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第2章 その瞳が見つめる未来は

2話 お前は何も悪くない

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魔法暴走ラーズィープランブ 第2級障害

 魔法の使用が死に直結する第1級障害と違い、第2級は命を失う心配はない。ただし、肉体に過度の負荷がかかり将来的になんらかの機能障害を引き起こす可能性がある。

 光秀の場合、使う魔法は視力を補うものであり視神経系またはそれと繋がる脳に障害が出るだろうと言われている。しかし、専門家たちでも脳の機能障害がどの程度まで広がるかは予想できていない。

 無論これは、魔法暴走ラーズィープランブに伴う魔法使用が原因となるものなので、業務で本人が調整して使う分には問題はないと言われている。実際、ネフロラジャパンでの業務中は魔法を用いて一般人と変わらない事務作業を行なっている。

* * * * * *


「明希さん遅いわねぇ……」

 時刻は午後10時。ママを待つと言っていた舞も、我慢の限界を迎え眠りについた。食事中に帰宅するという連絡は入ったが、それからすでに2時間以上経過している。彼女の職場から自宅までは1時間もかからない。電車の遅延かもしれないと節子が調べてみたが、どの路線も正常運行中であった。

「ちょっと駅まで様子見に行ってみるよ」
「待ちなさい光秀。もうすぐお父さんも来るし一緒に……」
「駅までは大した道じゃないから平気だよ。帰るときに使う道もわかってるし、こっちに向かってるなら途中で会えるはずだから」
「でも……」

 節子の心の中に、このまま光秀までもが帰って来なくなってしまうのではという恐怖が膨れ上がっていた。彼女は自分の右手を左手でギュッと握りしめる。

「母さん、あのときみたいなことにはならないよ。明希も」
「光秀……」

 母親の声に感じとれる『恐れ』。その意味は光秀もよくわかっている。節子がいるであろう声の方向を向いてニッと笑顔を見せると、彼は2階に上がって出かける準備を始める。

「なんでもないといいんだが」

 節子にああ言ったものの、光秀の脳裏に先日聞いた一件のニュースが思い浮かんでいる。市内で起こっている女性の失踪事件。報道されている限り、行方不明者は3名。隣人や働いている会社内でのトラブルもなく、交友関係も良好。共通点もなく年齢も20代前半から30代後半とバラバラ。噂では、警察内部の協力者から調査機関ヴェストガインに依頼がかかったという。

「いや……何か会社でトラブルでもあったんだろう」

 考えてしまったら現実になってしまうような気がして、光秀は頭の中に浮かぶ事件の内容を霧散させるように頭を横に振る。少しだけ腰回りのきつくなったチノパンに履き替えジャケットを羽織ると、彼は壁に設置された手すりを頼りに階段へと向かい、そのまま一歩ずつ階段を降りていく。下では、ソワソワした様子の節子が光秀のことを待っていた。

「本当に行くの?」
「さすがにこの時間は人通りも少ないからね。明希が帰ってきたら電話もらえる?」
「……わかったわ。気をつけてね」

 バッグから折り畳まれた白杖を取り出して伸ばすと、光秀は壁際に置かれた自分の靴を慣れた様子で立ったまま履き、静かに玄関の扉を開けて外に出た。
 
 その後ろ姿に彼が学生だった頃の情景が重なって見えた節子は、震える手で握っていたスマートフォンを使い夫に連絡を取る。3コールほどで電話はつながった。

「おう。ちょうどこれから向かおうと思って」
「それどころじゃないの。明希さんが帰ってこなくて……様子を見にいくって光秀も出ていって……」
「……落ち着け母さん。もしかしたらまだ会社にいるかも——」
「わかってる……わかってるの……でも、またあのときみたいに……今度は明希さんも帰ってこないんじゃないかって……」
「急いでそっちいくから待ってろ!」

