【本編完結】異世界の結界術師はたいせつな人を守りたい

鳴海カイリ

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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした

04 大丈夫

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 止まれ、止まれ、止まれ‼

 心の中で叫んで身体をどれだけ強く丸めても、震えは全然収まらない。変な汗がにじんで、心臓がばくばくいっている。
 吐きそうなほど気持ち悪い。

 一体どうしたっていうんだ。
 これが風邪とかインフルエンザというのならまだわかる。咳がして、喉や頭が痛くなって、悪寒がし始めても熱が出ればいつかは治る。横になって大人しくしていればいいだけだ。
 けれど。
 これは……どうすれば、いいのか分からない。

 知らない場所に迷い込んで、緊張して、不安で、それでパニックになっているんだとしたら、元の場所に戻らなければ治らないんじゃないだろうか。

「どうやって……」

 どうやってあそこに行けばいい。
 暗いあのトンネルの、どこをどうたどれば帰りつくのか分からない。ひざも痛くてまともに歩けないでいるっていうのに。


 ……帰ったところで、待っている人なんて誰もいないのに……。


 視界が暗くなる。
 暗い穴の中へと落ちていくような感覚。
 さあぁぁ……と血の気が引いていく。

 このまま俺は、死んでしまうんじゃないだろうか――。






「……あ」

 その時、ふさり、と頭から布がかけられた。

 柔らかい、ガーゼのような生地なのに厚みのある大きな布。ブランケットだろうか。細かな糸で織られた、落ち着いた色合いの生地だ。
 それが俺の頭からすっぽり覆いかぶさってきた。

 血の気の引いた顔で見上げると、側に、ヴァンさんが……いた。
 真っ直ぐ真剣な表情で、そのまま何も言わずにブランケットごと俺を抱え上げる。抱えたままヴァンさんは、そのままソファに腰を下ろした。

「あ、の……」
「大丈夫」

 ブランケット越しに頭を撫で、厚い胸元に寄せた。
 俺はちょうど、ヴァンさんの首と肩のあたりに額を預けるような格好になりながら、抱えられている。

「大丈夫だよ」

 肩を抱く。もう片方の手が背中を優しく、さすっていく。

 温かい。

 人の……体温だ。

 とても、あたたかい。

 ……あたたかい。

 震えはまだ止まらない。
 けれど、浅く速い呼吸が……少しずつ、深く、ゆっくりになっていく。

「ここは、安全だから」

 耳に、ヴァンさんの息がかかった。
 低く囁くような声。

「ここなら、もう、何も怖いものはない。大丈夫」
「……あの」
「大丈夫。安心していい」

 大丈夫?
 安心……して、いい?

 なぜ?
 どうして?
 見ず知らずの人間に……どうして、こんなに優しくするんだ?
 分からない。怖い。
 でも……あたたかい。

 背中をさする大きな手が心地いい。


 すごく、気持ちいい。


 ぐっと、胸の奥から何かがせり上がってきた。
 吐き気とかじゃない。
 もっと熱くて、身体の芯につっかえていたようなもの。
 それが喉を通って目頭にとどく。鼻の奥がツンとして、目が、熱くなっていく。

「う、うぅ……」
「……大丈夫」

 ヴァンさんは同じ言葉を、何度も、何度も繰り返す。
 繰り返し、やさしく背中をさする手が、温かい。
 ――温かい。

「う……」

 目が熱い。喉が詰まる。
 でもこれは、不安で苦しいからじゃない。
 何だろう……こんな温かさは知らない。

 まともに帰って来ない母親あのひとはこんなこと、一度もしたことない。物心ついたころから夜は一人でいた。朝も昼も、市の職員が様子を見に来た時も、憐れむような目とぎこちない笑顔で話をしただけだ。
 誰も……こんなふうに、抱いてくれた人はいない。

 温かい手が切なくて……胸が痛い。

 胸が……痛い、よぉ……。

「……うっ……ん……」

 漏れそうになる嗚咽おえつを、唇を噛んでこらえた。
 今、声を出してしまったら止まらなくなるような気がする。

「大丈夫」

 呪文のように、何度でも、ヴァンさんは囁き続ける。

「ここは安全な場所だから。大丈夫」
「……う」
「誰も……君を、傷つけることはできない」

 熱い瞼をヴァンさんの肩に押し付ける。

「傷つけさせない……」

 震えはまだ止まらない。
 でも、さっきよりはずっと小さく、弱くなってきている気がする。
 何より、暗い穴に落ちていくような感覚は無くなって、ただ肌に直接触れるブランケットの柔らかさと、背中を撫で続ける手の平の温かさに身体の力が抜けていく。

「リク……」

 ヴァンさんが俺の名前を呼んでいる。
 ずっと俺を抱きかかえていたせいだろう汗と……あのお茶と同じ、ハーブみたいな草の匂い。嫌いじゃない。
 自分のものじゃない心臓の鼓動が、聞こえる。
 今、自分は一人きりじゃないんだってことに、改めて気付く。初めて実感する……守られている感覚。

 今まで病気や怪我をしても、一人で治るのを待っていた。暗い部屋で毛布にくるまって、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

「う……」
「大丈夫……大丈夫だよ、リク」

 この温かな沼に浸かってはいけないと、思う自分がいる。
 きっと時間が経てば俺はどこかに連れて行かれるに決まっている。この人と俺は、たまたま地下道で遭遇しただけの、赤の他人なのだから。

 けれど今の俺には、優しく抱く腕を振り払い、押しのける力が無い。
 頭がぼぅ……として、考えが……意識が、かすんでいく。背中の手が心地いい。震えがとけていく。

「ヴぁ……ん、さ……」

 自分で、自分の腕を掴んでいた指に、力が入らなくなっていく……。
 ブランケットの隙間から視線を上げると、緑の瞳が真っ直ぐに見下ろしていた。唇の端を少し上げて、微笑んでいる。

「大丈夫……眠りなさい。ずっとそばで見ているから」

 そばで……見ている。
 見守っていてくれる。
 だから、何も心配しなくてもいいのだと。ヴァンさんの膝の上で、とろとろと眠りのふちに落ちていく。心地よさに意識を手放していく。

 大きく息を吸う。
 あれほど苦しかった呼吸が嘘のようで、空気が、肺に広がっていった。

 身体の全てを預けていく。

「……だい、じょう……ぶ……」

 呟く言葉の最後に、ヴァンさんの柔らかな唇が、まぶたに触れたような……気がした。





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