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【孤影・流転編】
吉野の雪、紅き囮と偽りの別離
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雪が、音もなく世界を塗り潰していく。
吉野山は、白銀の地獄だった。
膝まで埋まる新雪。吹き荒れる寒風は刃物のように肌を切り裂き、体温を容赦なく奪い去る。
俺たちは、獣のように四つん這いになりながら、険しい山道を登っていた。
「……はぁ、はぁ……」
背後で、荒い息遣いが聞こえる。
静だ。
京育ちの白拍子にとって、この雪山行軍は拷問に等しい。彼女の足袋はとうに破れ、白い雪に点々と赤い血が滲んでいる。
それでも彼女は、弱音を吐かなかった。俺の荷物の一部を背負い、歯を食いしばってついてきている。
(限界だ)
俺の中の冷徹な計算機が弾き出す。
このままでは共倒れになる。追っ手はすぐ後ろまで迫っている。鎌倉の犬となった吉野の僧兵たちだ。彼らは土地勘があり、雪山での狩りに慣れている。
俺は足を止め、振り返った。
弁慶が、佐藤継信が、伊勢三郎が、凍りついた目で俺を見ている。
全員が分かっていた。誰かが犠牲にならなければ、全員死ぬ。
「……ここで分かれる」
俺は静告げた。
静の顔色が、雪のように白くなった。
「嫌です」
彼女は俺の袖を掴んだ。凍えた指先が震えている。
「足手まといなのは分かっています。でも、あなたと離れるくらいなら、この雪の中で死にたい」
「死なせるわけにはいかないから、離れるんだ」
俺は彼女の細い肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「いいか。これは別れじゃない。作戦だ」
俺は懐から、一握りの砂金を押し付けた。
「この山を降りろ。麓に『蔵王堂(ざおうどう)』がある。そこの執行(しぎょう)・川連法眼(かわつらほうげん)は、金次第で動く男だ。この金を渡し、一時的に匿ってもらえ」
「でも……」
「俺たちは囮になって追っ手を引きつける。お前はほとぼりが冷めた頃、商人に化けて北へ向かえ。……必ず迎えに行く」
嘘だ。
再会の保証などない。だが、今は嘘でも希望を持たせなければ、彼女はこの場で凍死する。
静は俺の目じっと見つめ、やがて涙をこらえて頷いた。
「……待ちます。地獄の底でも、あなた様を」
その時だった。
ヒュンッ!
風切り音と共に、近くの杉の幹に矢が突き刺さった。
「見つけたぞ! 義経だ!」
「賞金首だ! 逃がすな!」
下方の森から、法螺貝の音が響き渡る。
吉野の僧兵たちだ。白い頭巾を被り、雪に同化した迷彩服のような姿で、斜面を駆け上がってくる。その数、およそ三百。
「チッ、嗅ぎつけられたか!」
弁慶が薙刀を構える。
だが、多勢に無勢だ。雪足を取られるこの地形で囲まれれば、ひとたまりもない。
「殿! お逃げください!」
叫んだのは、佐藤忠信だった。
彼は血走った目で俺を見た。
「ここは私が食い止めます。殿と静御前は、先へ!」
「馬鹿を言うな! 一人で何ができる!」
「一人ではありません。……二人になります」
忠信は、いきなり自分の鎧の紐を解き始めた。
「殿。その大鎧、私にお貸しください」
「何?」
「私が義経になります。殿の鎧を着て、殿の名を叫び、敵を一方へ引きつけます。その隙に、殿は山伏の格好で反対側へ」
身代わり。
歌舞伎『義経千本桜』の元ネタとなった、忠信の献策。
だが、それは確実に死ぬ役回りだ。
「断る。俺は部下を見殺しには……」
「聞き分けのないことを!」
忠信が、初めて主君である俺を怒鳴りつけた。
「あなたの命は、あなた一人のものではない! 新しい国を作るという約束、忘れたのですか! ここで犬死にして、教経や死んでいった者たちにどう顔向けするつもりだ!」
忠信の目から、涙が溢れていた。
それは恐怖の涙ではない。主君を生かしたいという、狂おしいほどの忠誠心の塊だった。