 節子の声から感じとれる深憂に夫であるユタカもまた、かつて取り乱した妻と目に怪我を負って帰ってきた光秀を思い出す。寒気を伴う胸騒ぎが不意に豊の心に襲いかかる。

「ユタさん、なんか忘れ物でもしたんですか?」

 扉を閉めようとしていた豊の手が止まっているのを見かけ、手伝いに来ていた男性が声をかける。

「……正信マサノブ……時間まだ大丈夫か?」
「明日は休み取ってるんで大丈夫ですけど……」
「事情は行きながら話す。一緒に来てくれ」

 扉を照らす外灯で影ができ、豊の表情をはっきり見ることはできない。しかし彼の声や雰囲気から感じ取れる不穏な気配に、男は何かが起きたのだと察した。彼の名は上杉 正信ウエスギ マサノブ。豊の店の常連客であり、光秀とは幼稚園からの幼なじみである。

 正信を助手席に乗せ、豊は節子が待っている家まで車を走らせる。昼間に比べて車の量が少ない道を、豊は神妙な面持ちでハンドルを握っている。昔、同じ顔をした彼を正信は見たことがある。どう声をかけるべきか正信が悩んでいると、踏切の音が聞こえる。車はゆっくりと速度を下げ、前の車との車間を詰めた状態で停止する。

「……何があったんです? もしかして……ミツに何か?」

 豊の表情から感じ取れるものには、光秀が関わっている。正信には確信があった。電車が通り過ぎ鳴り響く踏切の音が停止したところで、豊は何が起きたのかを彼に話し始めた。

「——行方不明って……何かの間違いじゃ……」
「明希さんは光秀にはもったいないくらいできた人だ。何かあったらこっちに心配かけまいと必ず連絡をしてくる。あの焦り様からすると、それもないんだろう」
「ミツは?」
「駅まで見にいくと出てったみたいだ。母さんもそれで昔を思い出して余計不安になってる」

 豊の言葉に正信も思うところがある。無意識に組んでいた正信の両手に汗が滲み出す。

「ユタさん……この辺で降ろしてもらっていいですか?」
「降ろすって……何を急に」
「ここで降りた方が駅から近いし、ミツが駅に向かってるなら逆から探してたら会えるでしょ」
「正信……」
「俺も……あいつがいなくなるのはもう嫌ですからね」

 正信の言葉にハッとした豊は、ウインカーを出して車を歩道へと寄せていく。

「何度も言ったが、あの時のことはお前には何も責任はないんだぞ?」

 車が完全に停止したところで、シートベルトを取りながら首を横に振った正信は、そのままドアを開けて地面に足をつける。

「あの時、俺が一緒に帰ってればあんなことにはならなかった。誰がなんと言おうと、俺の中でその答えは変わらないんですよ」

 そういって正信は、ドアを押して勢いよく閉めると振り返ることなく駅の方へと走っていった。人通りの多い商店街の方へ曲がり、彼の姿は見えなくなる。一瞬だけ見えた彼の必死の形相に、豊は胸が締め付けられるようだった。

「馬鹿野郎が……お前まで過去に囚われなくていいんだ……」


* * * * * *

 15年前、光秀は遊びに行った帰りに忽然と姿を消した。当時、同じように行方がわからなくなった人は何人もおり、神隠しとして世間を騒がせた。

 目撃者を必死に探し、彼が使うであろう道は何度も捜索された。彼が遊びに行っていた山の中も、近くを流れる川の中も。節子は捜索による過労と心労で倒れ、豊はそんな彼女を支えながらも仕事を休み捜索を続けた。しかし手がかりは何も掴めなかった。

 行方不明になってから半年……光秀の死を覚悟し始めたある日、彼は突然帰ってきた。視力を失って。

 正信は当時、光秀と一緒に遊んでいた友人の一人であり、帰る方向は彼だけが同じだった。光秀は忘れ物をしたといって遊んでいた場所に戻り、途中で別れた。彼が失踪したのはその直後だった。
 
* * * * * *


 まだ仕事帰りの会社員や大学生らが通る商店街の中を、正信は明希を探しながら駅へと向かう。通りすがる女性の顔を見ながら、顔がはっきりしない人は声をかけて顔を上げてもらった。営業中の店の中を覗きながら、店員にスマートフォンに残っていた写真を見せ明希が来ていないかを聞いて回った。不審がる周囲の視線など気にする余裕は正信にはなかった。 

