代弁者の林檎

仲田憂城

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代弁者の林檎

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 ⿰日肉あさひ彩色玻璃ステインドグラスに翳されて白き軍靴を黒く染上げる。右胸に附けられた星章にゆんでを当て乍ら膝を突き、頭を垂れつつ目を瞑る。彼等軍人サルヂアの平伏する先には偶像あり。大理石を削り為した十字架は、其の交点に打たれた一本の釘で以て大理石の男を支えて居た。神父と敬虔な信徒とが読み上げるは彼の物語である。人に留まらず生命を愛し、無窮の慈悲を心に湛え、其れを畏れず却って恐れた人々が磔にした者の物語である。彼を信じる者はかの発言を経典として記し、又彼に反する者は其れを世迷言と駁す。只信徒らもかの書物を正史とは考えず、唯心の拠り所は此処に有りと一字一句を唱えるのだ。之を盲目だと嘲るか否かは、君に託すこととする。
 滄溟此頃充ち満ちて、伴って十字架を仰ぐ者もた増える。終日ひもねす応対した神父の喉は枯れ果て、さて葡萄酒でも注ごうかと長椅子らを背にした時、俄に懺悔室の戸が閉じた。神父の肩は僅かに揺れ、其の方へ振り返る。先程迄教会の中に人影の一つたりとも無いのを確認したばかりに、不気味さが織り成す緊張は其の心臓の脈動を加速させ、軈て肋骨を靡かせる。本来受付ける可き時間でないが、神父は何より興味から其の部屋の片割れに入ったのだった。神父が腰を下ろしたのを音で以て認識した人物は、途端に口を開いた。潮風のような声を持つ、声色より恐らく青年と思わしき彼の曰く、彼は先の出兵によって負傷し帰国を余儀なくされた軍人サルヂアであり、祖国の為に此力の限りを尽くせず、又其の為に失った同期の桜を思うと不意に涙が込み上げるのだと。祖国か、朋友か、蓋し私は半端者だとそう語った。震える唇は音を紡ぐのに尋常ならぬ時を割き、賛美歌一曲ばかりの時間でただ神父に伝わったのは之のみであったものの、然し時折にして此の木箱の戸を叩く者は此様に舌が回らない。声色が震えるのは其の根が張られたこころが震えているからに他ならないことを神父は知っている。彼の物語の一部始終を聞き終えてすうと息を吸いそして彼に聞こえぬよう吐き、徐に神父はかの書物の一節を唱えた。『曰く、主は愛する者を愛す。寵愛は無形に偽骸を与え、其れを祝福する。故に此の時を悠久のものにする可く、大地を愛し、母を愛し、同朋を愛せ。』更に神父は二、三文神父なりの注釈を付け足して青年を自ずから励精させようと試みた。すると青年は感謝の意を告げ、静かに部屋を出た。決して、神父は彼の背姿を目で追うことは無い。其の秘匿性が故の「懺悔室」であるからだ。唯、神父の心残りは——之は此度の青年に限らず——彼らが経典の曖昧さにある。信ずる処が同じ様に見えて、かの言葉を如何様に受け取るかは各々に委ねられて居るから、深い所で彼らの信条は食い違う。其れを司る神父もた、自らの浅はかな理解で以て人を諭す。然し其れを信徒の大概は理解していないが故に、かの言葉を都合良く組み替える己の愚かさと信徒を騙す様な其の行いに神父は煩悶とするのだ。
