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第三話 マーブリング的自画像
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しおりを挟む薄暗い山小屋の窓から、昼間でも木々をも隠す不透明な灰色の外界を眺める。
ピアノ線のような太い雨と強い雨音に、魂が滝壺に堕ちてゆくようだ。
この降りしきる雨の中、動物たちは近くのお宮にでも避難しているのだろうか。
煙草に火を点ける。
長い間止めていたそれを、近頃再び喫するようになったのは、思考を整理する哲学の時間が必要なのだと、大袈裟に自分に言い訳をする。
固まった油絵具の蓋を緩めるためと焚き火の種火だけに使われていた粗末なライターも、元来の使い道に喜んでいるかも……やはり大袈裟だな。
窓枠にいつからか貼り付いている蟷螂の卵鞘を見つけ、同居人が居たのかと苦笑する。
描けなくて放り出した下地段階の一枚のキャンバスが、四半世紀ぶりに私の手元に戻った。
あの時、碧美術館でベルメールに魅入っている彼女に魅入っていた私は、こんなにも素直で稀有な魅力の少女を描ける幸福を授けてくれる神に感謝した。そして、藤見まれと約束した。
「卒業までに、君の絵を仕上げる」
碧湖の碧とまれの直視し難い瞳を想いながら、コバルトブルーとプルッシャンブルーをパレットナイフで塗りつけ乾くのを待って、まれの美しい姿を写し取った。
それなのに、まれはこう言ったのだ。
「先生はあたしの内側見えてないの? あたしはもっと意地悪でわがままで狡猾で寂しがり屋の悪魔かもしれないのに……綺麗すぎるよ」
そして、私が描きかけた天使のようなまれの姿を、布で擦りとってしまった。
「壊れるほどのあたしを描いて欲しいのに……」
そう言って、美術室をすらりと出ていった。
それ以来筆が進まぬまま、まもなくして私たちはお互いにその高校を去らねばならなくなった……その時、彼女が私物と一緒にこれを持ち出したのだろう。
ぼんやりとキャンバスの群青を眺めていると、中央に星が生まれるように小さな白い光が渦巻いて見えたと同時に、自分の身体が溶け出すような心地良さ。
今なら描けるかも知れない。
そう思ったのも束の間、佐綿くんのタブローが脳裏を横切り、その嫉妬心から意欲が霧散してしまった。
誰に憚ることのない山小屋で、大きく紫炎を吐く。窓枠の卵鞘は、まさか咳き込みはしないだろう。
雨が止んだら碧湖に行ってみよう。
雨から解放された日、私は気ままなドライヴがてら碧湖に向かう。
ベルメールは観られるだろうか。
企画展中は展示されていない可能性もあるが、頼んで収蔵庫を覗かせてもらおう、などと考えながら、ラヴェルのボレロのボリュームを上げる。1時間半で着くはずだ……
おかしい……どこまで続くのだ、この山道は……迷ったことなどないし記憶している道だ。
車を停めてスマホで経路を確認する。電波が不安定になるほどの山奥ではないのに、私の位置がぐるぐると定まらない。あれだけ走ったのに山小屋周辺から離れていない。信じたくはないが、狐につままれたように隣町にすら着かない。どうにも山から出られないのだ。
私のテンションは一気に下がり、その日の碧湖行きを不本意にも断念した。
小屋に帰って不貞寝するか、腹が空いたから辛い麻婆豆腐でも作って不可解な気分を払拭するか。
お宮の前を通りかかると、道沿いの鳥居を抜けて歩く見覚えある男女二人組があった。
車を停めて声をかけると、女性の方に笑顔が広がった。
「真野先生! 良かった、先生に会いにきたんです。お参りはついでです」
「やあ、久しぶりだね、楠田さんと……お、伝説の部長の青柳くん」
ふたりを車に乗せると、さっきまでのもやもやも薄れていく。
「ふたりしてお参りとは、何やらうれしい話かい? けれどお参りをついでなんて言ってはいけないよ」
「そうでした、ごめんなさい」
楠田さんは素直に謝るが、喋りが止まらない。
「車降りてからゆっくり訊くよ」
そう言って、外の据付のテーブルに案内した。
「足元がまだぬかるんでるところもあるから、気をつけて」
彼らが訪ねて来るので山から出られなかったのだろうか、と因果めいたことを柄にもなく思ったりした。
ふたりの手土産の缶ビールと私の手製麻婆豆腐で乾杯する。
「君たちが卒業したのは、かれこれ十年位前だったかな」
明るい楠田さんはムードメーカーだったし、青柳くんに至っては、伝説の部長で語り草になるほど、先天的な絵の才があり、出品すれば必ず入賞するほどに上手かった。
楠田さんは、ビールを一口だけ飲むと、待ちきれないとばかりに、
「先生、私たち三年一緒に住んでいて入籍を予定してるんです」
「それは、おめでとう」
「違うの、先生! 青柳くんたら浮気してるかもしれないんです!」
「だから、それは違うって説明したじゃないか。僕に起きた現象は、真野先生に関係があると思う。だから訪ねて来たんだろ」
青柳くんが蒼白いため息を吐いた。
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