「いないな……」

 駅に着くまでの間も、そして駅に着いてからも、明希の姿は見当たらない。駅の近くでまだやっている店も片っ端から入ってみたが、誰も彼女の姿を見ていない。
 15年前のように彼女もどこかに消えてしまったのか……。そんな考えが頭をよぎり焦り始める自分をなんとか抑えながら、正信は改めて周囲を見渡し明希の姿がないかを確認する。

タン……タン……タン……

 ふと、何かで地面を叩く音が正信の耳に入った。音のした方向に目を向けると、人の波が不自然に割れていくのが見える。その先にいたのは白杖で地面を叩きながら歩く光秀の姿だった。彼はそのまま駅前で佇む正信のすぐそばまで歩み寄ってくる。

「ミツ……」
「……マサか?」

 光秀のことをそう呼ぶのは、正信しかいない。思わず正信の口から出た呼び名を聞いて、光秀は足を止め声のした方に顔を向ける。

「久しぶり……だな……」
「15年ぶりか。何やってんだ、こんなところで?」
「いや……ユタさんの店で手伝ってたら……ミツの奥さんがいなくなっちまったって聞いて……それで……俺も探しに……」

 光秀の目がほとんど見えないことは知っている。しかし正信は、彼のことを見ながら話すことができず顔を背ける。

 突然帰ってきて無事を確認した時以来、正信は彼に会うことを躊躇っていた。彼の傷ついた目を見て、後悔の念に襲われたからだ。再びあの目を見る勇気が正信にはなかった。

「そうか……悪かったな。父さんの店を手伝ってもらってるのに、こんなことまで」
「ユタさんとこの手伝いは……その……新しい商品を触らせてもらうって条件だから……別にいいんだ……」

 辿々しいその返事は、彼の心境を光秀に気付かせるには十分な材料だった。目が見えなくなってから、光秀の耳は敏感になっている。単純な音だけにでなく、相手の声から伝わる心の状態にも。

「お前、まだ気にしてんのか?」
「……それは……」

 図星をつかれ、正信は言葉に詰まる。そんな彼の反応に、光秀は嘆息しながら話を続ける。

「マサが謝ってきた時、言っただろう。お前は何も悪くない」
「目が見えなくなって帰ってきて……お前は悪くないとか言われて……納得できるわけないだろ……あの時一緒に帰ってたら今頃は——」
「一緒に帰ってなくてよかったよ」
「え?」
「そしたら、お前も一緒に巻き込まれてたかもしれない。そうなったら、僕みたいに目が見えなくなるくらいじゃ済まなかったかもな」

 正信が横目に見ると、光秀の口元はわずかに左の広角が上がっていた。冗談を言ったりするときによくなる、彼の昔からの癖だ。
 
「ミツ……」

 彼は失踪していた半年間に何があったのか一切口を開いていない。わかっているのは目に怪我を負ったことだけ。話したくないような辛い出来事があったのかもしれないと、誰も追及しなかった。

 しかし、光秀との今のやりとりにどこか15年前と似た空気を感じ取り、正信は思った。昔と変わらない彼が目の前にいると。自然と正信の目から涙がこぼれ落ちた。

「今はそんなことより、明希を探す方が大事——」

チリーン……

 光秀が突然、一時停止ボタンでも押されたのかと思うほどピタッと言葉も動きも止めた。かすかに彼の耳に入った鈴の音。その音は光秀にとって明希がいることを示す音といっていい。目の見えない彼のために、音色の違う3つの鈴をくっつけて作られたキーホルダー。明希が持ち歩いている鞄に常に付けているものだ。

 ほんの一瞬だけだったが、光秀は聞き逃さなかった。その音を聞いた瞬間から、普段は光を感じるくらいしかできない彼の視界が、一瞬にして健常者と変わらぬクリアなものになっていく。目の前の正信の姿はもちろん、駅前の商店街や帰宅する人々まで全てが。

 彼の目は、眼鏡の奥で夜空の色へと変わっていた。
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