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第一話 甘い手榴弾と、ガラスの箱の向こう側
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モーターが焼きつくような駆動音と、ワイヤーが擦れる高い音が鼓膜を叩く。
重力という巨大な手が、俺の足首を掴んで地面へと引きずり下ろそうとしていた。
「……くっ、そ……!」
俺は歯を食いしばり、右手首に装着した射出機(ランチャー)のトリガーを引き絞る。
シュンッ、という風切り音と共に、鋼鉄のフックが頭上の梁(はり)へと食い込んだ。強度は確認済みだ。俺は腹筋に力を込め、空中に放り出された体を振り子のようにスイングさせる。
眼下には、アメリカ国立統合救助アカデミー、通称『レスキュー・ハイ』の広大なキャンパスが広がっていた。
四方を巨大な四つの寮に囲まれ、中央にそびえ立つこの要塞のような校舎は、世界最高峰のレスキュー隊員を養成するための場所だ。
俺がいるのは、地上三十メートル。コンクリートの外壁だ。
視線のすぐ右側には、校舎の中央を貫く巨大なガラスの筒――シースルーエレベーターと、優雅な螺旋を描くエスカレーターが見える。
ガラスの向こう側では、仕立ての良い制服を着た連中が、優雅に談笑しながら登校していた。
通称『ゴールデン・キッズ』。
最新鋭の装備と、親の分厚い財布を持ったエリートたちだ。彼らは空調の効いたガラスの箱の中で、昨夜のパーティーの話や、新しいドローンのスペックについて語り合っているのだろう。
彼らと目が合った。
ガラス越しに、蔑むような視線が突き刺さる。
「おい見ろよ、壁に虫がへばりついてるぞ」
「清掃員? いや、あれは一年生の……」
聞こえなくても、口の動きで分かる。
俺は額に浮いた汗を袖で拭い、心の中で中指を立てた。
(……おはよう、お坊ちゃんたち。あいにくだが、災害現場にエスカレーターは設置されちゃいないんだよ)
俺は別に、エレベーターを使えないわけじゃない。生徒証をかざせば、あの快適な箱は俺を最上階まで運んでくれる。
だが、俺は使わない。
これは訓練だ。
いつか来る「その時」のために、俺は自分の腕一本で高みを掴まなきゃならない。それに――
(ピーター・パーカーなら、もっとスムーズに登るはずだ)
俺はニヤリと笑い、再びワイヤーを巻き上げた。
映画の中の親愛なる隣人は、こんな無骨な機械仕掛けじゃなく、手首から糸を出して摩天楼を舞う。それに比べれば俺の姿は、蜘蛛というよりは蓑虫(みのむし)に近いかもしれない。
それでも、自分の力で重力に逆らう感覚は悪くない。
最上階のテラスへ飛び移り、ハーネスを外す。
息を整え、制服の乱れを直す。袖口からは、機械油の鉄臭さと、甘ったるいカカオの香りが混じった、奇妙な匂いがした。
俺の名前はレオ。
十五歳。
このエリート校における、唯一無二の「異物」だ。
ー
俺がこの学校に入学できたのは、奇跡か、あるいは事務局の手違いだと言われている。
筆記試験の成績は中の下。体力測定は平均的。
だが、俺には武器があった。
数ヶ月前。入学手続きの一環として行われた、特別技能認定の面接。
相手は、本校で最も厳しいと言われる数学教授、マダム・カレンだった。
彼女のデスクの上には、俺が持ち込んだ小さな箱が置かれている。
「……3Dプリンター製?」
カレン教授は、銀縁眼鏡の奥から冷ややかな目を向けた。
箱の中には、二つの物体が入っている。
一つは、表面がつやつやと輝く球体のチョコレート(A面)。
もう一つは、幾何学的な穴が空けられた、四角いハードクッキー(B面)。
俺は緊張で乾いた喉を鳴らし、直立不動で答えた。
「いえ、ハンドメイド……であります、マダム。いや、先生。テンパリング……温度管理に関しては、その、俺は……僕は、教会の信徒よりマジメにやりました。……です」
慣れない敬語が口の中で絡まる。
俺のような、スラム一歩手前の街で育った人間に、上品な言葉遣いは高度な外国語のようなものだ。だが、ここで失敗すれば退学、すなわち「死」が待っている。
「手作業?」
