33 / 33
因果帖
しおりを挟む
伍
閻魔庁。
いま小野篁は、ここで職務に専念していた。閻魔大王の補佐官として、公平と真実を以て死者を裁いている。その多忙な日々はたちまち現世の頃の出来事を忘却の彼方へ押し流していた。
彼がふと現世に心を配ったのは、現世寿命が尽きて一〇余年後のことである。
「良相?」
閻魔庁を訪れたのはまさしく藤原良相であった。
「篁殿、済まぬ」
泣きながら己の未熟を恥じる藤原良相の閻魔帳から、応天門の変や御霊会が有名無実の形式に済まされたことを知り、小野篁は落胆した。
「貴方さまの望みも叶えることが出来ませなんだ。ただただ詫びるしかない」
そう泣き崩れる藤原良相を責めることなど、小野篁には出来なかった。彼は彼なりに、小野篁の約束を果たそうと尽力し続けたのだから……。
「いや、有難う」
閻魔大王は小野篁に協力した功労の者として、藤原良相に再び転生の沙汰を下した。このような美しき心の者こそ、現世は必要としている。そう判断したのである。
「次の世で期待しているよ」
小野篁の言葉は限りなく優しかった。
藤原良相はすぐに人に生まれ変わった。皇室の人間である。文徳天皇の弟宮・時康親王の第七皇子・源朝臣定省である。彼はドロドロと欲望渦巻く現世にあって、まるで泥田に咲く蓮のような人物であった。やがて時康親王が幸運にも帝位を譲り受け
「光孝天皇」
となると、皇太子となり定省親王を名乗り、そして帝位譲渡により
「宇多天皇」
となる。
たぶん藤原良相時代の親小野篁的感情が残っていたのだろう。宇多天皇は藤原氏の門閥政治を嫌って、他氏の柔軟な登用を推進した。かつて小野篁が期待した
「菅原道真」
を重く召し抱えたのが、実はこの宇多天皇なのである。
閻魔庁にあって、人の世に関与することの
「なんと難しきことか」
小野篁はふと、職務の合間にそう閻魔大王に呟いた。生きている者にも、怨霊として留まる者にも、何一つ為すべきことが出来なかった。いま一度転生すればやり直せるなどというのはとんだ思い上りである。こののち幾度となく生まれ直しても、決して、世を変えることなど出来はすまい。
「しかしな、儂はひとつのことに気がついたぞ」
閻魔大王は分厚い閻魔帳を捲りながら
「ほら、これ」
指したのは律令以前の豪族・蘇我馬子の頁である。
「多くを欲望の計りに懸けた罪で、こやつは百年の地獄刑を経て現世へ転生した。こいつは藤原百川に生まれ直して、同じようなことをやった科で、再び地獄送りよ」
「ほんとだ」
蘇我馬子そのものは大陸から仏教を輸入し、多くの学問も同時に取り入れることで、表面的には治世の功があった。しかし、心のどこかで、天皇家を蔑ろとしていた。その行動は、藤原百川として繰り返した業である。
「それに、ほら、こいつも」
次に指したのは、天智天皇の頁である。
「こいつもな、百年の地獄刑を終えて転生した。こいつが現世でいう藤原良房だ。革命を好んで、天皇を風下に置こうとしている」
大化の改新というものの、治世巧者の蘇我蝦夷・入鹿を暗殺して権力を簒奪したのが真相だ。才ある蝦夷を殺して革命に及んだ性分が、転生しても変わらないのだと、閻魔大王は断言した。
「ええと」
「そうだ、結局、すべては繰り返しという訳だ」
ちょっと待てと、小野篁は言葉を遮った。ならば罪を繰り返す者どもがいる限り、怨霊は増え続けるということになる。地獄へ堕ちても、懲りぬ輩を現世へ転生させることは
「なんとも妙な話ではないか!」
「だからよ、儂は考えた」
「?」
「二度も同じ罪を重ねるような奴は、もはや人に生まれることを許さぬと」
「地獄の任期を終えても?」
「ああ。そういう輩は、無間地獄に封じるか、犬畜生に転生させてしまうか……選択の自由だけはくれてやろうと思う」
小野篁は溜息を吐いた。
因果応報とはよくいうが、ここまで鎖は深く縛り付けているものか。
