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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした
13 一日の終わり
しおりを挟むふと、人の気配がした。
その瞬間、うとうとと眠りかけていた俺の頬や首、背中の辺りで丸まっていた小さな生き物が反応して、さっとベッドの隙間や本の陰に隠れてしまった。
何だろうと頭を上げる。見ればちょうど、バスルームの方から湯上りのヴァンさんが出てきたところだった。
「……あ、すみま……せん、俺、寝ちゃった」
ほわほわした気分で寝転がったまま、俺は寝ぼけたような声を漏らした。
ヴァンさんは一度立ち止まり、きょろきょろと部屋を見渡してからベッドの方へと近づいてくる。柔らかな生地のパジャマみたいな恰好だ。こういうラフな姿もいいな。
「今……なにか、気配がした」
「うん、えぇっと……ウィセル? っていう小さな生き物」
ヴァンさんがきょとんとした顔をしている。
あれっ? 違ったかな?
「クリーム色の、このぐらいのもふもふした可愛い生き物。尻尾がふわふわで……その子たちが出て来て、一緒に寝ていました」
「ね……」
驚いている。
あぁ……そう言えば、めったに顔を見せないとか言っていたか。
「珍しいこと、でしたか?」
「そう、とても珍しいことなんだ。僕もまだ、二回しか見ていない」
「へぇぇ……」
この家にどのぐらい住んでいるのか知らないけど、来たばかりの俺が何度も見るなんてよほどラッキーってことなのかな。
飲み物は? と気を使ってくれるヴァンさんに、俺は首を横に振って答えた。
それよりもすごく眠い。
たぶん昼間、地下道でまた気分が悪くなったことで、疲れててしまったのかな。……それとも、ずっと張っていた気が緩んでしまったせいだろうか。このおもちゃ箱みたいな部屋も……すごく、落ちつく。
「あの子たちは、ヴァンさんが飼っているって……わけじゃないんですか?」
ギシ、とベッドを鳴らして横になるヴァンさんに問いかける。
片腕を枕代わりにして俺を見下ろす様子は、すっかり子供の寝かしつけスタイルだ。背中の方に追いやっていたブランケットを引き寄せて、軽くかけてもくれる。
風呂上がりのヴァンさんは、まだ少し濡れた髪が額や目元にかかって……こう、ワイルドさが増しているというか。やっぱりこうして見るとカッコイイ。
うわぁぁ……また、心臓がうるさくなってきた。
「ウィセルは、飼えるものではないよ」
「じゃあ……」
じっと見つめる緑の瞳が優しくて、俺も真っ直ぐ見つめ返してしまう。
こんなふうに人の顔をまじまじと見るのは失礼だと思うのに……目が、離せない。
「入り込んでいるのかな……」
「居心地のいいところにだけ現れる、特別な、魔法を帯びた生き物だよ。聖獣と呼ぶ人たちもいる」
「へぇぇ……」
すばしっこいハムスターぐらいに感じていたけど、すごい子たちなんだ。
ヴァンさんの指が、俺の髪をやさしく梳いていく。
きもちいい。
ヴァンさんに触られるとふわふわした気持ちで、溶けて、体中の力が抜けていってしまう。呼吸が深く、ゆっくりになっていっていく。
本当にすごく守られている、この感覚がとても気持ちいい。
「ウィセルが現れた家は守られると、言い伝えられているんだよ」
「だったら……この家は、安全、ですね……」
ふふ……と笑いながら答えた。
家を守るなんてヤモリみたいだ。爬虫類な見た目じゃないところも好感度高い。いや、ヤモリも目がくりくりしててカワイイし、俺は好きだけど。
ヴァンさんが俺を見つめながら微笑む。囁きかけてくる。
「ウィセルがいなくても、僕が守るよ」
「うん……」
不安と恐怖からパニックを起こした。あの夜、ヴァンさんは何度もそう言って、俺を安心させてくれた。
今でも瞼を閉じて思い起こすと、繰り返し囁く声が蘇ってくる。
柔らかなブランケット越しに抱きしめながら、「大丈夫」「ここは安全だから」「誰も君を、傷つけることはできない」と。そして「傷つけさせない……」と言ってくれた。
たとえ俺を落ち着かせるためだけの、その場限りの言葉だったとしても、どれほど嬉しかったかヴァンさんには分からないだろうな……。
うん、俺は本当に、嬉しかったんだ。
嬉しくてずっと張りつめていた気持ちがとけた。
「ふふっ……」
ウィセルを真似して、ヴァンさんの胸元に顔を寄せてみた。
俺と同じ石鹸――ジェル状だったからボディソープ? シャンプー? どっちでもいいか、俺と同じ匂いがする。いや、この場合は、俺がヴァンさんと同じ匂いになった、と言った方がいいのかな。
猫になった気分で、頬をすりつけてみる。
「リク……」
「……ん……」
ヴァンさんって、あったかいなぁ。
ブランケット越しの背中にヴァンさんの腕を感じていると、ゆっくり抱き寄せられた。俺はますますヴァンさんの胸に顔をうずめる。
なんだか俺……こんなふうに、人に甘えることってなかった気がする。
いいのかな……。
近、すぎたりしないかな……。
でも、背中を撫でてくれる手のひらが……気持ちよくて。
抱き枕代わりでもいい。今は……今だけは、こうしていてもらいたい。
今夜だけでも……。
そっと、ヴァンさんの背中に腕を回してみる。
しっかりとした骨と筋肉の存在を、シャツ越しに感じる。俺なんかじゃびくともしないような強さだ。
……できるだけ人に迷惑をかけないようにって……そう、思って来たけれど、このぐらい頼りがいがあれば、ちょっとだけ掴まっていても……いいかな。
許して、くれる……かな。
「ヴぁん……さ……」
このまま……眠ってしまいそうだ。
ヴァンさんが、俺の髪に口づけしている。
「かわいいね……」
「……んん……」
うつらうつらしながら、喉を鳴らした。
いつか……「かわいい」じゃなくて、ヴァンさんみたいにカッコイイ大人になりたい。そんなふうに思いながら、俺は……眠りに落ちていった。
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