カレン教授は眉をひそめ、ルーペを取り出した。
彼女の細い指が、球体のチョコをつまみ上げる。そして、それをクッキーの穴へと押し込んだ。
カチャリ。
まるで精密機械の部品が噛み合うような、硬質な音が響いた。
チョコとクッキーは完全に一体化し、振っても外れない。それどころか、複数のクッキーを繋ぎ合わせれば、鎖(チェーン)のような可動構造すら作り出せる。
名付けて『チェーン・バイト』。
「……狂いのない幾何学ね。カカオバターの結晶化温度と、小麦粉の焼成による収縮率。それらを完全に計算しなければ、この『嵌合(かんごう)』は成立しない」
カレン教授の声色が、わずかに変わった。
彼女は料理を見ているのではない。
俺の指先にある「エンジニアリング」を見ているのだ。
「これは料理じゃない。建築よ」
彼女はそう断言すると、結合したそれを躊躇なく口に放り込んだ。
サクッ、という音と共に、甘い香りが部屋に広がる。
「あざーす……いや、光栄です。味も保証します。食べるのが惜しくなるのが欠点……かも、しれませんが」
「美味しいわ。証拠隠滅にはもってこいね」
彼女はナプキンで口元を拭うと、手元の書類にサラサラとサインをした。
「数学Ⅰと幾何学の単位は免除。あんたに必要なのは計算ドリルじゃないわ」
俺の心臓が早鐘を打つ。
やった。これで時間が作れる。
「マジですか! ……じゃあ、俺に必要なのは?」
「風呂に入る時間よ」
カレン教授は顔をしかめ、手で鼻を仰ぐ仕草をした。
「……ココアと、三日寝てない野良犬の臭いがするわ」
俺はとっさに自分の袖の匂いを嗅ぎ、バツが悪そうに鼻をこする。
確かに、昨夜のバイト――地下配管の清掃作業――の匂いが残っているかもしれない。
「……善処します。先生」
俺は不格好な敬礼をした。
彼女は呆れたように息を吐きながらも、その目には微かな笑みがあった気がした。
ー
単位免除(エグゼンプション)。
それはエリートたちが「より高度な研究」に時間を費やすための特権だ。
だが、俺にとっての意味は違う。
俺にとっての免除とは、「労働許可証」だ。
放課後。
他の生徒たちが部活動や自主トレに励む中、俺は作業着に着替え、校舎の地下へと潜る。
今日の現場は、第三機材倉庫の搬入作業だ。
「おいレオ! そのコンテナ、あと三つ積み上げろ! 五分でな!」
「イエス・サー! ……任せてください、ボス!」
現場監督の怒号に、俺は威勢よく答える。
五十キロはある救助用機材の入ったコンテナを背負い、階段を駆け上がる。
きつい。筋肉が悲鳴を上げる。
だが、これも訓練だと思えば悪くない。レスキューの現場じゃ、瓦礫を背負って走ることもあるだろう。そう自分に言い聞かせなければ、やってられない。
俺の父親はすでに死んでいる。
母親は……まあ、「リリース(解放)」されたと言うべきか。
半年分の学費と寮費だけを振り込み、「あとはあなたたちで何とかして」という置手紙を残して消えた。
俺と、十歳の弟・トビーを残して。
だから俺には金が必要だ。
この学校の寮にいれば雨風はしのげるが、飯代や日用品までは出ない。
俺がこうして汗と油にまみれて働くのは、弟にひもじい思いをさせないためだ。
「ほらよ、レオ。今日の日当だ」
作業終わり、監督から封筒を受け取る。
薄っぺらい封筒だが、中身は俺たちの命綱だ。
「あざーっす! ……あ、ありがとうございます!」
「お前も物好きだな。特待生なら、もっと楽な生き方があるだろうに」
「これが俺のスタイルなんで。……です」
俺は封筒をポケットにねじ込み、コンビニへと走った。
廃棄寸前で割引シールが貼られたパンと、牛乳。それから、トビーが欲しがっていた新しいノートを一冊。
あいつは中等部に入ったばかりだ。兄貴の俺がボロ着を着ているのはファッションで誤魔化せても、弟に惨めな思いはさせたくない。
ー
寮に戻ったのは、消灯時間の少し前だった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に囲まれた、狭い二人部屋。
二段ベッドの下段で、トビーが膝を抱えて本を読んでいた。
「ただいま。……起きてたか」
