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第39話 仮面舞踏の夜に
しおりを挟む仮面――
それは人の本性を隠す道具であり、同時に、
本性をさらけ出すことを許す、最も上等な免罪符でもあった。
そして今宵、王都で最も華やかな宮殿の一角で、年に一度の“夜宴”が幕を開ける。
シャンデリアは光の雫のように垂れ、
花と酒の香りが交わり、空間を満たしていた。
貴族たちは精巧な仮面をまとい、笑みを浮かべながらも、
心の奥では計算と欲望に狂奔していた。
すべてが演技、すべてが虚飾。
だが、この夜だけは――それが“許される”。
***
レイナ・ヴェルシュタインは、夜宴の中央に立っていた。
深紅のドレスに、漆黒のリボン。
背中は大胆に開かれ、右半分を覆う白銀の仮面が光を跳ね返すたび、
彼女の瞳に宿る冷気が、いっそう際立つ。
まるで――氷の彫像に、心臓だけを与えられたような女。
その傍らに立つのが、セレノ。
漆黒の燕尾服に、無装飾の仮面。
それは顔を隠すためではなく、鋭い双眸と沈黙を際立たせるための仮面だった。
無口なその男の姿に、幾人もの視線が泳ぎ、そして逸れていった。
***
「……“あの女”は来ると思うか?」
セレノの低い声が、舞踏の旋律の裏で響いた。
レイナは仮面越しにグラスを揺らし、笑みを浮かべる。
「来るわ。仮面がある限り、人は“許される”と錯覚する。
自分の醜さを隠して、思う存分に他人を貶められると信じている」
「つまり、自ら炎の中に飛び込むと?」
「ええ。獣は、誘われれば牙を見せる。
今夜はそれを――暴くだけ」
この夜は、“処刑”の舞台。
静かに、獲物の足元を崩すための夜だった。
***
舞踏が始まり、一時間ほどが過ぎた頃。
広間の奥で、突如、男の叫び声が上がった。
床に倒れていたのは、商会の若き後継者。
赤い酒の残るグラスから、かすかな異臭が立ちのぼる。
「毒……?」
ざわめく会場。
だが、その中でただ一人、動じない女がいた。
――レイナ。
人々が道を空ける中を、彼女は静かに歩く。
倒れた男に膝を屈め、一瞥だけで言い放った。
「この男は、“この場にふさわしくなかった”だけ。
仮面の裏で蠢く思惑に呑まれる程度の器だったというだけのこと」
空気が凍りつく。
レイナの視線が、ある一点を射抜いた。
青い仮面の女――リゼリア公爵家の三女、アレシア。
一歩、後ずさるアレシアの唇が震える。
「貴女……まさか、これは——」
「“まさか”じゃないわ」
レイナは仮面の奥から微笑み、
視線だけでセレノに合図を送った。
直後、会場の明かりが落ちる。
一筋の光が、アレシアを照らし出す。
驚いた彼女が身を引いた瞬間、仮面の留め具が外れ――半分が床に落ちた。
白く整った顔。
その奥に浮かぶのは、恐怖と後悔と……理解。
「貴女が私の“過去”を知っていた。
それが、貴女を処刑に値する理由としては、充分すぎるのよ」
その言葉の裏に、いくつもの“死”の気配が潜んでいた。
アレシアの顔から、血の気が引いていく。
「……私は……なにも……」
「言い訳は不要。
これは処罰ではない。“正しさ”の証明よ」
沈黙。
レイナはゆっくりと視線を巡らせた。
だが、誰もその目を受け止めようとはしなかった。
「この夜の真の目的は、ただ一つ。
“誰が仮面を剥がされるべきか”を、示すこと」
そう言って、彼女はアレシアのもとへと歩み寄る。
「仮面をつけて、何を隠していたの?
貴女の卑しさ? 裏切り?
それとも――誇りを捨てた女の、末路かしら」
その瞬間、舞踏会の空気が崩れた。
「祝福してあげる。
これは“処刑命令”じゃない――
ただ、貴女の“本当の顔”を、この夜に晒してあげるだけ。
……それが、私からの慈悲よ」
レイナは背を向けた。
“名指し”は終わった。
――次は、“実行”の段階である。
***
セレノは、ただ静かにその背中を見送っていた。
その足取り、所作、呼吸。
すべてが計算され、すべてが冷たく、美しかった。
仮面をつけていないその男の横顔には、何も刻まれていなかった。
白磁のような輪郭。
凍てついた湖を思わせる瞳。
その沈黙の奥にあるのは、“人ではない何か”の静けさだった。
「……貴女はもう、人ではないのですね」
その呟きは、誰にも届かないほど小さく。
だが、彼の目の奥に浮かんでいたのは――
恐れでも驚きでもなく、
ただ一瞬の、“名もなき哀惜”だった。
***
夜が明ける。
仮面の夜が終わる。
だが、その夜に暴かれた“顔”は――二度と戻らない。
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