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【疾風・戦神編】
阿波の火計、揺れる扇と神の不在
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阿波の地を踏んだ俺たちが最初にしたことは、戦争ではなく「放火」だった。
「燃やせ。民家だろうが枯れ草だろうが、燃えるものは全てだ」
俺は冷徹に命じた。
兵たちが松明を投げ込むと、乾燥した冬の空気を含んだ屋敷は、爆発するように炎上した。
黒煙が天を焦がし、白昼の空を覆い隠していく。
「大将、いくら何でも……」
部下の一人が躊躇いを見せたが、俺は首を振った。
「煙だ。煙で空を隠せ。俺たちの数がたった百五十騎だと悟られるな。一万の大軍が押し寄せたと思わせるんだ」
現代の戦術で言う**「欺瞞(デコプション)作戦」**。
屋島にいる平家の総大将・平宗盛(たいらのむねもり)は、極度の臆病者だ。彼に必要なのは「敵が来た」という事実ではなく、「敵は大軍だ」という恐怖のイメージだけ。それだけで彼は勝手に崩れる。
狙い通りだった。
立ち昇る黒煙と、俺たちが交互に喚き散らすときの声(鬨の声)を聞いた屋島の平家軍は、パニックに陥った。
「源氏の大軍だ! 囲まれるぞ!」
「海へ逃げろ! 船に乗れ!」
陸に陣を構えていれば、我々など数で圧殺できたはずだ。
だが、恐怖に支配された彼らは、我先にと海上の船へと逃げ込んだ。
がら空きになった屋島の内裏(だいり)に、俺たちは無血で突入した。
***
夕刻。
戦況は奇妙な膠着状態(こうちゃくじょうたい)にあった。
陸には我ら源氏軍。
沖には、船に逃げ込んだ平家軍。
互いに矢の届かぬ距離で睨み合っている。
波は穏やかだった。
沈みゆく夕日が、瀬戸内の海を黄金色に染め上げている。
その静寂を破るように、平家の船団から一艘の小舟が静かに進み出てきた。
乗っているのは兵ではない。
十二単(じゅうにひとえ)を纏った、美しい女官だ。
彼女は船の竿の先に、紅地に金の日輪を描いた**「扇」**を掲げ、手招きをしている。
「……なんだ、あれは」
佐藤忠信が顔をしかめた。
「『この扇を射抜いてみせよ』という挑発か? 優雅なもんだ。戦の最中に余興とは」
俺は目を細めた。
余興? 違う。これは**「呪術的な儀式」**だ。
射損じれば源氏の恥。射抜けば平家の不吉を払う供物とするつもりだろう。
だが、俺の解釈はもっと即物的だ。
これはメンタルの削り合いだ。
この極限状態で、揺れる小舟の上の扇を射抜ける技量と胆力が、源氏にあるか試しているのだ。
「誰かあるか! あの扇を射抜ける者は!」
俺の声に、一人の若武者が進み出た。
那須与一(なすのよいち)。
下野国の住人。まだ二十歳そこそこの若者だが、その腕は神業と噂される弓の名手だ。
だが、その顔は蒼白だった。
「……大将。失敗すれば、切腹ものにございます」
与一の声が震えている。
当然だ。敵味方数万の視線が一点に集中する中での狙撃。外せば源氏の士気に関わる。その重圧(プレッシャー)は、巨大な万力で心臓を潰されるに等しい。
俺は馬を寄せ、与一の肩を強く叩いた。
「与一。外したら腹など切るな」
「え?」
「外したら、俺と一緒に敵陣へ突っ込んで死んでくれ。それだけの話だ」
俺はニヤリと笑った。
「俺はお前を選んだ。俺の目は節穴か? 違うだろう。お前は日本一の弓引きだ。……風を読め。的を見るな。己の中の静寂を見ろ」
与一の瞳から、怯えが消えた。
腹が決まった男の顔になった。
「……承知」
与一は馬を海へと乗り入れた。
波打ち際。
距離にして約七十メートル。
波に揺れる小舟。扇は風に煽られ、不規則に動いている。
物理的に見れば、命中の確率は限りなく低い。
与一が目を閉じ、呪文のように呟いた。
『南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、日光の権現様……願わくばあの扇の真ん中を射させてたばせたまえ……』
俺は息を止めた。
現代の知識など役に立たない。
弾道計算も、風速の予測も、この若者の研ぎ澄まされた感覚の前ではノイズでしかない。
神頼みではない。彼は今、精神を極限まで集中させ、世界を「自分と的」だけの空間に圧縮しているのだ。
カッ。
与一が見開いた目が、一点を捉えた。
弦が鳴る音。
それは楽器の音色のように澄んでいて、戦場には似つかわしくないほど美しかった。
ヒョォォォッ……!
矢が一直線に虚空を裂く。
放物線を描くこともなく、レーザーのような軌道で吸い込まれていく。
ザシュッ!
乾いた音が響いた。
扇の要(かなめ)際、わずか数センチの接合部を鏃(やじり)が食い破る。
扇は空高く舞い上がり、夕日に照らされながら、ひらひらと海面へ落ちていった。
一瞬の空白。
そして。
「おおおおおおッ!!」
「見事! 天下無双の弓だ!」
歓声を上げたのは、源氏だけではなかった。
敵である平家の船団からも、船縁(ふなべり)を叩いて称賛する音が響き渡った。
敵味方を越えた感動。
美しいものを見たという、純粋な畏敬の念。
だが。
俺はその美しい空気を、自らの手で引き裂かねばならなかった。
興に乗った平家の男が、扇のあった場所で舞を踊り始めたからだ。
「……伊勢三郎」
俺は冷たく命じた。
「あの舞っている男を射ろ」
「なっ!?」
隣にいた伊勢三郎が絶句した。
「大将、まさか……。敵も味方も感動しているこの場面で、水を差すのですか!?」
「これは戦争だ。演芸会じゃない」
俺は声を低くした。
「平家は今、与一の技に酔い、戦意を忘れかけている。その『緩み』こそが最大の隙だ。……現実に引き戻してやれ」
伊勢三郎は唇を噛み、矢を放った。
舞っていた男の首を、無情な矢が貫いた。男は海へ転がり落ち、赤く染まった波が広がる。
静寂が、一瞬で殺意へと変わった。
「き、貴様らァッ! 人の心はないのか!」
「鬼だ! 源氏は鬼畜だ!」
平家軍の怒号が爆発する。
俺は太刀を抜き、天へ突き上げた。
「その通りだ! 俺たちは鬼だ! 感傷に浸るな、殺し合え! 日が暮れるまで一兵たりとも逃がすな!」
全軍突撃の合図。
美しい夕暮れは終わり、再び血みどろの修羅場が幕を開ける。
与一が、射終えた弓を握りしめ、悲しげに俺を見ていた。
すまない、与一。
お前の奇跡を、俺はただの「戦術的な隙を作るための餌」として利用した。
英雄にはなれなくとも、俺はこの戦を終わらせる悪魔になろう。
屋島の戦いは、こうして泥沼の夜戦へと突入していく。
そして、その混乱の中で、俺の最大の忠臣・佐藤継信の弟、忠信(ただのぶ)に、過酷な運命が迫っていた。
「燃やせ。民家だろうが枯れ草だろうが、燃えるものは全てだ」
俺は冷徹に命じた。
兵たちが松明を投げ込むと、乾燥した冬の空気を含んだ屋敷は、爆発するように炎上した。
黒煙が天を焦がし、白昼の空を覆い隠していく。
「大将、いくら何でも……」
部下の一人が躊躇いを見せたが、俺は首を振った。
「煙だ。煙で空を隠せ。俺たちの数がたった百五十騎だと悟られるな。一万の大軍が押し寄せたと思わせるんだ」
現代の戦術で言う**「欺瞞(デコプション)作戦」**。
屋島にいる平家の総大将・平宗盛(たいらのむねもり)は、極度の臆病者だ。彼に必要なのは「敵が来た」という事実ではなく、「敵は大軍だ」という恐怖のイメージだけ。それだけで彼は勝手に崩れる。
狙い通りだった。
立ち昇る黒煙と、俺たちが交互に喚き散らすときの声(鬨の声)を聞いた屋島の平家軍は、パニックに陥った。
「源氏の大軍だ! 囲まれるぞ!」
「海へ逃げろ! 船に乗れ!」
陸に陣を構えていれば、我々など数で圧殺できたはずだ。
だが、恐怖に支配された彼らは、我先にと海上の船へと逃げ込んだ。
がら空きになった屋島の内裏(だいり)に、俺たちは無血で突入した。
***
夕刻。
戦況は奇妙な膠着状態(こうちゃくじょうたい)にあった。
陸には我ら源氏軍。
沖には、船に逃げ込んだ平家軍。
互いに矢の届かぬ距離で睨み合っている。
波は穏やかだった。
沈みゆく夕日が、瀬戸内の海を黄金色に染め上げている。
その静寂を破るように、平家の船団から一艘の小舟が静かに進み出てきた。
乗っているのは兵ではない。
十二単(じゅうにひとえ)を纏った、美しい女官だ。
彼女は船の竿の先に、紅地に金の日輪を描いた**「扇」**を掲げ、手招きをしている。
「……なんだ、あれは」
佐藤忠信が顔をしかめた。
「『この扇を射抜いてみせよ』という挑発か? 優雅なもんだ。戦の最中に余興とは」
俺は目を細めた。
余興? 違う。これは**「呪術的な儀式」**だ。
射損じれば源氏の恥。射抜けば平家の不吉を払う供物とするつもりだろう。
だが、俺の解釈はもっと即物的だ。
