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【雌伏・覚醒編】
鞍馬の夜、千年の悪夢から醒めて
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意識が浮上する直前、最後に見た光景は、現代日本の無機質な天井と、点滅する蛍光灯だった。
深夜の交差点。
トラックのヘッドライト。
急ブレーキの音と、身体が砕ける鈍い衝撃。
薄れゆく意識の中で、俺は握りしめていた文庫本――『源義経の謎』が、自分の血で赤く染まっていくのをボンヤリと眺めていた。
(ああ、まだ読みかけだったのに……)
俺は、異常なほど源義経という武将に惹かれていた。
彼の戦術、その鮮烈な生き様、そして兄・頼朝に拒絶され、衣川で迎えた悲劇の最期。
歴史オタクだった俺の人生は、彼を知るためにあったと言っても過言ではない。
そんな未練と共に、俺の三十数年の人生は幕を閉じた。
――はずだった。
……寒い。
鼻を突くのは、病院の消毒液の臭いではない。
抹香(まっこう)と、古びた木材が湿ったような、重苦しい香りだ。
遠くで読経の声が聞こえる。低く、地を這うような呪文のリズム。
「……っ!」
俺はガバと身体を起こした。
視界が、低い。
身体が羽毛のように軽い。
そして何より、視界に入った自分の手が、恐ろしく小さかった。
白く、細く、しかし奇妙なほどに節くれだった、子供の手。
「ここは……」
声変わり前の、鈴を転がすような高い声が出た。
周囲を見渡す。
冷たい板敷きの床。薄暗い堂内。揺らめく灯明の明かりが、巨大な仏像の顔を不気味に浮かび上がらせている。
毘沙門天(びしゃもんてん)。
俺はその像を知っている。
いや、この肌を刺す薄ら寒い空気も、床の冷たさも、すべてを骨の髄まで記憶している。
「鞍馬寺(くらまでら)……?」
現代の俺にとって、そこは京都の観光名所だった。
だが、今の俺にとって、ここは孤独な「牢獄」だ。
瞬間、脳内で情報がスパークする。
俺は死んだ。そして転生した。
時代は平安末期。場所は京都、鞍馬山。
そして俺の名前は――牛若丸。
後の、源義経。
「嘘だろ……。あの『源義経』に転生したっていうのか?」
俺は自分の顔を両手で覆った。
なんというハードモードだ。歴史オタクの俺は知っている。この先に待っている運命を。
平家を倒す奇跡の連勝。
その果てに待つ、実の兄・源頼朝からの冷酷な拒絶。
雪の吉野山での静御前との別れ。
そして最期は、衣川の館で全身に矢を浴びて死ぬ。立ち往生。
(冗談じゃない。せっかく生き返ったのに、またあんな悲惨な人生をなぞるのか?)
現代人の理性が、即座に拒否反応を示す。
逃げよう。
今すぐにここを出て、平家も源氏も関係ない場所へ。
たとえば宋(中国)へ渡る商船に潜り込めばいい。現代の知識があれば、商人として成功し、畳の上で死ぬことだってできるはずだ。
そう思考を巡らせた、その時だった。
ドクン、と心臓が早鐘を打った。
「う、ぐ……ッ!?」
逃げる、と考えた瞬間に湧き上がったのは、恐怖ではない。
猛烈な**「悔しさ」**だった。
胸の奥が焼けるように熱い。喉の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。
――兄上。どうして。
――私はただ、あなたのために。
――悔しい、悔しい、悔しい!
脳裏にフラッシュバックする映像。
燃え落ちる屋敷。
裏切る家臣たちの、冷ややかな目。
そして、自分に向けられた無数の矢尻の輝きと、肉を食い破る痛み。
それは、歴史の教科書や小説で読んだ「知識」ではない。
もっと生々しい、魂に刻み込まれた**「体験」の記憶**だった。
「おえええッ!」
俺は床に手をつき、胃の中身を吐き出した。
何も入っていない胃からは、苦い胃液だけが零れ落ちる。
涙が止まらない。
現代人の俺は冷静に(これは前世の記憶によるPTSDか?)と分析しているのに、身体が、魂が、慟哭(どうこく)を止めてくれない。
(なんだ、これは……。俺は、現代から来た別人じゃないのか?)