「おかえり、兄ちゃん」
トビーが顔を上げる。
俺と同じ色の髪、俺よりずっと素直な瞳。
あいつは俺の姿を見ると、鼻をくんくんと動かした。
「……また機械の油の匂いがする。お菓子作りじゃなくて、機械いじりしてたの?」
「まあな。今日は配管の点検……みたいなもんだ」
嘘は言っていない。倉庫整理も、広い意味では点検だ。
俺は買ってきたパンとノートを、トビーの膝の上に放り投げた。
「わっ。……これ、新品のノート? 僕、裏紙の束でいいって言ったのに」
「バカ言え。レスキュー隊員は装備をケチっちゃいけない。お前の脳みそを記録するノートなら、新品じゃなきゃダメだ」
「……兄ちゃんこそ、制服のサイズ合ってないじゃん。袖、つんつるてんだよ」
トビーは嬉しそうにノートを撫でながら、心配そうに俺を見る。
「これはファッションだ。足が長く見えるだろ? それに、俺はまだ成長期だ。来年にはちょうど良くなる……はずだ」
「……兄ちゃんの嘘つき」
トビーは小さく笑った。
俺もつられて苦笑いする。
こいつの笑顔が見られれば、重いコンテナを運んだ疲れも少しはマシになる。
「母さん、今どこにいるのかな」
ふと、トビーが呟いた。
部屋の空気が少しだけ冷たくなる。
「ハワイか、地獄の一丁目か。……どっちにしろ、今の俺たちには関係ない場所だ」
俺は強がって言い放つ。
本当は、不安がないわけじゃない。もし俺が倒れたら。もし学校を追い出されたら。
俺たちは路頭に迷う。
「俺たちにあるのは、この部屋と、明日の朝飯だけだ。……それで十分だろ?」
「うん。……兄ちゃんがいれば、まあ、いいや」
「『まあ』は余計だ」
俺はトビーの頭を乱暴に撫で回し、二段ベッドの上へと登った。
硬いマットレスに体を預けると、泥のような眠気が襲ってくる。
窓の外には、校舎の明かりが見える。
あの光の向こうには、何不自由なく暮らすエリートたちがいる。
だが、俺は負けない。
フック一本で壁を登り、砂糖と小麦粉で大人たちを黙らせ、泥水をすすってでも生き延びてやる。
俺は天井に向かって、指でピストルの形を作った。
「見てろよ、クソッタレな運命。……あ、失礼。神様、今の言葉は取り消します。……です」
俺たちの長い学校生活は、まだ始まったばかりだ。
重力という巨大な手が、俺の足首を掴んで地面へと引きずり下ろそうとしていた。
「……くっ、そ……!」
俺は歯を食いしばり、右手首に装着した射出機(ランチャー)のトリガーを引き絞る。
シュンッ、という風切り音と共に、鋼鉄のフックが頭上の梁(はり)へと食い込んだ。強度は確認済みだ。俺は腹筋に力を込め、空中に放り出された体を振り子のようにスイングさせる。
眼下には、アメリカ国立統合救助アカデミー、通称『レスキュー・ハイ』の広大なキャンパスが広がっていた。
四方を巨大な四つの寮に囲まれ、中央にそびえ立つこの要塞のような校舎は、世界最高峰のレスキュー隊員を養成するための場所だ。
俺がいるのは、地上三十メートル。コンクリートの外壁だ。
視線のすぐ右側には、校舎の中央を貫く巨大なガラスの筒――シースルーエレベーターと、優雅な螺旋を描くエスカレーターが見える。
ガラスの向こう側では、仕立ての良い制服を着た連中が、優雅に談笑しながら登校していた。
通称『ゴールデン・キッズ』。
最新鋭の装備と、親の分厚い財布を持ったエリートたちだ。彼らは空調の効いたガラスの箱の中で、昨夜のパーティーの話や、新しいドローンのスペックについて語り合っているのだろう。
彼らと目が合った。
ガラス越しに、蔑むような視線が突き刺さる。
「おい見ろよ、壁に虫がへばりついてるぞ」
「清掃員? いや、あれは一年生の……」
聞こえなくても、口の動きで分かる。
俺は額に浮いた汗を袖で拭い、心の中で中指を立てた。
(……おはよう、お坊ちゃんたち。あいにくだが、災害現場にエスカレーターは設置されちゃいないんだよ)
俺は別に、エレベーターを使えないわけじゃない。生徒証をかざせば、あの快適な箱は俺を最上階まで運んでくれる。
だが、俺は使わない。
これは訓練だ。
いつか来る「その時」のために、俺は自分の腕一本で高みを掴まなきゃならない。それに――
