕に何が出来るのかは、分からないけれど。

 大浴場の洗い場に腰を落ち着けた僕の後ろに、前条さんが膝をつく。警戒心から身体を縮こまらせて振り返った僕に、前条さんは一見無邪気そうに見える笑みを浮かべた。

「あ、けーちゃん、背中流して良い?」
「…………えっちなことに持ち込む気じゃないでしょうね」
「持ち込んでほしいならそうするけど」
「………………………今日はもう無理です」
「ああ、うん、今日は、ね」

 何とも楽しそうに笑われてしまった。また今度な、なんて、耐えきれない笑いを含んだ声で言われてしまった。しょうがないじゃないですか。持ち込んでほしいのも本心だし、今日はもう体力的に無理なのも確かなんですよ。しょうがないじゃないですか。
 一体何が『しょうがない』のか微塵も説明できなくとも『しょうがない』ことになるところが、『しょうがない』の良いところだ。とりあえずしょうがないことになった。
 普段よりは幾分体温の宿った手が背中を撫でてくる。本当に『また今度』にしてくれるつもりなのか、触れてくる手の平にそういった意味合いは無い。前条さんになくとも僕にはあったことになってしまうかもしれない、とも思ったが、何度も宣言している通り、流石に今日の僕にはもう無理だった。

「けーちゃんさあ、案外背中広いよね」
「……そうですか?」
「うん。なんかもっと、ちっちゃいかと思ってた」
 そりゃアンタに比べたら小さいでしょうよ。日頃から身長差については度々揶揄われるため反射的に口をついて出そうになったが、大きくなったね、なんて耳元で響く笑い声が何だかあまりに愛しげだったものだから、僕は何の言葉を見つけられずに俯くことしか出来なかった。
「うーん、こっちも大きくなるかな?」
「ならないって言ってんでしょうが! こら、人のちんこで遊ぶな!!」
「え~? 洗ってるだけだけど?」
「ちんこ洗うときにそんな触り方することあります!? 自分のちんこ洗ってみせて下さいよ!!」
「また特殊なプレイの話してる?」
「してません!!」

 仮にそういうプレイに興味があったとしてもこのタイミングでは言いません。というか、別にそこまで特殊なプレイでもなくないですか?
 余計な主張をしかけ、寸前で黙った僕は、これ以上好き勝手される訳にはいかないと残りの部分を手早く洗い、タオルを巻き直して外の露天風呂へと逃げ込んだ。やっぱり眼鏡かけたまま入って良かった、と心の底から思った。より正確に言うなら、『俺が面倒見てあげるから外していけば?』などという言葉に従わなくて良かった。

「前条さんもちゃんと洗ってから来て下さいね!」
「あれ、見なくていいの?」
「今度で良いです!」

 言い残して逃げた僕の耳に、揶揄い以外の何物でもない声が届く。ほとんど脳を通さない言葉で返せば、笑い声だけが返ってきた。
 湯船に浸かる時には外した方が良いのだろうが、こんな旅館でマナーがどうとも言っていられない。どうせ僕ら以外に客はいないし、これ以上防御力に不安がある状態にはなりたくなかったので、タオルは巻いたまま入った。さっき持って行かれなくて本当に良かった。

「折角誘ってやったのに置いてくなんて酷いやつだな」
「その言葉を口にしていいのは置いてかれるようなことをしなかった人だけです」
「なんかしたっけ?」

 清々しいまでに白々しい声がしたので、いつになく胡乱げな視線を向けてしまった。向けてから、『濡れた髪を掻き上げる前条さん』を真正面から喰らってしまい、何も言えなくなった。
 体温が上がるか試したくて鍛えた、などと言っていた前条さんは、言葉に違わず程々に鍛えられた男の身体をしている。神様が完璧な比率で生み出した美貌と同じく、その体型までもが嫌味なほどに美しい比率で出来ている。端的に言えばスタイルが良い。

「どしたよ? やっぱり見とけば良かったって思ってる?」
「……いえ、別に」
「ああ、そう。タオル邪魔だな、みたいな顔してるけど取った方が良い?」
「取ったら僕のも取ろうとしますよね」
「うん」
「じゃあいいです」

 無粋な布地が均整の取れた美しさを損なってるようで邪魔だな、と思ったのは事実だった。隣に腰を落ち着けた前条さんは、真顔で頷いた僕にやや呆れたように笑った。
 ちょっかいをかけてこようとする手を避けつつ、どろりと飲む込むような暗闇が広がる空から目を逸らす。露天風呂としては大分最悪の眺めだった。どうやら、外に繋がっているように思える場所も断絶されているらしい。
 此処から帰る方法なんて本当にあるんだろうか。胸に浮かぶ不安を打ち消すように、あくまでも明るく口にする。

「今度は普通の旅館に行きましょうよ。司も連れて」

 きっとあいつも温泉に入りたがるだろうから、露天風呂つきの部屋がいいだろうな。湯船に直入れは不味いから桶にでも浮かべとくか……いや、それって入ってるって言えるのか?
 妙な方向に真剣に悩み始めた僕を見て、前条さんが小さく笑みを浮かべる。濡れた手が優しく頭を撫でてくるのを感じながら、やっぱりお見通しな上で構ってもらってしまったな、なんて思った。

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