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第六話 ガーベラゴーグルサングラス
しおりを挟む十月に出産を控え、来週から彼女は産休に入る。
午前勤務を終え職場に挨拶を済ませた彼女は、ガーベラの花束と温かいエールを贈られて、僕の待つ待合室に姿を現した。
僕は彼女と連れ立ってこちらに向かってくるナース達スタッフに挨拶をせねばと立ち上がったのだが、申し訳ない。彼女の風貌にいきなり吹き出してしまった。
彼女の名は胡桃。クリニック勤務のナースで、本人の意思とは無関係なところで人を笑わせてしまう特技というか魔力、いや魅力を持つ、笑顔の可愛い僕のお嫁さんである。
一ヶ月余り前の事だ。
胡桃は元々近眼の上に光に過敏に反応する。妊娠七、八ヶ月頃からそれが顕著になり、妊娠中との因果関係は検査しても不明なのだが、暗がりを求めて遮光カーテンに包まったり、暑いのに布団を被ったりしていた。
目の前がチカチカして、その明るさのせいで回りが見えなくなってしまう症状は、時には歩行を困難にし、タクシーで帰宅した事実もあった。しかも財布の中に光がちらついてよく見えず、タクシー料金を運転手さん自身に財布から抜いてもらったというから、胡桃らしいと言えばそれまでだけど、他人を信用し過ぎているのではと、少々不安になる。
「サングラス欲しい」
胡桃のその一言で、誕生日の近い彼女へのプレゼントは決まった。そのものずばり、サングラスである。せっかくだからずっと使えるおしゃれなのにすれば、とやや余裕気味に言うと、
「あったりまえよ。欲しかったやつ欲しかったやつ、ふふふ」
ものすごく嬉しそうな胡桃の顔にやや不安を覚えた僕の勘は的中し、ずいぶんと高価である代物をチョイスしたのだ。
「いやーん、ティファニーのサングラスなんて、胡桃素敵になっちゃう」
この悦びよう……すでに拒否は出来ない。
妊婦貧血や神経痛や浮腫にもめげずに、ぎりぎりまで働いていた彼女へのご褒美も含めて、僕のお小遣い返上の大奮発でプレゼントしたのだった。
「似合うでしょ、胡桃最高!」と自画自賛しながらすっかり気に入って、「本当に目が楽だわ」と部屋の中に居ながらのサングラス生活が始まった。最初は面白がっていた僕も慣れてしまえばそれが通常になり、胡桃は遮光カーテンに包まることもなくなった。
ところがここ数日、家で装着しているのを見かけなくなった。それどころか、やはり眩しさを感じている時は、遮光カーテンに包まっている。
「サングラスかけないの?」
「え? あ、うん……職場のロッカーに忘れてきちゃって」と、何やら歯切れの悪い返答なのであった。
職場での胡桃は、いちいち同僚の目の前で「似合うのよ」などと言って自慢げにサングラスをかけて見せていたらしい。ナースの仕事とは言ってもお腹が大きいので、比較的事務的な作業を受け持つようになっていて、直接患者と関わらない時は、サングラス装着のもと仕事をする一方、「あなたの心の闇が見えます」などとふざけていたそうだ。
ある日、患者の使用済みの松葉杖を抱えてエレベーターに乗り込んだ時である。ぱんぱんに膨らむ白衣の四次元ポケットに入れたティファニーのサングラスが、ちょっと屈んだために腹に押されてポケットから飛び出し、運悪くエレベーターに乗り込んできた患者の靴の下敷きになってしまった。
「あ!」焦った胡桃が急いで拾おうとしたところ、バランスを崩し、抱えていた松葉杖の先がそれを直撃した。「あああ!」さらに焦りが増し、よろめいた自分自身が踏みつけてしまったらしい。まるでコントのような本当の話だった。
その後、胡桃はショックで失神寸前だったかどうかはわからないが、すっかり具合が悪くなって、処置用のベッドに、目にタオルを当てて横になっていたそうだ。
「胡桃ちゃん、気分悪いんだったら帰りなさいよ」
主任ナースの杏子さんが優しく言う。
「違うの、帰れない」
「ひとりじゃ帰るの危ないね。ご主人に迎えに来てもらおうか」
「違うの、ダメ! 絶対ダメ」
そして、サングラスひしゃげ事件の顛末を杏子主任に白状したのだ。
「なるほど。で、ご主人には言えないわけね」
「楽くんには絶対言わないでね」
杏子さんは呆れながらも、ぷっと吹き出していた。
ちなみに楽とは僕の名前である。
翌日からサングラスのない作業になる。チカチカと光が出現したらどうしよう。胡桃は考えた。
「そうだ、あれだわ!」
胡桃は毎週土曜、健康な子を産むのだと、マタニティスイミングに通っている。そのスクールで購入した、黒い水中ゴーグルがあった。
「明日からティファニーのサングラスの代わりに水中ゴーグルをつければいいのよ!」
胡桃のその姿を見た者は、職員も患者も怪しまずにいられないし吹き出さずにはいられない。ドクターに至っては、「どうしたんだ、胡桃君は……」と呆気にとられながらも肩を揺らした。
処置室の奥の部屋でひっそりと作業する、水中ゴーグルの怪しいナース、それこそ僕の嫁なのだ。
今、待合室の僕の前に現れた胡桃は、まさにその怪しい姿そのものであった。一瞬戸惑ってはみたものの、ガーベラを抱えた黒い水中ゴーグルの胡桃が面白すぎて、ナース達スタッフの方々に挨拶する前に不覚にも吹き出してしまったのである。
そんな僕を見て、ナース達も堪えていた笑いが吹き出して、大爆笑になってしまった。胡桃だけが不機嫌に取り残されている。
「胡桃ちゃん、ゴーグル外さないの?」
「はっ!」
「もうご主人に見られちゃったんだから、告白しといたら」杏子さんが言った。
「やだ、ダメ! 言えない!」
「ゴーグルしてる時点でバレてると思うよ」
胡桃はゴーグルを外し、とびきり眩しそうな半白目で杏子さんと僕を交互に睨んでいる……やめて、その顔……ぶぶっ
仕方ないわねと、ティファニーのサングラスがスイミングの水中ゴーグルに代わった顛末を、杏子さんが話している間、胡桃は瞬いたり白目にしたり口を尖らせたり泣きそうになったりと、見事な百面相でさらに笑いを巻き起こしてしまった。
それなりの高価な買い物だったし、手に入れてそれほど日にちも経っていない。正直、そりゃ残念だとは思うよ。でも、仕方ないことだし、胡桃が怪我したんじゃないから良かったじゃないか。
ひしゃげたティファニーのサングラスは、うちの中だけなら使えるかもしれないよ……ぐふっ、ダメだ、胡桃がそれを装着したところを想像しただけで笑いが込み上げてくる。
「楽くん、こわしちゃってごめんね」
いまさらながら、得意のカーテンぐるぐる巻きポーズをとりながら胡桃が小さな声で言う。
それより、早くそのチカチカ症状が治まるのが一番だね。
せっかくいただいてきた、その薄紅色のガーベラを飾ろうよ。きっと目も心も穏やかになる。
第六話 おわり
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