 次に青年が教会を訪れたのは潮の干満を二度経て、潰れた桶屋の商品に張った水面を孑孒が埋め尽くした頃である。彼はた他の信徒は愚か神父の注意の範疇さえ超越して何時の間にか部屋に赴き、其の日の片付けを終えた神父を突き動かす。衝立の向こうに居るのが何時かの彼であると声色から理解した時、神父は彼が以前懺悔室を訪れた時のことを鮮明に思い出し、次いで流れる月日を数えて間も無く、彼が尋常の兵務よりいとまを預かり此処に現れたことを理解した。だが、何より神父は総てに対して平等でなくてはならない。此れは信条と言うより、体裁である。故に神父はあくまでも青年の一切を識らないつもりで彼の話を聞き、又彼も神父が自身の素性の一切を知らないつもりで語り出す。其の語り口からは、以前の震えが見る影もなく消えて居り、只寂然と言の葉を紡ぐ。彼は初めに以前負傷し無念の帰国を余儀なくされたことを語り、その後月が二度満ちたのを眺め乍ら療養し、軈て戦線に復帰したことを述べた。彼が任されたのは南の隣国との境の最前線であり、敵の攻撃を一身に受け其れでも尚前進せよと隊長は言う。彼は唯其れに従い、兵戈槍攘の中で剣を掃い槍を折り、想像するに鬼人が如く相成りて、其の甲斐あって我が軍は一晩にして敵国の首都に辿り着いた。王の首を討ち取り一切の資源を我が物とし、さて祖国に戻らんと振り返ると、其処に広がるは彼が築き上げた屍山血河であった。最早其れの単なる一片と為ったものらの一体が、手帳を持って居た。それ自体は何の変哲もない、革の外装を持つ手帳である。寧ろ見る可きは其の頁の間から覗く押し花であった。まさかと思い拾い上げ、はみ出す押し花を栞が如く手帳を広げる。其処に書かれた何篇もの詩、そして添えられた白い雛菊の花。拙さこそ有れど詩は見慣れた言葉で織り成され、雛菊は敵国に無いのを此の争いの中で彼は知って居た。手帳を遡ると言葉の拙さは増して行く。軈て彼が普段用いる表音文字を此の持ち主は此処に繰り返し書き連ねていたことを認めた彼は、口を開き瞬きを忘れ、宛ら案山子の様に一切の身動きを忘れた。彼が今、国に帰り此処に来たのは当然にして贖罪の為である。曰く、我が同朋の朋友に手を掛けたのだと。私は手帳の持ち主は愚か、主の御意思さえも裏切ったのだと語った。神父は聞き終えて先ず、嗚呼尤もだとう言った。君は正しく、『同朋』を手に掛けた。だが其れは何も君に限ったことではない。主は大地を創造し、つがいの人を自身の尺骨より生み出した。禁忌を食んだ二人は神の世より森に放たれ、然し知性で以て元より棲む神子みこらを蹂躙し相交わり群れを成した。其れを見かねた我らが主は大地を滄溟で湛えて我々の祖先を分断したのだ。主は我らに試練を与えた。人は共同圏を築き、言葉を紡ぎ、同朋の意識が芽生えた。君も其の心算でう言ったのだろうが、然し主の考える処としては其の限りでない。主が聖者に伝え世に知らしめる言葉の『同朋』とは、唯己に与する者の事に非ず。浮世に跋扈した神の尺骨其の総て、一切を漏らすことなく皆『同朋』であるのだと。故に聖者は無窮の愛を隔てなく与えた。故に『同朋』殺しは君に限られたことに非ず。だが思い違うな、皆罪を犯すが故におのが罪が軽くなるなどと。皆罪深き神子みこである。そして同時に、主は我々の其の始まりの頃から持つ愚かしさを知っておられる。祈れ。唯、敬虔に祈祷せよ。おのが罪を胸に秘め、十字を切れ。其の心を持つのであれば、主は君を赦し再び御導きを得られる筈だ。君に祝福のあらんことを。
