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【疾風・戦神編】
波の下の都、あるいは鬼たちの密約
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海は、死体で埋め尽くされていた。
漕ぎ手を射殺され、制御を失った平家の船団は、逆巻く潮流という巨大な手に揉まれ、将棋倒しのように崩壊していた。
源氏の兵たちが、動けなくなった船に次々と乗り移る。
そこからは、戦争というよりは一方的な「掃除」だった。
甲板で滑る血。命乞いをする声。それを断ち切る刃の音。
「……見ろ。これが、滅びだ」
俺は旗艦の甲板に立ち、隣にいる弁慶に囁いた。
勝利の高揚感など微塵もない。
目の前にあるのは、一つの時代が腐った肉塊となって海に沈んでいく、あまりに即物的な光景だけだった。
「大将! 平家の総大将・知盛(とももり)が!」
伊勢三郎が指差す先、平家の旗艦で一人の男が碇(いかり)を身体に巻き付けていた。
平知盛。
彼は修羅場と化した自軍を冷ややかな目で見渡し、「見るべきものは全て見た」と呟くと、自ら海へと身を躍らせた。
巨大な水柱が上がり、二度と浮かんではこなかった。
残るは、帝(みかど)の乗る船のみ。
「行くぞ。……最後の仕上げだ」
俺は太刀の柄を握りしめ、平家の本船へと飛び移った。
***
船内は、異様な静寂に包まれていた。
外の喧騒が嘘のように、そこだけ時間が止まっている。
漂うのは、極上の抹香の匂いと、死の予感。
船縁(ふなべり)に、一人の老婆が立っていた。
二位の尼。平清盛の妻であり、平家の精神的支柱。
その腕には、まだ幼い子供が抱かれている。
安徳天皇。わずか数えで八歳の幼帝だ。
「……尼殿」
俺は声をかけた。威圧するつもりはなかったが、声は震えていたかもしれない。
二位の尼はゆっくりと振り返った。その顔には、恐怖も憎悪もなかった。あるのは、全てを悟りきった深い悲哀と、凛とした覚悟だけ。
「源氏の若大将か。……無粋な真似はせぬよう」
彼女は静かに言った。
「我らは、東国の野蛮人の手にかかるつもりはない。自ら極楽浄土へ参る」
幼い帝が、不安げに老婆を見上げる。
「尼ぜ、私をどこへ連れて行くの?」
その無垢な声が、俺の胸を短剣のように抉(えぐ)った。
この子は何も知らない。
大人たちの権力争いの道具にされ、最後は海に沈められる。そんな理不尽があっていいのか。現代人の倫理観が「止めろ」と絶叫する。
「……波の下にも、都はございますよ」
二位の尼は優しく微笑み、帝を強く抱きしめた。
そして、海へ足をかけ――。
「待てェッ!!」
俺は叫び、駆け出した。
だが、距離がある。間に合わない。
その時だった。
ドォン!!
船板を突き破るような爆音と共に、一人の巨漢が俺と尼の間に割って入った。
全身返り血で真っ赤に染まった鬼神。
**平教経(のりつね)**だ。
「……教経!?」
二位の尼が目を見開く。
教経は荒い息を吐きながら、血走った目で俺を睨み、そして尼を見た。
「尼様。……その子は、渡せねえ」
「なにを……」
「平家は滅びる。だがあんたの孫は、ただの子供だ。死なせるこたぁねえ!」
教経は乱暴な手つきで、尼の腕から帝をもぎ取った。
帝が「怖い!」と泣き叫ぶ。
二位の尼が錯乱して掴みかかろうとするが、教経はそれを肩で弾いた。
「源九郎! 約束だ!」
教経が俺に向かって吠えた。
「俺はこの子を連れて消える! あんたの作る『新しい国』とやらで、一人の人間として育ててやる! ……見逃せ!」
俺は一瞬、息を止めた。
周囲には源氏の兵たちが迫ってきている。
もしここで「帝を生かす」と言えば、兵たちは帝を捕らえ、鎌倉へ送るだろう。そうなれば、帝は一生鳥籠の中で生きるか、あるいは頼朝の手で暗殺されるかだ。
「死んだこと」にしなければ、この子は自由になれない。
俺は剣を構え、教経に向かって突進した。
本気の一撃。だが、殺すための刃ではない。
「……行けッ!!」
俺の太刀と、教経の太刀が激突し、火花が散る。
鍔迫り合い(つばぜりあい)の最中、俺は教経の耳元で囁いた。
「艫(とも)の陰に、小舟を用意させてある。……北へ行け。吉次が待っている」
教経の目が大きく見開かれ、そしてニヤリと歪んだ。
「……借りは返すぞ、大将!」
教経は帝を脇に抱え、俺を蹴り飛ばすと、煙の立ち込める海面へと身を躍らせた。
ドボン、という水音。
それは、入水自殺の音にしか聞こえなかったはずだ。
残された二位の尼は、呆然と海を見つめていた。