(ピーター・パーカーなら、もっとスムーズに登るはずだ)
俺はニヤリと笑い、再びワイヤーを巻き上げた。
映画の中の親愛なる隣人は、こんな無骨な機械仕掛けじゃなく、手首から糸を出して摩天楼を舞う。それに比べれば俺の姿は、蜘蛛というよりは蓑虫(みのむし)に近いかもしれない。
それでも、自分の力で重力に逆らう感覚は悪くない。
最上階のテラスへ飛び移り、ハーネスを外す。
息を整え、制服の乱れを直す。袖口からは、機械油の鉄臭さと、甘ったるいカカオの香りが混じった、奇妙な匂いがした。
俺の名前はレオ。
十五歳。
このエリート校における、唯一無二の「異物」だ。
ー
俺がこの学校に入学できたのは、奇跡か、あるいは事務局の手違いだと言われている。
筆記試験の成績は中の下。体力測定は平均的。
だが、俺には武器があった。
数ヶ月前。入学手続きの一環として行われた、特別技能認定の面接。
相手は、本校で最も厳しいと言われる数学教授、マダム・カレンだった。
彼女のデスクの上には、俺が持ち込んだ小さな箱が置かれている。
「……3Dプリンター製?」
カレン教授は、銀縁眼鏡の奥から冷ややかな目を向けた。
箱の中には、二つの物体が入っている。
一つは、表面がつやつやと輝く球体のチョコレート(A面)。
もう一つは、幾何学的な穴が空けられた、四角いハードクッキー(B面)。
俺は緊張で乾いた喉を鳴らし、直立不動で答えた。
「いえ、ハンドメイド……であります、マダム。いや、先生。テンパリング……温度管理に関しては、その、俺は……僕は、教会の信徒よりマジメにやりました。……です」
慣れない敬語が口の中で絡まる。
俺のような、スラム一歩手前の街で育った人間に、上品な言葉遣いは高度な外国語のようなものだ。だが、ここで失敗すれば退学、すなわち「死」が待っている。
「手作業?」
カレン教授は眉をひそめ、ルーペを取り出した。
彼女の細い指が、球体のチョコをつまみ上げる。そして、それをクッキーの穴へと押し込んだ。
カチャリ。
まるで精密機械の部品が噛み合うような、硬質な音が響いた。
チョコとクッキーは完全に一体化し、振っても外れない。それどころか、複数のクッキーを繋ぎ合わせれば、鎖(チェーン)のような可動構造すら作り出せる。
名付けて『チェーン・バイト』。
「……狂いのない幾何学ね。カカオバターの結晶化温度と、小麦粉の焼成による収縮率。それらを完全に計算しなければ、この『嵌合(かんごう)』は成立しない」
カレン教授の声色が、わずかに変わった。
彼女は料理を見ているのではない。
俺の指先にある「エンジニアリング」を見ているのだ。
「これは料理じゃない。建築よ」
彼女はそう断言すると、結合したそれを躊躇なく口に放り込んだ。
サクッ、という音と共に、甘い香りが部屋に広がる。
「あざーす……いや、光栄です。味も保証します。食べるのが惜しくなるのが欠点……かも、しれませんが」
「美味しいわ。証拠隠滅にはもってこいね」
彼女はナプキンで口元を拭うと、手元の書類にサラサラとサインをした。
「数学Ⅰと幾何学の単位は免除。あんたに必要なのは計算ドリルじゃないわ」
俺の心臓が早鐘を打つ。
やった。これで時間が作れる。
「マジですか! ……じゃあ、俺に必要なのは?」
「風呂に入る時間よ」
カレン教授は顔をしかめ、手で鼻を仰ぐ仕草をした。
「……ココアと、三日寝てない野良犬の臭いがするわ」
俺はとっさに自分の袖の匂いを嗅ぎ、バツが悪そうに鼻をこする。
確かに、昨夜のバイト――地下配管の清掃作業――の匂いが残っているかもしれない。
「……善処します。先生」
俺は不格好な敬礼をした。
彼女は呆れたように息を吐きながらも、その目には微かな笑みがあった気がした。
ー
単位免除(エグゼンプション)。
それはエリートたちが「より高度な研究」に時間を費やすための特権だ。
だが、俺にとっての意味は違う。
俺にとっての免除とは、「労働許可証」だ。
放課後。
他の生徒たちが部活動や自主トレに励む中、俺は作業着に着替え、校舎の地下へと潜る。
今日の現場は、第三機材倉庫の搬入作業だ。