 君達に真実を言おう。神父の答えは青年の求める其れではない。従って——加えて彼はあれやこれやと思い悩む性分たちであったので——其の不満と罪との葛藤は洋盞グラスの中で熱を帯び霧散し、軈て透き通った硝子に無数の罅を付け一切の内容物を隠して了った。打つ可き鋼鉄よりも遥かに熱い彼の心、己のみではもう手を付けることも能わず。た潮が退き、彼らは砂礫を闊歩する。主が我々を分つ前に、我々の共同圏を広げなければならない——『同朋』を増やさなくてはならない。彼は努める。だが其れも虚しく心労により遂に野営を飛び出し祖国に戻った。国を埋め尽くす一面の雛菊はすっかり枯れて居た。汚れた外套の儘、最早傍目を気にすることも無く教会を進み、懺悔室の戸を叩く。神父は——尋常通り告解を受け付ける可く其処に居た——始め今戸を叩き此の部屋を訪れた人物が彼だとは思いもしなかった。あの爽やかな声色は見る影もなかったからだ。其れを知ったのは彼が以前の様に来歴を語り出した時である。粗方語り終えて、神父も又過ぎ去った時間を追憶し、本題に入る。内容はやはり此度の兵役についてであった。今度は東へ赴いた。長い道のりであった。密林を超え、岩山を超え、雪原を経て、未開の地へ到達した。想像を絶する大地の脅威は彼ら軍人サルヂアを散り散りにし、青年の周囲には指折り数えて片手で留まる程であった。寒暖の差に身体を壊し、水筒も丁々ほとほと枯れ果て、彼らは砂の大地に倒れる。嗚呼此処迄かと諦念しさだめを受け入れた次の時、彼は陽の照らす土壁を見た。彼の隊の内の一人を何者かが介抱している。四肢を持ち、胴を持ち、其の先には首があって頭蓋を支えて居る。憂いを湛えた黒き瞳、低い鼻、鮮やかな桃色の厚い唇、首筋を通る細い血管に丸い肩。まるで人間のようであったが、唯、墨を被ったかのような体表を有して居た。青年に気付き其の者は彼に声を掛けるが、今まで出会ったどの言葉とも似つかない最早只の音声は、彼の理解には及ばずとも、届かなかった訳ではない。——悪い気はしなかった。未知の生命、其の不気味さよりも勝ったのは一体何か。恩に報いんとする心か、或いは。兎角に彼らは与えられた月日の暫くを物資の再調達と療養に充てる可く其処での生活を余儀なくされた。緑地オアシスを中心として形成された共同体は、僅か二百歩程の大きさしかなく、又文明の水準も彼ら軍人サルヂアの其れより遥かに劣って居たが、然し此の砂の大地で生き抜く術に関しては他の如何なる生命体よりも秀でて居た。軈て其の一端を学んだ青年らは其の地を後にし、遂に別れた隊の内の一つと合流した。彼らが曰く青年らが安否の判らぬ最後の隊であると。軍隊は再び集い、さて歩みを進めんと声を揃えた。其の先に在るのは緑地オアシスを囲む矮小なる共同圏である。——最早一切の感情を超越した青年は言った。蓋し、彼らも又ヒトではあるまいか。とても私には彼らが我々と種を異とする生命に思えないと。『同朋』殺し、私はた罪を犯し、又其れを止めることも能わず。青年は遂に言葉を止めた。続けて口を開いた神父の曰く、彼らは神子みこであっても『同朋』に非ず。只、恩義に報いんとする其の精神は賛辞を呈す可き、主も祝福を君に与えん。青年は絶望した。嗚呼うかと。幾ら赦しを得ようとも、此の罅は埋まるまい。彼が求むるは唯、理解であった。其れは他人が己を理解するということに非ず。己が腑に落ちる答えを彼は欲して居たのだ。神父のいらへは其れに及ばず、感謝の言葉も彼は忘れて、重い足取りで、それでいて確実に懺悔室から逃げ出した。日は暮れ、つきのでが神父の袖を照らす。嗚呼うかと思い立ち、戸を開くと其処に星章が唯一つ転がっていた。其れを拾い上げ、神父は向かいの戸に入り、幾十の言の葉を並べて、軈て星章で以て始祖の林檎を打ち砕いた。半世紀の末、神父は遂に教えに背いたのである。
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