ひきこもりの町 第1部 風の芽吹き

中島 茂留

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第23話  回想  風の止んだ日

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5月中旬


役場の会議室には、まだ3人の灯りが残っていた。

ホワイトボードには「生涯共生信託(案)」の文字がかすかに残り、
机の上には、冷めかけたコーヒーと散らばった付箋。

林が書類を閉じ、ふと広海の方を見た。
「……田嶋さん、ひとつ聞いてもいいですか?」

広海が顔を上げる。

林は少し考えながら、穏やかに続けた。
「あの青年の件だけで、ここまで強く理想を追えるとは思えません。
田嶋さん、あなたも何か……似たような痛みを経験されたのではないですか?」

広海は少しだけ目を伏せ、笑った。
「さすが、心理カウンセラーでもある林さんですね。……見破られてましたか。」

林も微笑んだが、その表情の奥に静かな確信があった。

広海は息を整え、ゆっくりと頷いた。
「……十年前、妻と娘を交通事故で亡くしました。」

水野が手を止めた。
部屋の空気がわずかに重くなる。

「雨の日でした。視界が悪くて、対向車がセンターラインを越えてきた。
相手の運転も不注意でしたが、ブレーキを踏む間もなかったそうです。
避けることも、止めることもできなかった……
どうしようもない、不運な事故でした。」

淡々とした声。だがその一言ごとに、
心の奥の封印がわずかに軋むような静けさがあった。



……雨の夜。
街灯の下で、水たまりに薄い虹色のオイルの膜が張っていた。
砕けたガラス、曲がったボンネットの残骸。
広海が駆けつけた時、
通りの向こう側に、青いシートが張られていた。
その向こうで警官が静かに立っていた。
その瞬間、世界の音がふっと消えた。

翌朝、目覚めても音は戻らなかった。
時計の針の音だけが、やけに大きく響く。
外の風の音も、人の声も、まるで遠い。
時間だけが進んで、自分だけが置き去りにされたようだった。

2人の葬儀を終え、日が経つごとに、
部屋の空気は濃く、重くなっていった。
カーテンを開けても、世界は色を失ったまま。
靴を履こうとしても、手が動かない。紐が結べない。
やがて、仕事も休み、家の時計だけが生きていた。

……世界が、閉じた。
静寂は、鎧のように心を覆った。
悲しみよりも、何も感じない無音の時間が怖かった。



「……しばらく仕事はできませんでした。」
広海の声が戻る。
「でも、ある朝、外で収集車の音が聞こえたんです。
久しぶりに『音』だと感じました。
窓から外を覗くと同僚の声がして、『おはよう。今日は風が強いな』って。
その何でもない言葉が、靴紐を結ばせてくれた。」

林が小さく息をのむ。
水野は視線を落とし、手を組んだまま黙って聞いていた。

「運が良かっただけです。
声をかけてもらえたのも、偶然。
もしその朝、あの人が別のルートを回っていたら……
僕は今も、玄関の前で立ち尽くしていたかもしれない。」

広海は胸ポケットに手を当てた。
お守りの中には、亡き妻と娘の写真が折りたたまれている。

「だから、思うんです。
運に頼らなくても届く声、
偶然に任せず届く風……
そういう町を作りたい。
誰かが家の中で、音を失ってしまっても、
必ず『気づかれる』仕組みを。」

林は目を細めた。
「……なるほど。あのときの強い言葉は、痛みの裏側から出ていたんですね。」

「はい。僕があの青年を放っておけなかったのは、
かつての自分を重ねていたからかもしれません。」

部屋の風が、カーテンを静かに揺らした。
その音が、あの『無音の時間』の余韻を溶かしていく。

「でも……今はもう、風が聞こえます。」
広海は小さく微笑んだ。
「だから、この風を他の人にも届けたい。」

林がうなずく。
「田嶋さん、あなたの話……必ず残します。
制度の言葉では書けないところも、
『風の記録』として。」

広海は、わずかに笑みを返した。
「お願いします。
風が止まっていた時間を、無駄にしないために。」

林が窓を開けた。
夜の風が流れ込み、紙の端をめくる。
外の街路樹がざわりと枝を鳴らし、
遠くで車のエンジン音が低く響いた。

その音を聞きながら、広海は静かに言った。
「運が良ければ助かる……そんな偶然に頼らない町を作ることです。」

言葉は夜の風に溶け、
部屋の灯りが、ゆっくりと柔らかく揺れた。



翌朝。
丘の上では、改修が始まっていた。
林が現場に到着すると、広海はもう作業服姿で立っていた。
「おはようございます。」

2人の間を、春の風が通り抜ける。
林はその風の向こうに、前夜の言葉を思い出していた。

……「運に頼らず届く風」。

その風を、今度は自分の手で吹かせたいと思った。

丘の上には、昨日よりも柔らかな光が差し込んでいた。

……町の風が、また少し前へ進んでいた。

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