よくよく人間というものは、業深き生きものだ。
「大王」
「ん?」
「よかったですよ」
「何が?」
「わたしは人に在らざる者です。人に在らざる者でよかった」
それだけは自信を持って明言できる小野篁であった。
このとき現世では、未だ宇多天皇の治世が続いている。藤原良相の清らかな魂は、宇多天皇となっても変わりはない。もう、彼には、小野篁への記憶がない。全くの別人だ。それでも、人間の本質は変わることがない。
これが、正しい輪廻転生だと、閻魔大王は説いた。
小野篁も、それを信じた。
こののち、菅原道真が最凶最悪の怨霊になるまで、まだまだ時間が必要であった。
《了》
【参考史料】
◇『新訂増補國史大系・公卿補任 第一篇』 吉川弘文館・刊
【参考文献】
◇「京都発見・一 地霊鎮魂」 梅原 猛・著
新潮社・刊
◇「京都発見・二 路地遊行」 梅原 猛・著
新潮社・刊
◇「京都発見・三 洛北の夢」 梅原 猛・著
新潮社・刊
◇「別冊宝島EX 改訂版・京都魔界めぐり」 宝島社・刊
◇「いまだ解けない日本史の中の恐い話」 三浦 竜・著
青春出版社・刊
◇「新版日本史用語集」 全国歴史教育研究協議会・編
山川出版社・刊
◇「新撰京の魅力 京都・異界をたずねて」 蔵田敏明・文
角野康夫・写真
淡交社・刊
◇「新日本妖怪巡礼団 怪奇の国ニッポン」 荒俣 宏・著
集英社・刊
◇「講談社現代新書 王朝貴族物語」 山口 博・著
講談社・刊
◇「歴史と旅臨時増刊・歴代天皇総覧
昭和60年7月臨時増刊号」
秋田書店・刊
◇「歴史と旅臨時増刊・歴代皇后総覧
平成5年5月臨時増刊号」
秋田書店・刊
◇「歴史と旅増刊・権勢の魔族 藤原一門
平成9年11月増刊号」
秋田書店・刊
◇「歴史読本臨時増刊 特集・天皇家 怨霊秘史!
平成元年6月臨時増刊号」
新人物往来社・刊
閻魔庁。
いま小野篁は、ここで職務に専念していた。閻魔大王の補佐官として、公平と真実を以て死者を裁いている。その多忙な日々はたちまち現世の頃の出来事を忘却の彼方へ押し流していた。
彼がふと現世に心を配ったのは、現世寿命が尽きて一〇余年後のことである。
「良相?」
閻魔庁を訪れたのはまさしく藤原良相であった。
「篁殿、済まぬ」
泣きながら己の未熟を恥じる藤原良相の閻魔帳から、応天門の変や御霊会が有名無実の形式に済まされたことを知り、小野篁は落胆した。
「貴方さまの望みも叶えることが出来ませなんだ。ただただ詫びるしかない」
そう泣き崩れる藤原良相を責めることなど、小野篁には出来なかった。彼は彼なりに、小野篁の約束を果たそうと尽力し続けたのだから……。
「いや、有難う」
閻魔大王は小野篁に協力した功労の者として、藤原良相に再び転生の沙汰を下した。このような美しき心の者こそ、現世は必要としている。そう判断したのである。
「次の世で期待しているよ」
小野篁の言葉は限りなく優しかった。
藤原良相はすぐに人に生まれ変わった。皇室の人間である。文徳天皇の弟宮・時康親王の第七皇子・源朝臣定省である。彼はドロドロと欲望渦巻く現世にあって、まるで泥田に咲く蓮のような人物であった。やがて時康親王が幸運にも帝位を譲り受け
「光孝天皇」
となると、皇太子となり定省親王を名乗り、そして帝位譲渡により
「宇多天皇」
となる。
たぶん藤原良相時代の親小野篁的感情が残っていたのだろう。宇多天皇は藤原氏の門閥政治を嫌って、他氏の柔軟な登用を推進した。かつて小野篁が期待した
「菅原道真」
を重く召し抱えたのが、実はこの宇多天皇なのである。
閻魔庁にあって、人の世に関与することの
「なんと難しきことか」
小野篁はふと、職務の合間にそう閻魔大王に呟いた。生きている者にも、怨霊として留まる者にも、何一つ為すべきことが出来なかった。いま一度転生すればやり直せるなどというのはとんだ思い上りである。こののち幾度となく生まれ直しても、決して、世を変えることなど出来はすまい。
