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第一章
それぞれの春
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春の光をサッシ越しに眺めていると、咲月さんが、
「ジン、百日草の種蒔こうか。ジンの花、ジニアよ」
と、大きな目を三日月にした。
ほんわり温かい空気に包み込まれ、眩しい陽の光に思い切り瞳孔を細くする。その隙間に入り込むように、黄色い蝶々がひらひら頼りなさそうに飛んでいる。
ぼくは、「ニャニャニャニャニャ」と小さく鳴きながら尻尾で舵を切る準備をして、くりくりと目で蝶々を追いかける。ジャンプのタイミングを逃して、高く高く舞い上がった蝶々を、しばらくの間恨めしく見送っていた。すると足元を青い蜥蜴が素早く通り過ぎて、あっという間に姿を消してしまった。すばしっこいぼくとした事が、あれから運動不足なのかもしれない。釣竿蝶々で瞬発力の勘を取り戻さなくてはならないだろう。
「ジンの百日草とママの百日草、一緒に蒔いたからね。楽しみね」
咲月さんのまとめ髪に留めている髪飾りがきらきら反射して、光の屑が目や鼻に侵入して来たような気がして、ぼくは思わず小さなくしゃみをした。
それから咲月さんは、空に向かって大きく深呼吸して、
「春だね」と言った。
結月さんは、この春この家を出る事になった。本格的に大作の実験的制作を始めるらしい。なので、大学近くのシェアハウスにアルバイトをしながら仲間達と住むそうだ。
お父さんは心配そうだったが、違うジャンルでも、同じ方向を向いた仲間同士、切磋琢磨しながら協力もし合えるし、なんといっても楽しいのだと、結月さんは意気揚々と語った。
「すぐに帰れる距離なんだから、心配不要よ」
「別に心配要らないっしょ。結月の場合」
と、霧人君はクールに言っていたが、餞に結月さんのさらさらの長い髪を丁寧にカットしてあげた。
昔、月乃ママがそうしていたように、いつしか器用な霧人君が家族全員の髪をカットする担当になっていたらしい事を、この時初めて知った。
「うんうん、満足。生まれ変わったみたい。キリは髪を切るのだけは上手いわよね。髪が伸びたらまた帰ってくるわ」
そんな憎まれ口を利いて、すっかり短くなった髪をくりくりさせながら、結月さんは軽やかに旅立って行った。
「がちゃがちゃした結月がいなくなっちゃうと、静かになるわね。何だか寂しい」
咲月さんは、少し目を潤ませながら見送った。
「思ったように生きればいいよ」
お父さんが小さく呟いた。
「ふん、結月の奴、大絵描きになって戻って来るって、でっかい事言ってたぞ」
霧人君が心配を隠すようにぶっきらぼうに言った。
「霧人、父さんの髪も切ってくれないか」
お父さんが頭をもしゃもしゃ掻きながら言った。
「えええ、めんどくせえ……けど、まあいっか」
霧人君はわざと大きなため息を吐いた。
「うふふ、キリはママに似て手先が器用なのよね」
「これでいい?」
霧人君は梳きばさみを置いた。
「さっぱりして少しは若返ったかな」
お父さんは、短くなった少し癖のある髪をつまみながら、うれしそうに優しい目を一層細めた。
「お父さん格好いいわよ、うふふ」
「そうか」
「では、失礼」
咲月さんはゆっくりと、けれども何の躊躇いもなくくすくす笑いながら、掃除機でお父さんの頭を吸い始めた。
何? ぼくは唸る怪物みたいな掃除機が苦手で、いつもキャビネットの上に避難する事にしていたが、優しい咲月さんがお父さんの頭を掃除機で吸うなんて、いったいどういう事なのかとショックを受けた。
「怖がらなくていいよ。昔、母さんが父さんの髪を切った後に、いつも掃除機で吸ってたんだってさ。効率的だし悪くないと思うよ」
ぼくの不可解な怯えを察して、霧人君が教えてくれた。
結月さんが家を出てから、ぼくが眠る時の担当は曖昧になり、その晩の気分によって、霧人君と咲月さんの間を行ったり来たりしていた。
理由はちゃんとある。
霧人君は、時々金縛りのように突然からだを固まらせ、うなされている。走りたいのに走れない夢でも見ているのかもしれない。そんな時には、ぼくは咲月さんの布団に潜り込んで、そのまま朝まで眠る。
けれども、咲月さんは見かけによらず寝相が良いとは言えなくて、時々眠りながら暴れるので、ぼくは度々ピアノの上に避難する。その後は霧人君のベッドで眠り直す、というわけだ。
がちゃがちゃしていたけれど、安眠できる結月さんが少し恋しい。
3
中学三年生になった霧人君は陸上部を正式に退部し、過去の自分と決別しようともがいているのを、ぼくは知っていた。
一ヶ月後の進路指導の三者面談を控えていて、時々、髪を掻きむしって白目になる程に悩んでいたり、ベッドに転がって天井を睨んでいることもあった。
「キリ、髪切ってよ」
頭のてっぺんでまとめていた長い黒髪を解きながら、咲月さんが霧人君の部屋に入って来た。
ごろごろしながらゲームに夢中になっていた霧人君は、
「わ、びっくりした、咲月か。急に入って来るから結月かと思った」
「うふふ、ごめんね。教育実習が近いから」
「教育実習?」
「そうよ。本当は母校がいいのだけど、弟がいたらやっぱりちょっとやりにくいじゃない。だから、お隣の中学で」
「ふうん……いいよ、切ってやるよ」
春の庭で、霧人君は咲月さんの長い黒髪に櫛を入れていた。
「結月みたいに、思い切り短くしちゃおうかしら」
「……いやだよ。咲月は長い方が似合う」
「あら、おんなじ顔じゃない」
「……違うよ……いや、同じ顔だけど……違うよ」
「うふふ、何だかわからないけど、わかりました。キリにお任せします」
霧人君は、口をきゅっと結んで咲月さんの髪を切り始めた。ぼくはその傍で陽の光を背中に集めながら寝そべっていた。咲月さんの黒髪がぱらぱらと芝生に敷かれたシートに落ちて行く。
「おれ……進路どうしようかな。推薦校は怪我でボツ。思い出したくもない……高校って行かないとだめなのか」
「お父さんに相談した?」
「父さんか。優しいだけが取り柄の数学馬鹿だからな」
「あら、キリは優しい所も少し癖っ毛の所も、お父さんと似てるわよ」
霧人君は一旦手を止めた後、小さく咳払いして、
「ねえ咲月、今度の三者面談なんだけど……」
「はいはい、お父さんに頼まれてるわよ。わたしが保護者代理でキリの担任と面談します」
「やっぱりそうだよな……おれ、咲月に保護されてるんだ……」
「何を今更。結月とわたし、頼もしいお姉さん達がちゃんとキリを守ってあげるわよ」
「何だよ、結月がいなくなったら、咲月が結月っぽくなってる!」
「うふふ、冗談だけど本当よ」
「おれは……」
霧人君は次の言葉を飲み込んで、少し不機嫌そうに強がって言った。
「お客さん、こちらでいかがですか?」
大きな手鏡を渡された咲月さんは、
「これ、わたし? かわいい! キリ、ありがとう!」
そう言って、霧人君をぎぅっと抱きしめた。
咲月さんの前髪を下ろしたさらさらのミディアムボブは、陽の光できらきらしていた。そして霧人君は、夕陽みたいな顔で小さく「離せよ」と言った。
「キリ、美容師になればいいのに。そしたらわたし、一生キリに髪を切ってもらうわ」
「…………おう」
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