震える手で口元を拭う。
鏡などなくても分かる。今の俺はきっと、鬼のような形相をしているはずだ。
そこで、俺は理解した。
俺は「義経になった現代人」ではない。
俺は、義経だ。
あの衣川で無念の死を遂げた俺の魂が、長い時を経て現代日本で生まれ変わり、知識を蓄え、そして再びこの時代に戻ってきたのだ。
――やり直すために。
「……逃げない」
無意識に言葉が漏れた。
それは現代人の俺の計算ではなく、この身体の持ち主――いや、俺自身の深層心理からの叫びだった。
「逃げてたまるか。あんな思いをして、惨めに死ぬのはもう御免だ」
俺は知っている。
いつ、誰が裏切るか。
どの戦で、どんな戦術を使えば勝てるか。
そして、頼朝という男が何を恐れ、どうすれば殺されずに済むか。
現代で学んだ「歴史」という名の未来予知図(ネタバレ)が、頭の中にすべて入っている。
現代の知識という「武器」。
そして、この身に刻まれた無念という「燃料」。
その二つがあるなら、歴史は変えられるはずだ。
俺は顔を上げた。
見下ろす毘沙門天。かつて、必勝を祈願した軍神。
俺はニヤリと笑った。
七歳の稚児の愛らしい顔には似合わない、獰猛な笑みだったと思う。
「見ていろよ。今度こそ、俺が勝つ」
稚児・牛若丸。
中身は現代の歴史オタク、そして魂は無念の英雄。
時空を超えた、二度目の人生。
復讐と生存、そして新たな国を作るための戦いが、ここから始まる。
深夜の交差点。
トラックのヘッドライト。
急ブレーキの音と、身体が砕ける鈍い衝撃。
薄れゆく意識の中で、俺は握りしめていた文庫本――『源義経の謎』が、自分の血で赤く染まっていくのをボンヤリと眺めていた。
(ああ、まだ読みかけだったのに……)
俺は、異常なほど源義経という武将に惹かれていた。
彼の戦術、その鮮烈な生き様、そして兄・頼朝に拒絶され、衣川で迎えた悲劇の最期。
歴史オタクだった俺の人生は、彼を知るためにあったと言っても過言ではない。
そんな未練と共に、俺の三十数年の人生は幕を閉じた。
――はずだった。
……寒い。
鼻を突くのは、病院の消毒液の臭いではない。
抹香(まっこう)と、古びた木材が湿ったような、重苦しい香りだ。
遠くで読経の声が聞こえる。低く、地を這うような呪文のリズム。
「……っ!」
俺はガバと身体を起こした。
視界が、低い。
身体が羽毛のように軽い。
そして何より、視界に入った自分の手が、恐ろしく小さかった。
白く、細く、しかし奇妙なほどに節くれだった、子供の手。
「ここは……」
声変わり前の、鈴を転がすような高い声が出た。
周囲を見渡す。
冷たい板敷きの床。薄暗い堂内。揺らめく灯明の明かりが、巨大な仏像の顔を不気味に浮かび上がらせている。
毘沙門天(びしゃもんてん)。
俺はその像を知っている。
いや、この肌を刺す薄ら寒い空気も、床の冷たさも、すべてを骨の髄まで記憶している。
「鞍馬寺(くらまでら)……?」
現代の俺にとって、そこは京都の観光名所だった。
だが、今の俺にとって、ここは孤独な「牢獄」だ。
瞬間、脳内で情報がスパークする。
俺は死んだ。そして転生した。
時代は平安末期。場所は京都、鞍馬山。
そして俺の名前は――牛若丸。
後の、源義経。
「嘘だろ……。あの『源義経』に転生したっていうのか?」
俺は自分の顔を両手で覆った。
なんというハードモードだ。歴史オタクの俺は知っている。この先に待っている運命を。
平家を倒す奇跡の連勝。
その果てに待つ、実の兄・源頼朝からの冷酷な拒絶。
雪の吉野山での静御前との別れ。
そして最期は、衣川の館で全身に矢を浴びて死ぬ。立ち往生。
(冗談じゃない。せっかく生き返ったのに、またあんな悲惨な人生をなぞるのか?)
現代人の理性が、即座に拒否反応を示す。
逃げよう。
今すぐにここを出て、平家も源氏も関係ない場所へ。
たとえば宋(中国)へ渡る商船に潜り込めばいい。現代の知識があれば、商人として成功し、畳の上で死ぬことだってできるはずだ。
そう思考を巡らせた、その時だった。
ドクン、と心臓が早鐘を打った。
「う、ぐ……ッ!?」
逃げる、と考えた瞬間に湧き上がったのは、恐怖ではない。
猛烈な**「悔しさ」**だった。
胸の奥が焼けるように熱い。喉の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。
――兄上。どうして。
――私はただ、あなたのために。
――悔しい、悔しい、悔しい!
脳裏にフラッシュバックする映像。
燃え落ちる屋敷。
裏切る家臣たちの、冷ややかな目。
そして、自分に向けられた無数の矢尻の輝きと、肉を食い破る痛み。
それは、歴史の教科書や小説で読んだ「知識」ではない。
もっと生々しい、魂に刻み込まれた**「体験」の記憶**だった。
「おえええッ!」
俺は床に手をつき、胃の中身を吐き出した。
何も入っていない胃からは、苦い胃液だけが零れ落ちる。
涙が止まらない。
現代人の俺は冷静に(これは前世の記憶によるPTSDか?)と分析しているのに、身体が、魂が、慟哭(どうこく)を止めてくれない。
(なんだ、これは……。俺は、現代から来た別人じゃないのか?)
震える手で口元を拭う。
鏡などなくても分かる。今の俺はきっと、鬼のような形相をしているはずだ。
そこで、俺は理解した。
俺は「義経になった現代人」ではない。
俺は、義経だ。
あの衣川で無念の死を遂げた俺の魂が、長い時を経て現代日本で生まれ変わり、知識を蓄え、そして再びこの時代に戻ってきたのだ。
――やり直すために。
「……逃げない」
無意識に言葉が漏れた。
それは現代人の俺の計算ではなく、この身体の持ち主――いや、俺自身の深層心理からの叫びだった。
「逃げてたまるか。あんな思いをして、惨めに死ぬのはもう御免だ」
俺は知っている。
いつ、誰が裏切るか。
どの戦で、どんな戦術を使えば勝てるか。
そして、頼朝という男が何を恐れ、どうすれば殺されずに済むか。
現代で学んだ「歴史」という名の未来予知図(ネタバレ)が、頭の中にすべて入っている。
現代の知識という「武器」。
そして、この身に刻まれた無念という「燃料」。
その二つがあるなら、歴史は変えられるはずだ。
俺は顔を上げた。
見下ろす毘沙門天。かつて、必勝を祈願した軍神。
俺はニヤリと笑った。
七歳の稚児の愛らしい顔には似合わない、獰猛な笑みだったと思う。
「見ていろよ。今度こそ、俺が勝つ」
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