「しかしな、儂はひとつのことに気がついたぞ」
閻魔大王は分厚い閻魔帳を捲りながら
「ほら、これ」
指したのは律令以前の豪族・蘇我馬子の頁である。
「多くを欲望の計りに懸けた罪で、こやつは百年の地獄刑を経て現世へ転生した。こいつは藤原百川に生まれ直して、同じようなことをやった科で、再び地獄送りよ」
「ほんとだ」
蘇我馬子そのものは大陸から仏教を輸入し、多くの学問も同時に取り入れることで、表面的には治世の功があった。しかし、心のどこかで、天皇家を蔑ろとしていた。その行動は、藤原百川として繰り返した業である。
「それに、ほら、こいつも」
次に指したのは、天智天皇の頁である。
「こいつもな、百年の地獄刑を終えて転生した。こいつが現世でいう藤原良房だ。革命を好んで、天皇を風下に置こうとしている」
大化の改新というものの、治世巧者の蘇我蝦夷・入鹿を暗殺して権力を簒奪したのが真相だ。才ある蝦夷を殺して革命に及んだ性分が、転生しても変わらないのだと、閻魔大王は断言した。
「ええと」
「そうだ、結局、すべては繰り返しという訳だ」
ちょっと待てと、小野篁は言葉を遮った。ならば罪を繰り返す者どもがいる限り、怨霊は増え続けるということになる。地獄へ堕ちても、懲りぬ輩を現世へ転生させることは
「なんとも妙な話ではないか!」
「だからよ、儂は考えた」
「?」
「二度も同じ罪を重ねるような奴は、もはや人に生まれることを許さぬと」
「地獄の任期を終えても?」
「ああ。そういう輩は、無間地獄に封じるか、犬畜生に転生させてしまうか……選択の自由だけはくれてやろうと思う」
小野篁は溜息を吐いた。
因果応報とはよくいうが、ここまで鎖は深く縛り付けているものか。
よくよく人間というものは、業深き生きものだ。
「大王」
「ん?」
「よかったですよ」
「何が?」
「わたしは人に在らざる者です。人に在らざる者でよかった」
それだけは自信を持って明言できる小野篁であった。
このとき現世では、未だ宇多天皇の治世が続いている。藤原良相の清らかな魂は、宇多天皇となっても変わりはない。もう、彼には、小野篁への記憶がない。全くの別人だ。それでも、人間の本質は変わることがない。
これが、正しい輪廻転生だと、閻魔大王は説いた。
小野篁も、それを信じた。
こののち、菅原道真が最凶最悪の怨霊になるまで、まだまだ時間が必要であった。
《了》
【参考史料】
◇『新訂増補國史大系・公卿補任 第一篇』 吉川弘文館・刊
【参考文献】
◇「京都発見・一 地霊鎮魂」 梅原 猛・著
新潮社・刊
◇「京都発見・二 路地遊行」 梅原 猛・著
新潮社・刊
◇「京都発見・三 洛北の夢」 梅原 猛・著
新潮社・刊
◇「別冊宝島EX 改訂版・京都魔界めぐり」 宝島社・刊
◇「いまだ解けない日本史の中の恐い話」 三浦 竜・著
青春出版社・刊
◇「新版日本史用語集」 全国歴史教育研究協議会・編
山川出版社・刊
◇「新撰京の魅力 京都・異界をたずねて」 蔵田敏明・文
角野康夫・写真
淡交社・刊
◇「新日本妖怪巡礼団 怪奇の国ニッポン」 荒俣 宏・著
集英社・刊
◇「講談社現代新書 王朝貴族物語」 山口 博・著
講談社・刊
◇「歴史と旅臨時増刊・歴代天皇総覧
昭和60年7月臨時増刊号」
秋田書店・刊
◇「歴史と旅臨時増刊・歴代皇后総覧
平成5年5月臨時増刊号」
秋田書店・刊
◇「歴史と旅増刊・権勢の魔族 藤原一門
平成9年11月増刊号」
秋田書店・刊
◇「歴史読本臨時増刊 特集・天皇家 怨霊秘史!
平成元年6月臨時増刊号」
新人物往来社・刊
2
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる