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第19話 見て見ぬふりをした者、赦さぬ眼差し
しおりを挟む“何もしなかった”という事実が、
ときに――最も深い裏切りになる。
***
名は、レオナ・ミリステル。
かつて王立学会の研修職員だった女。
レイナの父が病に倒れ、立場を追われたあの頃――
彼女は、黙って帳簿を処理していた。
処分を下したわけでも、告発を行ったわけでもない。
ただ、渡された書類に目を通し、言われた通りに“何も書かなかった”。
けれど――彼女は知っていた。
それらが“おかしかった”ことを。
誰よりも早く、誰よりも深く。
「記録に名前を残すな」
「上からの指示だ」
「気にするな、考えすぎだ」
そのたびに、自分に言い聞かせていた。
**「関わらなければ、責任はない」**と。
でも本当は、知っていた。
レイナの父が不当に追われ、
その隙を突くように政敵が台頭していったことを。
証拠が整いすぎていた。
記録が、妙に滑らかに仕上がっていた。
あのとき、誰かが――何かを仕組んでいた。
そして、彼女はそれを“見ていた”。
けれど――見ていないふりをした。
***
今、彼女は王都の片隅に身を寄せていた。
南区の寮にある、薄暗い職員宿舎。
名誉も失わず、罰も受けず。
ただ時間に押し流されるように暮らしていた。
「私は関係ない。ただの書記だった」
壁に向かって、そう呟く癖がついていた。
それは誰かに聞かせる言葉ではない。
ただ、自分自身に返すための――空虚な反響だった。
***
ある日。
彼女の元に、一通の封書が届く。
無記名、無地。香りもない。
けれど、そこには“気配”があった。
封を開ける。
中には、たった一文――
『あなたは、何を見て、何を見なかったのですか?』
質問の形をしていたが、答えなど求めていなかった。
それは、赦しを装った断罪だった。
同封されていた帳簿。
――かつての職場で、自らが触れた資料の写し。
廃棄されたはずの記録。
けれど、そこに記されていた。
《当時の書記補佐:レオナ・ミリステル》
目が止まる。呼吸が詰まる。
心臓が、何かに掴まれたように跳ねた。
「なぜ……私の名前が、まだ……」
紙を握りしめる手が震える。
けれど、思い出してしまった。
封じた記憶の底に、確かにあった“事実”――
知っていたのに、黙っていた――それだけだった。
***
その夜。グレイド村。
レイナは報告を聞きながら、静かに微笑んでいた。
「見ているだけの人間ほど、よく覚えているものよ。
何も言わなかったその沈黙が――
あとから、いちばん刺さるの」
セレノが、淡く頷く。
「彼女には、言葉は不要です。
ただ、“思い出させるだけ”で――十分に崩れます」
レイナは目を伏せ、紅茶に口をつけた。
「沈黙ってね、誰の味方もしない。
でも――あのときの沈黙だけは、私を殺したのよ」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、澱のように冷えた結論だけがあった。
***
翌日。王都。
レオナはふらつく足取りで、旧図書塔の裏手に向かった。
鍵はまだ使えた。
薄暗い書庫。忘れられた棚の隙間。
彼女はそこに、紙片を一枚差し込んだ。
誰にも見られないように。誰にも知られないように。
《私は、知っていた。だが、何もしなかった》
それは懺悔でも、告白でもなかった。
ただ――**自分が生きてきた“記録”**だった。
「……私は、生きていていいのかな」
誰にともなく呟いたその声に、返事はなかった。
けれど、風が一枚の紙を床に落とす。
それは、もう一通の手紙。
白ではない。灰のような封筒。
中には、一行だけ。
『私は、あなたを赦さない。
けれど――あなたが“あなたを赦せる”なら、それでいい』
その言葉に、レオナは膝をついた。
崩れるように、力が抜けた。
それは裁きではなかった。
罰でも、断罪でもなかった。
けれど――
それ以上に、残酷だった。
**“目をそらさせない眼差し”**だった。
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