真夜中の山の毒気と宿る雨

弘生

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第三話 マーブリング的自画像

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 ふじみまれ……初めて現れた時から、かれこれ二ヶ月近く経つのに、僕は彼女の名前すら訊きもせず、思い返せば同じような会話を毎日繰り返していたことに唖然としました。
 変化したのは、描いていたというより描かされていたような僕の作品で、今までとはまるで違う画風。これは僕の絵ではないと思いました。
 いったい十年も前ってなんだよ……金縛りのように自由のきかない思考の中で、小部屋から教授が一枚の絵を手に戻って来た……うしろから彼女……ふじみまれ? がすらりと続いてくるではありませんか。
 いつから……という言葉も出ないでいると、教授は何事もないように、S3号の油画を見せたのです。
「まれ君の絵だ」
 僕は教授、彼女、と目線を動かし、恐る恐るその絵に目を落としました。
 
 小さな正方形のタブロー。
 昼の湖のような美しい碧色に、漆黒の墨をぼたぼた垂らし込んだ絶妙なマーブリング液のような水面。そこには人のかたちなど全くないのに、人間の存在、しかもひとりの、しかも彼女の……!
 昼の光と夜の闇が混在するそのタブローは、ふじみまれの瞳そのもののようで、僕は目を背けようとしたが間に合わなくて、恥ずかしながら、その場で気を失ってしまったのです。

     *

「これが、彼女が描いたという絵です」
 青柳くんは帆布のトートから、大事そうに一枚の絵を取り出した。
 辺りは日没が迫って薄暗くなっていた。
 私は小屋からガスランタンを持ってきて灯した。
「LEDランタンのが明るいけど、こっちのが風情あるだろ」
 熱い珈琲をこぽこぽと淹れながら、私はまれの絵を見るのを数分でも先延ばしにしていたような気がする。

 ランタンの炎に照らし出されたその絵は、吸い込まれて色を失いそうになる、まれの瞳のようだ。
 思わず青柳くんと目を合わせて、
「まれだ。ここにまれ自身が描かれている。まれの自画像だ……」と呟いた。
「僕もそう思いました……やはり昔、彼女を描いていたのは真野先生だったのですね」
 私はあまりの衝撃に、小屋に駆け込んで吐いた。
 天使の姿のまれを私に描かせてくれない悪魔のまれを思い出すと、どうしようもなく儚くて恐ろしくて悔しくて……わからない、とにかく吐きたくなる。

 夜の山の木々の葉が、ざざざざ、ざざざざ、と現実に戻す。
 缶ビール一本で、途中から寝入っていた楠田さんを起こすと、熱い珈琲を勧めた。
「今日は訪ねて来てくれてうれしかったよ」
「先生、青柳くんの話、おかしかったでしょ? 絶対作り話よ、神出鬼没の黒髪の美女にモデルをしてもらってたなんて。浮気よ浮気!」
 青柳くんは眉をハの字にして苦笑している。
「黒髪の美女は、この私に会いたがっていたんだよ。それを青柳くんが仲介してくれたんだ。だから彼は潔白だよ」 
 そう言って、楠田さんの肩をぽんぽんと叩いた。
 楠田さんの周りを黒い蝶がひろひろと蝙蝠こうもりのように高速飛行して、木のてっぺんに消えた。
 その時、額に雨粒が落ちてきた。
 本降りにならないうちにと、ふたりを車で麓の駅まで送る。
「藤見まれは、今も青柳くんのところに現れるのかい?」
 青柳くんは楠田さんに気を使いながら、
「ええ、まあ。あの絵を真野先生に見せてほしいと、何度か」
「私も君の大学に行ったら彼女に会えるのだろうか」
「わかりません。でも……彼女は先生に会いたくなったら、直接ここに現れるのではないかと僕は思ってます」
「そ、そうだよね、ははは。さすが、落ち着いてるな」
 麓の無人駅が見えてきた。
「公募展はこれからかい」
「教授はああ言われたけど、あの絵の公募はやめます」
「伝説の部長が何言ってるんだ」
「あれは僕自身の意思で描いた絵じゃないから……」
 青柳くんは車を降りる時、
「良かったら見てください、F100号です」と、一枚の写真を私に渡した。
 三両編成の赤い電車がやってきて、ふたりはそれに乗り込んだはずだ。
「幸せになりなさい」と心の中で格好つけて見送る。
 
 彼ほどの技量と感性で、予定していた公募展に出さないのはもったいない。そんな気持ちで写真を見た。
 これは……まるで私の絵だ。
 しかも、つい先日までの長雨の中で、あのキャンバスの群青を眺めていた時に、もやもやと見えてきたイメージとよく似ている。
 全身を濡れた毛布で覆われたような逃れ難い重みを感じ、不自然に背を丸めたまま車を発進させた。
 知っている道なのに見知らぬ道のような不安に駆られながら山道を急ぐ。
 半分ほど走った道沿い、ふと目を引いた。
 花……花束だ。
 こんなところに……今まで気づかなかった。
 
 雨は本降りにはならなかった。
 今日は不思議な長い一日で疲れてしまった。早く帰って眠ってしまいたい。
 我が山小屋に着くと、窓枠の卵鞘らんしょうから孵化した極小の蟷螂かまきりの子たちが、たった今雲間から現れた月の光に照らされて、乳白色に光りながら、うようよと外に旅立って行った。
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