向日葵 〜胡桃シリーズ

弘生

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第五話 呪いと魔法のマジック

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   向日葵 ~胡桃シリーズ


  呪いと魔法のマジック


 彼女が迫ってくる。黒マジックを握りしめ、目から白い光を放ち、一本歯の足りない笑顔を浮かべて……や、やめて……
 はっと目覚めた僕の隣には、安心しきった健やかな彼女の寝顔と鼾があるだけだ。僕はほっとして寝直す。
 妊婦貧血が激しい彼女は、鉄剤が合わず気分が冴えない。だから僕は張り切って家事を応援しているのだが、彼女がいつでもポケットに黒マジックを忍ばせる原因を作ったのは、たぶんこの僕だ。

 彼女の名は胡桃くるみ。クリニック勤めのナースである。笑顔の可愛い僕のお嫁さんだ。
 彼女のナース服のポケットには、ドラえもんのポケットのように何でも入っていて、誰かが何かを探していると、ぱんぱんに膨らんだポケットから魔法のように必要なものを取り出すので、同僚もといドクターにも重宝にされている。

 ある晩、胡桃は帰宅するなり開口一番、
「幽霊よ!」
「……なにが」
「違うの! 幽霊がいたのよ!」
 特に何も違わない。
「ドクターの足元にいたのよ! 文字模様の染みのある手よ」
 ううむ、同僚の花生かおさんも目撃したということだから、貧血のぐらつきによる幻影とも思えないし、胡桃の興奮を助長させてはならないので、さらりと受け流した。が、胡桃の話は止まらない。
 その日、患者の処置の準備をするため、花生さんとふたりでドクターの手書きカルテを解読していた。
「ねえ、これ何て書いてあるんだろう」
「いつものことながら読めないよね」
「これってさ、ムロイ文字なんじゃない?」
「ドクター室井家に伝わる古代文字ね」
 ちなみにドクターは室井先生と仰る。
 主任ナースの杏子あんずさんが通りかかり、さらりと解読。ふたりは畏敬の眼差しで杏子さんの背を見送って、「さすが、ドクターの右腕!」と囃し立て、杏子さんに軽く睨まれた。
「ムロイ文字解読者を増やさないとね」
 その時、ドクターの机の下からヘナヘナ文字のような染みをつけた手形がひらひらと見えたのだという。ふたりは目を合わせたあと、花生さんがびくびくしながら机の下に潜ってみたが、怪しいものは何もなかった。
 その後ドクターが席に着くと、普段穏やかで物静かなドクターが、
「うわ! びっくりした!」と叫んで、胡桃も花生さんもびっくりした。
「どうしたんですか、先生!」
「わかんないけど、机の下から白衣を引っ張られたんだよぉ」
「やっぱり何かいるんだわ!」
 ドクターは笑って否定したが、ふたりは確信した。その証拠に、ドクターの白衣の裾に新しい黒いインクのようなヘナヘナ染みができていたからである。
 胡桃は魔法のポケットからルーペを取り出し、
「先生、これ文字模様になってます……よく見るとムロイ文字かも!」
「なんだそりゃ」
「あ、いえ、なんでもありません」
 胡桃は急いでポケットに備えてある、消毒液や血液の染みを落とす魔法の液体を何種類か、ドクターの白衣に試したが全く効かない。インクならばと、花生さんが水を含ませたガーゼで叩いたがやはり少しも落ちない。
 古代ムロイ王朝の呪いの手? ふたりの妄想が膨らんでいる間に、ドクターは修正液をボトボトと白衣に塗って、あの胡桃をも驚かせる行動に出ていた。
 驚いて白目になった胡桃と爆笑の花生さん、なぜ笑われているのかがわからないドクター室井。処置の準備は間に合ったのか、僕の方が心配してしまう。
 胡桃は、自分のポケットのものが役に立たなかったことに少なからずショックを受けたようだ。
「無敵のくるみポケットだったのに……」
 迷わずプロのクリーニング屋に任せれば済むことだったんじゃないか、と僕が口を挟むと、
「だめよ! あれは呪いだからクリーニング屋でも無理」と言い張る胡桃だった。
 白衣のその後を訊いてもドクターは口を濁すので、やはりムロイ王朝の呪いだったのだという結末に、胡桃と花生さんの間では決着したそうだ。

 八月。僕達の結婚記念日だ。
 夏休みは胡桃の希望で、しゃぶしゃぶに定評のある露天風呂付きの宿を予約した。胡桃は温泉で呪いを浄い流してやるわ、とはしゃいでいた。
 美味しい料理を堪能して、僕は少しアルコールが入っているので部屋で涼み、胡桃はご機嫌で二度目の露天風呂に浸かっていた。野生の撫子が満開の風情ある小さな庭の露天風呂。腹の子は順調だし、来れてよかったな。
 ところが、またしても事件が起こったのである。
 胡桃が風呂の上がりしなに倒れたのだ。半白目で口から血? その時ばかりは笑えなかった。
「胡桃、どうしたんだよ!」
 呼吸が荒い。
「歯……歯が……」
 胡桃の身体にバスタオルをかけてから、彼女の差し出す右手に目をやると、小さな歯を握っていた。唇についた血液の正体だ。なんで? と考える前に止血だ。身体が温まっているから出血しやすいのかもしれない。
「呪い……呪いのせい……よ」

 倒れた原因は、湯あたり。問題の歯は少しぐらついていたから、歯医者を予約してはいたが、湯に浸かりながら気になって舌でぐいぐい押していたら抜けてしまったらしい。
 歯医者曰く、
乳歯、、だから抜けるべくして抜けたんですよ。ほら、歯も小さいし根も短いでしょう、長い間よく頑張りましたね」 
 何のことはない。胡桃の口腔は乳歯が現存していたのだ。
 湯あたりに乳歯か。ほっとしたと同時に大笑いしてしまった。
「これは呪いよ! そんなに笑って、がくくんにも呪いが移るからね!」
 ちなみに楽とは僕の名前である。

 そんな相変わらず面白い胡桃ではあるが、やはり妊婦貧血のせいで気分が冴えないし動きも不安定だ。だから僕は帰宅すると、慣れない家事を精一杯こなした。やらなくていいマグカップの茶渋なぞとって、胡桃に「張り切りすぎよ」と言われた矢先、
「ちょっと楽くん、その模様は何?」
 胡桃の指差す僕の黒いTシャツに、はねが跳んだように赤茶色に色が抜けている。
「呪いかしら! ムロイ文字? ううん、ちょっと違うわね……漂白剤!」
 買ったばかりのTシャツ、心なしかショックだ。
 胡桃は一瞬考えて、
「楽くん、動かないで」と言って、黒マジックで色が抜けたところを塗り始めた。ドクターの発想には負けないわ、と言わんばかりの出来栄えに満面の得意顔である。
 以来胡桃は黒マジックを肌身離さず、黒い家具なども小さな傷を見つけては塗り潰す趣味を得た。
 
 そして同じ事は繰り返される。
 花生さんが黒いワンピースで出勤した日のことである。
「何これ!」
 花生さんの悲痛な声にいち早く反応した胡桃は、
「どうしたの、花生ちゃん? あっ!」
「どこで付いたんだろ、白いのがヘナヘナ……今夜おデートなのに泣きそう」
「これはムロイ文字よ! 呪いの模様よ!」
 胡桃は、ポケットからルーペを取り出して、花生さんのワンピースを引っ張って凝視しながら言った。
「呪われてるの? 私」
「任せて! こんなこともあろうかと、これよ!」
 魔法のポケットから取り出したのは黒マジック。
 花生さんのワンピースを塗り始めた。
「ほら見て、じろじろ見なければわからないわ。ふふ、これがホントのくるみマジックよ」
 人助けに満足した胡桃の得意満面が目に浮かぶ。ナース服のポケットにも黒マジックは常備されていた。

 就寝前、鏡の前でマジックを手に真剣に奮闘している胡桃。
「何してるの?」
「話しかけないでくれる」
 吹き出すどころかまたしても爆笑してしまった。
 胡桃は見つけてしまった自身の一本の白髪をマジックで必死に塗っていたのだ。
「やめてよ、笑い事じゃないのよ。呪いに対抗するにはマジックなのよ。歯は抜けるし白髪見つけるし。今度笑ったら楽くんの歯をマジックで塗ってやるから!」
 そして笑いを堪えながらも小心者の僕は、迫りくる胡桃の夢を見てしまったのだ。
 ふたりの髪がマジックで塗りきれないほど白くなっても、今と変わらず楽しくやっていこうな。呪いなんてないよ。
 

 
 
第五話 おわり




 

 
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