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第2章 届かない背中と指の距離
37 もしも僕に力が無かったら
しおりを挟む明けの時間を過ぎたばかりの初夏の街は、樹々の緑も眩しくて、道行く人たちも浮足立っているように見える。ヴァンが大結界の再構築を施す夏至の頃は、どこの街でも祭りをするというから、それの準備もあるのだろう。
大通りを越えたすぐ先にある食堂は、どちらかというとカフェといった雰囲気の軽食屋で、日の出と同時に店を開ける。今は朝の忙しい時間が過ぎて昼には早い、午前では一番人の少ない時間帯だ。
ここでもヴァンは馴染みなのか、顔を見せただけで「いつもの二つですね」と、笑顔の店員に迎えられた。
テラス席に向かい合って腰を下ろす。
風が気持ちいい。
この世界には「一週間」という曜日の区分けが無いから、今日が平日とか休日とか、そういう違いはない。だけどきっと皆が学校に行ったり働き出したりしている時間帯に、のんびりテラス席で朝ご飯なんて、すっごく贅沢だ。
「何か困っていることや、足りない物は無いかい?」
ヴァンが、微笑みながらきいてくる。
いつも俺に不足が無いか、不安や心配事は無いか心を砕いてくれる。
本当にやさしい人だ。
だから俺も同じように笑い返す。
「何もないよ。ヴァンこそやっておいてほしいことや、俺がもっと覚えなきゃいけないことは無い?」
「今のリクで十分だよ」
「でも俺、もっと魔法覚えたいな」
仮にもお弟子さんに見られているなら尚更。それに――。
「俺には魔力がたくさんあるんだろ? こう、有効活用できないかな……って」
ヴァンが微笑み返す。
だって、あるものは使わないともったいないじゃないか。
ヴァンは急がなくていいっていうけれど、風も氷も火も、使えるようになれば暮らしの幅はぐっと広がる。それから文字を覚えて、この世界の理とか、歴史とか……。俺が覚えなければならないことはいろいろあると思うんだ。
このアールネスト王国にも学校のような所はあるらしい。けれど今までそういう所に通うという話が、ヴァンから出たことは無い。
ということは……今の俺には学校に通うだけの資格が無いか、必要ないと判断しているのか……それとも、学費がめちゃくちゃ高いのかもしれない。
分からないことはヴァンが全部教えてくれる。だったら無理にでも学校に行かなければならない、といこともない。
それでも。
それでももっと、俺に出来ることは無いかと探してしまう。
「異世界人でもあるリクの魔力は特殊だからね。ゆっくり、少しずつ、使えるようになっていこう」
うん、と俺は頷く。
大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
ヴァンが焦らなくていいって言っているんだ。その言葉を信じよう。
美味しそうな料理が運ばれてくる。
豆や野菜が入ったスープに焼きたてのパン。こんがりと焼いた卵や厚いベーコンみたいな肉。香りのいいお茶。シンプルだけど朝ご飯にしてはボリュームも多い。俺が食べ盛りだと分かって、ちょっと量を増やしてくれている。
うん、今はこれも大事だ。
ちゃんと食べて大きくなって、いつかヴァンの身長だって追い越して見せるんだ。
いただきます、の挨拶をして肉からかぶりつく。香辛料と端っこが少し焦げたカリカリ感がたまらない。スープも深みがあって、野菜がとろとろに煮込まれている。パンだってふわっふわだ。
幸せだなぁ……。
「リク……」
ゆっくりと食事をすすめるヴァンが、俺を見つめながら囁いた。
「もし、僕に魔法の力が無くて、地位も金も才能も無かったらどうする?」
「えっ?」
ヴァンの声は静かだ。
穏やかだと言ってもいい。
けど、こういう質問は珍しいな。
俺はスプーンを置いて答える。
「別にどうもしない」
「どうもしない?」
「うん……そんなの、ヴァンの人柄には関係ないし」
一口、お茶を飲む。
うん、関係ない。
ヴァンと出会って行ったことも無いような所に行った。魔法に驚いて、美味しいものを食べて、新しい服をたくさん買って貰って……。でも、それがヴァンのそばにいたいと思った理由じゃない。
怖くて、不安で、死んでしまうんじゃないかと思った時、ずっと抱きしめていてくれた。
耳元で「大丈夫だよ」と繰り返し言ってくれた。
俺のことを「守る」と言ってくれて、そばにいることを許してくれた。それは……ヴァンの魔法の力とか、地位やお金と関係ない。
「ヴァンさえいてくれればいい。あ、でも……お金は無かったら生活できないから、その時は働くよ」
「働く……?」
「うん。俺、何が得意か分からないけれど、どんな仕事でも覚えるよ。居酒屋でもパン屋でも。田舎で野菜作ったりとか魚獲ったり。どんなことでもやるよ」
「リクを酒場では働かせたくないなぁ」
ヴァンが笑った。
よかった。
明日からしばらく離れて暮らすから、もしかしてヴァンも少し、寂しいとか、思っていたりするのかな? だったらちょっと……嬉しいというか。くすぐったい気持ちだ。
「ヴァンは優しいよ」
何だろう、ちゃんと伝えたい。
「とっても親切で面倒見がよくて、なのに自分のことはてきとうで。魔法を扱う時の集中力とかは凄いな……って思うし。信念があって……真面目で、でも時々ちょっとズルしていたり。心が自由な感じで面白いなぁ……って」
「おもしろい?」
「うん。あと……ヴァンのそばにいると安心する」
安心するんだ。
すごく、ふわふわした気持ちになる。
そして時々、胸の奥が痛くなる。あれはいったい何だろう。
分からないけれど今は、安心する、の気持ちの方が大きい。
「人がそばにいるのが心地いいなんて、初めて知ったというか」
「リク……」
「俺、人がそばにいると……緊張するというか、しっかりしないと……って、いつも思っていて」
ヴァンの前でもしっかりしなきゃと思っているのに、いつも力が抜けてしまう。
「俺にはヴァンがいればいい。地位とか家柄とか、俺そういうの全然分からないし。ヴァンの才能は努力のおかげなんだって、今ならわかる。だからそういうの全部含めた、人柄が好きだよ!」
「そう……」
とろけそうな笑みを向けてくる。
今みたいに、ヴァンが微笑んでくれると嬉しくなる。
同時に、ちょっと心配にもなる。
「ヴァン、大結界の仕事、嫌なの?」
「好きにはなれないね」
すごく大変な仕事だと、以前、ジャスパーから聞いた。
十四歳の頃から、気が狂ってもおかしくないようなことをずっと続けていたと。泣き言ひとつ言わないで。負けず嫌いだからだとも言っていたけれど、きっとヴァンは責任感が強いんだ。人一倍。
「辞めることはできないの?」
「んん……僕と同等かそれ以上の力を持った者が現れて、代替わりでもしない限り無理だろう。しかも僕は三人いる結界術師の中で一番年若い。順に引退するなら、最後になるかな」
ヴァンが魔法の能力を失う以外に、辞める方法は無い。
「大丈夫だよ、リク。国の人々を護っているという誇りはある」
そう言って腕を伸ばし、俺の髪をやさしく撫でた。
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