だが、すぐに何かを悟ったように、俺を見た。
「……そうか。あの子は、死んだのか」
「ええ。死にました」
俺は冷徹に言い放った。
「源氏の追撃を逃れようとして、平教経が帝を道連れに海へ沈んだ。……そう、歴史には記されます」
二位の尼は、震える手で懐から宝剣を取り出した。
三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)。
「ならば、私はこれを連れて行こう。……証拠隠滅、というやつじゃな?」
老婆は寂しげに、しかし悪戯っぽく微笑むと、重い剣を抱いて海へと落ちていった。
***
「帝が沈まれたぞ!」
「教経が道連れにした! 探せ! 探せ!」
源氏の兵たちが海面を覗き込む。
だが、激しい潮流と立ち込める黒煙が、全てを隠していた。
俺はその騒ぎを背に、海に向かって一礼した。
終わった。
平家は滅んだ。
そして安徳天皇もまた、公式にはこの世から消えた。
だが、北の海――奥州へ向かう商船の中で、一人の少年と、不器用な鬼の武者が、新しい人生を歩み始めているはずだ。
「……殿」
弁慶が近づいてきた。彼は全てを見ていたはずだが、何も言わなかった。
「空が、晴れましたな」
「ああ。残酷なほどにな」
俺は空を見上げた。
霧が晴れ、春の日差しが海面を照らしている。
海はまだ赤い。だが、その赤はいずれ潮に洗われ、何もなかったかのように青く戻るだろう。
これで、俺の役割の一つは終わった。
平家追討という、兄・頼朝から与えられた任務(クエスト)。
だが、本当の戦いはここからだ。
大きくなりすぎた俺という存在を、鎌倉の怪物が許すはずがない。
凱旋の先に待っているのは、賞賛ではなく粛清の刃だ。
「帰るぞ、弁慶」
俺は踵(きびす)を返した。
「次は政治(まつりごと)の季節だ。……殺し合いよりもずっと、薄汚くて厄介な戦場へ」
壇ノ浦の戦い。
それは源平合戦の終焉であり、義経と頼朝による、血を分けた兄弟の最終戦争の幕開けでもあった。
俺は懐の「新国家構想図」を握りしめた。
衣川の悲劇まで、あと四年。
運命のカウントダウンは、すでに始まっている
漕ぎ手を射殺され、制御を失った平家の船団は、逆巻く潮流という巨大な手に揉まれ、将棋倒しのように崩壊していた。
源氏の兵たちが、動けなくなった船に次々と乗り移る。
そこからは、戦争というよりは一方的な「掃除」だった。
甲板で滑る血。命乞いをする声。それを断ち切る刃の音。
「……見ろ。これが、滅びだ」
俺は旗艦の甲板に立ち、隣にいる弁慶に囁いた。
勝利の高揚感など微塵もない。
目の前にあるのは、一つの時代が腐った肉塊となって海に沈んでいく、あまりに即物的な光景だけだった。
「大将! 平家の総大将・知盛(とももり)が!」
伊勢三郎が指差す先、平家の旗艦で一人の男が碇(いかり)を身体に巻き付けていた。
平知盛。
彼は修羅場と化した自軍を冷ややかな目で見渡し、「見るべきものは全て見た」と呟くと、自ら海へと身を躍らせた。
巨大な水柱が上がり、二度と浮かんではこなかった。
残るは、帝(みかど)の乗る船のみ。
「行くぞ。……最後の仕上げだ」
俺は太刀の柄を握りしめ、平家の本船へと飛び移った。
***
船内は、異様な静寂に包まれていた。
外の喧騒が嘘のように、そこだけ時間が止まっている。
漂うのは、極上の抹香の匂いと、死の予感。
船縁(ふなべり)に、一人の老婆が立っていた。
二位の尼。平清盛の妻であり、平家の精神的支柱。
その腕には、まだ幼い子供が抱かれている。
安徳天皇。わずか数えで八歳の幼帝だ。
「……尼殿」
俺は声をかけた。威圧するつもりはなかったが、声は震えていたかもしれない。
二位の尼はゆっくりと振り返った。その顔には、恐怖も憎悪もなかった。あるのは、全てを悟りきった深い悲哀と、凛とした覚悟だけ。
「源氏の若大将か。……無粋な真似はせぬよう」
彼女は静かに言った。
「我らは、東国の野蛮人の手にかかるつもりはない。自ら極楽浄土へ参る」
幼い帝が、不安げに老婆を見上げる。
「尼ぜ、私をどこへ連れて行くの?」
その無垢な声が、俺の胸を短剣のように抉(えぐ)った。
この子は何も知らない。
大人たちの権力争いの道具にされ、最後は海に沈められる。そんな理不尽があっていいのか。現代人の倫理観が「止めろ」と絶叫する。
「……波の下にも、都はございますよ」
二位の尼は優しく微笑み、帝を強く抱きしめた。
そして、海へ足をかけ――。
「待てェッ!!」
俺は叫び、駆け出した。
だが、距離がある。間に合わない。
その時だった。
ドォン!!
