百目探偵事務所

てふてふ

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東京妖怪失踪事件編

第三章 : 拝殿の影にて

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 夜明け前の空は、まだ墨を溶いたように重たく、街の輪郭を黒く沈めていた。
 風は動かず、音も鳴らず、灯りさえもどこか遠くに置き去りにされている。
 人も鳥も、夢の奥でまどろんでいた。

 けれど、俺だけが目覚めていた。
 眠れなかったわけじゃない。
 ただ、目を閉じている間にも、右目の奥が、じわりじわりと疼いていた。

 台所の灯りだけが、ぽつりと静かに揺れている。
 白い湯気が、鍋の縁から細く立ちのぼる。
 おにぎりを握る手が熱くて、少しだけ汗ばむ。
 梅と昆布。塩は控えめ。
 味噌汁には豆腐と刻んだ葱を入れた。
 出汁は昨夜のうちに引いておいた。自分にできる、ほんの小さなこと。

 昨日、百目は机に沈んでいた。
 三十を超える視線を同時に維持し、ひとつの頭でそれを処理しきれず、まるで熱にうなされているようだった。
 飛頭蛮は書類を抱えて静かに歩き、以津真天は誰かに噛みつくような声を撒き散らしていた。
 雲外鏡の姿は見えなかった。きっと、あちこちへ呼ばれていたのだろう。
 鎌鼬は……いつも通り、唐突にどこかへ出ていったままだ。

 誰も、ちゃんと休んでいなかった。

 だから、せめて。
 温かいものを渡したかった。
 それだけが、俺にできる唯一のことだった。

 

 紙袋を抱えて外に出ると、空気が肌に張り付いた。
 冷たいわけじゃない。けれど、乾いた膜のような感触が皮膚の上に居座っている。

 路地を抜けて、探偵事務所の前に立つ。
 木の戸は閉じられたまま。マヨイガも眠っているようだった。
 風鈴が、鈍くひとつだけ揺れた。

 戸の前に包みを置き、手を離す。
 木肌は冷えていた。
 触れた指先に、夜の名残が吸い込まれていくようだった。

(……まだ、みんな寝てるな)

 そう思って、音を立てないようにその場を離れる。
 静かに、静かに、坂道を下っていった。

 大学へ向かう道は、何度も通ったはずだった。
 けれど、今朝は妙に、石畳の色が鈍く見えた。
 まだ明けきらぬ空のせいか、それとも──別の理由か。

 空気がざらついていた。
 そう感じた、その時だった。


「……そこの、お主」

 その声は、不意に耳を打った。

 背後から放たれたその声は、静けさのなかに一筋の裂け目を作った。
 反射的に振り返る。

 そこに立っていたのは、僧だった。

 黒い法衣に旅装束。手には鈍く光る錫杖を携えていた。
 草履の足元は夜露に濡れ、裾から覗く布にはうっすらと土の色が染みている。
 額には汗ひとつ浮いていなかった。
 髪は青い。短く刈られており、朝の淡い光をわずかに弾いていた。
 顔立ちは中年のもの。けれど、その肌には老いが見られず、どこか“仮の顔”のようにも見えた。

 そして、目。

 その“瞳”だけが異質だった。
 少年のような純度の高い熱を湛えながら、同時に、何かを焼き尽くした後のような乾いた光を宿していた。

「お主……“魔”に魅入られておるな?」

 意味を問う間もなく、錫杖が振り上げられた。

 金属の鈍い響きが空気を裂く。
 反射的に飛び退いた俺の頬を、風が裂いていった。

「ちょ、ちょっと待っ──!」

 刹那、世界が切り替わった。
 数秒前まで確かにあったはずの“朝”が、どこか遠くに吹き飛ばされていく。

 錫杖の先端が、確かに殺意を帯びて振り下ろされていた。
 言葉など必要ないというほどに、その動きは迷いがなかった。

「逃がすかよ!!」

 叫びが追ってくる。
 声は若い。いや、若すぎる。

 中年の顔と、少年の声。
 釣り合っていない。

(なんなんだ、あれは……)

 足が勝手に動いていた。
 振り返らず、ただ地を蹴る。
 石畳が滑り、錫杖が後ろから石を叩く音が、一定の間隔で迫ってくる。

「その右目は、“我が旧友”の物!
 魔を視る目は、人の身にあってはならんのだ!」

 言葉が、追いすがるように背中を撃ちつけてくる。
 まるで呪文のように。

「その目、魔性を孕んだその目! 拙僧は“それ”を奪わねばならぬ! 貴様の命ごと!」

 何を言っているのか、理解はできなかった。
 けれど、殺意だけは明確だった。
 右目が狙われている。それだけは、体が先に察知していた。

「知らない人に“孕んだ”とか言われるの、人生で一番怖い!!」

 息が荒れる。喉が焼ける。
 肺が熱を帯び、足元が霞んで見えた。

 止まれば殺される──それだけは、全身で理解していた。

 視界の端に、朱の柱が見えた。

 鳥居。

 朝靄のなか、神社が静かに沈んでいた。
 石段が霧に濡れ、境内には誰の気配もなかった。

 けれど、不思議と空気がやわらかかった。
 あの男の追跡からは隔てられているような、そんな錯覚があった。

 無意識に、俺の足はそちらへ向かっていた。
 逃げなきゃ。とにかく、ここから離れなきゃ。

 石段を駆け上がる。
 朝露に濡れた足が滑りそうになる。
 それでも、走った。

 背後で、錫杖の音が止まらなかった。
 重く、確かな音が、俺の恐怖を追い立ててくる。

「誰か――! 誰でもいいから、助けてくれッ!」

 声が境内に響いた。
 ひとりきりの神社に、あまりにも無様に響いた。

 それでも、叫ばずにはいられなかった。

 その時だった。
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