これはメンタルの削り合いだ。
この極限状態で、揺れる小舟の上の扇を射抜ける技量と胆力が、源氏にあるか試しているのだ。
「誰かあるか! あの扇を射抜ける者は!」
俺の声に、一人の若武者が進み出た。
那須与一(なすのよいち)。
下野国の住人。まだ二十歳そこそこの若者だが、その腕は神業と噂される弓の名手だ。
だが、その顔は蒼白だった。
「……大将。失敗すれば、切腹ものにございます」
与一の声が震えている。
当然だ。敵味方数万の視線が一点に集中する中での狙撃。外せば源氏の士気に関わる。その重圧(プレッシャー)は、巨大な万力で心臓を潰されるに等しい。
俺は馬を寄せ、与一の肩を強く叩いた。
「与一。外したら腹など切るな」
「え?」
「外したら、俺と一緒に敵陣へ突っ込んで死んでくれ。それだけの話だ」
俺はニヤリと笑った。
「俺はお前を選んだ。俺の目は節穴か? 違うだろう。お前は日本一の弓引きだ。……風を読め。的を見るな。己の中の静寂を見ろ」
与一の瞳から、怯えが消えた。
腹が決まった男の顔になった。
「……承知」
与一は馬を海へと乗り入れた。
波打ち際。
距離にして約七十メートル。
波に揺れる小舟。扇は風に煽られ、不規則に動いている。
物理的に見れば、命中の確率は限りなく低い。
与一が目を閉じ、呪文のように呟いた。
『南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、日光の権現様……願わくばあの扇の真ん中を射させてたばせたまえ……』
俺は息を止めた。
現代の知識など役に立たない。
弾道計算も、風速の予測も、この若者の研ぎ澄まされた感覚の前ではノイズでしかない。
神頼みではない。彼は今、精神を極限まで集中させ、世界を「自分と的」だけの空間に圧縮しているのだ。
カッ。
与一が見開いた目が、一点を捉えた。
弦が鳴る音。
それは楽器の音色のように澄んでいて、戦場には似つかわしくないほど美しかった。
ヒョォォォッ……!
矢が一直線に虚空を裂く。
放物線を描くこともなく、レーザーのような軌道で吸い込まれていく。
ザシュッ!
乾いた音が響いた。
扇の要(かなめ)際、わずか数センチの接合部を鏃(やじり)が食い破る。
扇は空高く舞い上がり、夕日に照らされながら、ひらひらと海面へ落ちていった。
一瞬の空白。
そして。
「おおおおおおッ!!」
「見事! 天下無双の弓だ!」
歓声を上げたのは、源氏だけではなかった。
敵である平家の船団からも、船縁(ふなべり)を叩いて称賛する音が響き渡った。
敵味方を越えた感動。
美しいものを見たという、純粋な畏敬の念。
だが。
俺はその美しい空気を、自らの手で引き裂かねばならなかった。
興に乗った平家の男が、扇のあった場所で舞を踊り始めたからだ。
「……伊勢三郎」
俺は冷たく命じた。
「あの舞っている男を射ろ」
「なっ!?」
隣にいた伊勢三郎が絶句した。
「大将、まさか……。敵も味方も感動しているこの場面で、水を差すのですか!?」
「これは戦争だ。演芸会じゃない」
俺は声を低くした。
「平家は今、与一の技に酔い、戦意を忘れかけている。その『緩み』こそが最大の隙だ。……現実に引き戻してやれ」
伊勢三郎は唇を噛み、矢を放った。
舞っていた男の首を、無情な矢が貫いた。男は海へ転がり落ち、赤く染まった波が広がる。
静寂が、一瞬で殺意へと変わった。
「き、貴様らァッ! 人の心はないのか!」
「鬼だ! 源氏は鬼畜だ!」
平家軍の怒号が爆発する。
俺は太刀を抜き、天へ突き上げた。
「その通りだ! 俺たちは鬼だ! 感傷に浸るな、殺し合え! 日が暮れるまで一兵たりとも逃がすな!」
全軍突撃の合図。
美しい夕暮れは終わり、再び血みどろの修羅場が幕を開ける。
与一が、射終えた弓を握りしめ、悲しげに俺を見ていた。
すまない、与一。
お前の奇跡を、俺はただの「戦術的な隙を作るための餌」として利用した。
英雄にはなれなくとも、俺はこの戦を終わらせる悪魔になろう。
屋島の戦いは、こうして泥沼の夜戦へと突入していく。
そして、その混乱の中で、俺の最大の忠臣・佐藤継信の弟、忠信(ただのぶ)に、過酷な運命が迫っていた。
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