俺は言葉を失った。
兄の継信が、静かに俺の肩に手を置いた。
「……行かせてやってください。あいつは、屋島で殿を護れなかったことを、ずっと悔いていたのです。死に場所を与えてやってください」
俺は唇を噛み切り、血の味が広がるのを感じながら、頷いた。
鎧を脱ぐ。
黄金作りの太刀を渡す。
それを身につけた忠信は、雪の中で見紛うことなき「源九郎義経」になっていた。
「……見事だ、忠信」
「光栄にございます」
忠信はニカっと笑った。死を前にした男とは思えない、清々しい笑顔だった。
「さあ、行ってください! 敵が来ます!」
俺は山伏の笈(おい)を背負い、静の手を引いて走り出した。
背後で、忠信の咆哮が轟くのが聞こえた。
「我こそは源九郎判官義経なり! 命の惜しくない者はかかってこい!」
その声に引き寄せられ、僧兵の群れが雪崩のように忠信の方へ殺到していく。
金属音。絶叫。
俺は一度だけ振り返った。
雪煙の向こうで、一人の武者が三百の敵を相手に、鬼神の如く暴れ回っていた。
薙刀が振るわれるたびに、血の雨が降り、雪を赤く染めていく。
「……すまない」
俺は呻くように呟き、前を向いた。
涙で視界が歪む。だが、足は止めない。
この命は、もう俺一人のものではない。忠信がその命と引き換えに繋いでくれた、未来へのパスポートだ。
静の手を引く力が強くなる。
彼女も泣いていた。だが、その足取りは力強かった。
私たちは雪の斜面を転がるように駆け下りた。
忠信の雄叫びが、雪風に消えていく。
だが、その声は俺の魂に焼き付いて離れなかった。
吉野山、別れの雪。
俺たちは一つずつ大切なものを失いながら、それでも修羅の道を進む。
次に目指すは、奥州ではない。
まずはこの包囲網を脱し、海へ出る。
頼朝が予想もしないルートで、北を目指すために。
吉野山は、白銀の地獄だった。
膝まで埋まる新雪。吹き荒れる寒風は刃物のように肌を切り裂き、体温を容赦なく奪い去る。
俺たちは、獣のように四つん這いになりながら、険しい山道を登っていた。
「……はぁ、はぁ……」
背後で、荒い息遣いが聞こえる。
静だ。
京育ちの白拍子にとって、この雪山行軍は拷問に等しい。彼女の足袋はとうに破れ、白い雪に点々と赤い血が滲んでいる。
それでも彼女は、弱音を吐かなかった。俺の荷物の一部を背負い、歯を食いしばってついてきている。
(限界だ)
俺の中の冷徹な計算機が弾き出す。
このままでは共倒れになる。追っ手はすぐ後ろまで迫っている。鎌倉の犬となった吉野の僧兵たちだ。彼らは土地勘があり、雪山での狩りに慣れている。
俺は足を止め、振り返った。
弁慶が、佐藤継信が、伊勢三郎が、凍りついた目で俺を見ている。
全員が分かっていた。誰かが犠牲にならなければ、全員死ぬ。
「……ここで分かれる」
俺は静告げた。
静の顔色が、雪のように白くなった。
「嫌です」
彼女は俺の袖を掴んだ。凍えた指先が震えている。
「足手まといなのは分かっています。でも、あなたと離れるくらいなら、この雪の中で死にたい」
「死なせるわけにはいかないから、離れるんだ」
俺は彼女の細い肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「いいか。これは別れじゃない。作戦だ」
俺は懐から、一握りの砂金を押し付けた。
「この山を降りろ。麓に『蔵王堂(ざおうどう)』がある。そこの執行(しぎょう)・川連法眼(かわつらほうげん)は、金次第で動く男だ。この金を渡し、一時的に匿ってもらえ」
「でも……」
「俺たちは囮になって追っ手を引きつける。お前はほとぼりが冷めた頃、商人に化けて北へ向かえ。……必ず迎えに行く」
嘘だ。
再会の保証などない。だが、今は嘘でも希望を持たせなければ、彼女はこの場で凍死する。
静は俺の目じっと見つめ、やがて涙をこらえて頷いた。
「……待ちます。地獄の底でも、あなた様を」
その時だった。
ヒュンッ!