船板を突き破るような爆音と共に、一人の巨漢が俺と尼の間に割って入った。
全身返り血で真っ赤に染まった鬼神。
**平教経(のりつね)**だ。
「……教経!?」
二位の尼が目を見開く。
教経は荒い息を吐きながら、血走った目で俺を睨み、そして尼を見た。
「尼様。……その子は、渡せねえ」
「なにを……」
「平家は滅びる。だがあんたの孫は、ただの子供だ。死なせるこたぁねえ!」
教経は乱暴な手つきで、尼の腕から帝をもぎ取った。
帝が「怖い!」と泣き叫ぶ。
二位の尼が錯乱して掴みかかろうとするが、教経はそれを肩で弾いた。
「源九郎! 約束だ!」
教経が俺に向かって吠えた。
「俺はこの子を連れて消える! あんたの作る『新しい国』とやらで、一人の人間として育ててやる! ……見逃せ!」
俺は一瞬、息を止めた。
周囲には源氏の兵たちが迫ってきている。
もしここで「帝を生かす」と言えば、兵たちは帝を捕らえ、鎌倉へ送るだろう。そうなれば、帝は一生鳥籠の中で生きるか、あるいは頼朝の手で暗殺されるかだ。
「死んだこと」にしなければ、この子は自由になれない。
俺は剣を構え、教経に向かって突進した。
本気の一撃。だが、殺すための刃ではない。
「……行けッ!!」
俺の太刀と、教経の太刀が激突し、火花が散る。
鍔迫り合い(つばぜりあい)の最中、俺は教経の耳元で囁いた。
「艫(とも)の陰に、小舟を用意させてある。……北へ行け。吉次が待っている」
教経の目が大きく見開かれ、そしてニヤリと歪んだ。
「……借りは返すぞ、大将!」
教経は帝を脇に抱え、俺を蹴り飛ばすと、煙の立ち込める海面へと身を躍らせた。
ドボン、という水音。
それは、入水自殺の音にしか聞こえなかったはずだ。
残された二位の尼は、呆然と海を見つめていた。
だが、すぐに何かを悟ったように、俺を見た。
「……そうか。あの子は、死んだのか」
「ええ。死にました」
俺は冷徹に言い放った。
「源氏の追撃を逃れようとして、平教経が帝を道連れに海へ沈んだ。……そう、歴史には記されます」
二位の尼は、震える手で懐から宝剣を取り出した。
三種の神器の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)。
「ならば、私はこれを連れて行こう。……証拠隠滅、というやつじゃな?」
老婆は寂しげに、しかし悪戯っぽく微笑むと、重い剣を抱いて海へと落ちていった。
***
「帝が沈まれたぞ!」
「教経が道連れにした! 探せ! 探せ!」
源氏の兵たちが海面を覗き込む。
だが、激しい潮流と立ち込める黒煙が、全てを隠していた。
俺はその騒ぎを背に、海に向かって一礼した。
終わった。
平家は滅んだ。
そして安徳天皇もまた、公式にはこの世から消えた。
だが、北の海――奥州へ向かう商船の中で、一人の少年と、不器用な鬼の武者が、新しい人生を歩み始めているはずだ。
「……殿」
弁慶が近づいてきた。彼は全てを見ていたはずだが、何も言わなかった。
「空が、晴れましたな」
「ああ。残酷なほどにな」
俺は空を見上げた。
霧が晴れ、春の日差しが海面を照らしている。
海はまだ赤い。だが、その赤はいずれ潮に洗われ、何もなかったかのように青く戻るだろう。
これで、俺の役割の一つは終わった。
平家追討という、兄・頼朝から与えられた任務(クエスト)。
だが、本当の戦いはここからだ。
大きくなりすぎた俺という存在を、鎌倉の怪物が許すはずがない。
凱旋の先に待っているのは、賞賛ではなく粛清の刃だ。
「帰るぞ、弁慶」
俺は踵(きびす)を返した。
「次は政治(まつりごと)の季節だ。……殺し合いよりもずっと、薄汚くて厄介な戦場へ」
壇ノ浦の戦い。
それは源平合戦の終焉であり、義経と頼朝による、血を分けた兄弟の最終戦争の幕開けでもあった。
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