「おいレオ! そのコンテナ、あと三つ積み上げろ! 五分でな!」
「イエス・サー! ……任せてください、ボス!」
現場監督の怒号に、俺は威勢よく答える。
五十キロはある救助用機材の入ったコンテナを背負い、階段を駆け上がる。
きつい。筋肉が悲鳴を上げる。
だが、これも訓練だと思えば悪くない。レスキューの現場じゃ、瓦礫を背負って走ることもあるだろう。そう自分に言い聞かせなければ、やってられない。
俺の父親はすでに死んでいる。
母親は……まあ、「リリース(解放)」されたと言うべきか。
半年分の学費と寮費だけを振り込み、「あとはあなたたちで何とかして」という置手紙を残して消えた。
俺と、十歳の弟・トビーを残して。
だから俺には金が必要だ。
この学校の寮にいれば雨風はしのげるが、飯代や日用品までは出ない。
俺がこうして汗と油にまみれて働くのは、弟にひもじい思いをさせないためだ。
「ほらよ、レオ。今日の日当だ」
作業終わり、監督から封筒を受け取る。
薄っぺらい封筒だが、中身は俺たちの命綱だ。
「あざーっす! ……あ、ありがとうございます!」
「お前も物好きだな。特待生なら、もっと楽な生き方があるだろうに」
「これが俺のスタイルなんで。……です」
俺は封筒をポケットにねじ込み、コンビニへと走った。
廃棄寸前で割引シールが貼られたパンと、牛乳。それから、トビーが欲しがっていた新しいノートを一冊。
あいつは中等部に入ったばかりだ。兄貴の俺がボロ着を着ているのはファッションで誤魔化せても、弟に惨めな思いはさせたくない。
ー
寮に戻ったのは、消灯時間の少し前だった。
コンクリート打ちっぱなしの壁に囲まれた、狭い二人部屋。
二段ベッドの下段で、トビーが膝を抱えて本を読んでいた。
「ただいま。……起きてたか」
「おかえり、兄ちゃん」
トビーが顔を上げる。
俺と同じ色の髪、俺よりずっと素直な瞳。
あいつは俺の姿を見ると、鼻をくんくんと動かした。
「……また機械の油の匂いがする。お菓子作りじゃなくて、機械いじりしてたの?」
「まあな。今日は配管の点検……みたいなもんだ」
嘘は言っていない。倉庫整理も、広い意味では点検だ。
俺は買ってきたパンとノートを、トビーの膝の上に放り投げた。
「わっ。……これ、新品のノート? 僕、裏紙の束でいいって言ったのに」
「バカ言え。レスキュー隊員は装備をケチっちゃいけない。お前の脳みそを記録するノートなら、新品じゃなきゃダメだ」
「……兄ちゃんこそ、制服のサイズ合ってないじゃん。袖、つんつるてんだよ」
トビーは嬉しそうにノートを撫でながら、心配そうに俺を見る。
「これはファッションだ。足が長く見えるだろ? それに、俺はまだ成長期だ。来年にはちょうど良くなる……はずだ」
「……兄ちゃんの嘘つき」
トビーは小さく笑った。
俺もつられて苦笑いする。
こいつの笑顔が見られれば、重いコンテナを運んだ疲れも少しはマシになる。
「母さん、今どこにいるのかな」
ふと、トビーが呟いた。
部屋の空気が少しだけ冷たくなる。
「ハワイか、地獄の一丁目か。……どっちにしろ、今の俺たちには関係ない場所だ」
俺は強がって言い放つ。
本当は、不安がないわけじゃない。もし俺が倒れたら。もし学校を追い出されたら。
俺たちは路頭に迷う。
「俺たちにあるのは、この部屋と、明日の朝飯だけだ。……それで十分だろ?」
「うん。……兄ちゃんがいれば、まあ、いいや」
「『まあ』は余計だ」
俺はトビーの頭を乱暴に撫で回し、二段ベッドの上へと登った。
硬いマットレスに体を預けると、泥のような眠気が襲ってくる。
窓の外には、校舎の明かりが見える。
あの光の向こうには、何不自由なく暮らすエリートたちがいる。
だが、俺は負けない。
フック一本で壁を登り、砂糖と小麦粉で大人たちを黙らせ、泥水をすすってでも生き延びてやる。
俺は天井に向かって、指でピストルの形を作った。
「見てろよ、クソッタレな運命。……あ、失礼。神様、今の言葉は取り消します。……です」
俺たちの長い学校生活は、まだ始まったばかりだ。
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