風切り音と共に、近くの杉の幹に矢が突き刺さった。
「見つけたぞ! 義経だ!」
「賞金首だ! 逃がすな!」
下方の森から、法螺貝の音が響き渡る。
吉野の僧兵たちだ。白い頭巾を被り、雪に同化した迷彩服のような姿で、斜面を駆け上がってくる。その数、およそ三百。
「チッ、嗅ぎつけられたか!」
弁慶が薙刀を構える。
だが、多勢に無勢だ。雪足を取られるこの地形で囲まれれば、ひとたまりもない。
「殿! お逃げください!」
叫んだのは、佐藤忠信だった。
彼は血走った目で俺を見た。
「ここは私が食い止めます。殿と静御前は、先へ!」
「馬鹿を言うな! 一人で何ができる!」
「一人ではありません。……二人になります」
忠信は、いきなり自分の鎧の紐を解き始めた。
「殿。その大鎧、私にお貸しください」
「何?」
「私が義経になります。殿の鎧を着て、殿の名を叫び、敵を一方へ引きつけます。その隙に、殿は山伏の格好で反対側へ」
身代わり。
歌舞伎『義経千本桜』の元ネタとなった、忠信の献策。
だが、それは確実に死ぬ役回りだ。
「断る。俺は部下を見殺しには……」
「聞き分けのないことを!」
忠信が、初めて主君である俺を怒鳴りつけた。
「あなたの命は、あなた一人のものではない! 新しい国を作るという約束、忘れたのですか! ここで犬死にして、教経や死んでいった者たちにどう顔向けするつもりだ!」
忠信の目から、涙が溢れていた。
それは恐怖の涙ではない。主君を生かしたいという、狂おしいほどの忠誠心の塊だった。
俺は言葉を失った。
兄の継信が、静かに俺の肩に手を置いた。
「……行かせてやってください。あいつは、屋島で殿を護れなかったことを、ずっと悔いていたのです。死に場所を与えてやってください」
俺は唇を噛み切り、血の味が広がるのを感じながら、頷いた。
鎧を脱ぐ。
黄金作りの太刀を渡す。
それを身につけた忠信は、雪の中で見紛うことなき「源九郎義経」になっていた。
「……見事だ、忠信」
「光栄にございます」
忠信はニカっと笑った。死を前にした男とは思えない、清々しい笑顔だった。
「さあ、行ってください! 敵が来ます!」
俺は山伏の笈(おい)を背負い、静の手を引いて走り出した。
背後で、忠信の咆哮が轟くのが聞こえた。
「我こそは源九郎判官義経なり! 命の惜しくない者はかかってこい!」
その声に引き寄せられ、僧兵の群れが雪崩のように忠信の方へ殺到していく。
金属音。絶叫。
俺は一度だけ振り返った。
雪煙の向こうで、一人の武者が三百の敵を相手に、鬼神の如く暴れ回っていた。
薙刀が振るわれるたびに、血の雨が降り、雪を赤く染めていく。
「……すまない」
俺は呻くように呟き、前を向いた。
涙で視界が歪む。だが、足は止めない。
この命は、もう俺一人のものではない。忠信がその命と引き換えに繋いでくれた、未来へのパスポートだ。
静の手を引く力が強くなる。
彼女も泣いていた。だが、その足取りは力強かった。
私たちは雪の斜面を転がるように駆け下りた。
忠信の雄叫びが、雪風に消えていく。
だが、その声は俺の魂に焼き付いて離れなかった。
吉野山、別れの雪。
俺たちは一つずつ大切なものを失いながら、それでも修羅の道を進む。
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