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第2章 届かない背中と指の距離
56 何かがおかしい
しおりを挟む数日前にジャスパーが来て、調子の悪い俺の様子を見てくれた。
病気なのかとたずねると、「気を張っていたのがひと段落ついて、疲れになって出たんだよ」と笑顔で答えた。
そう……なのだろうか。
頭は熱に浮かれたようにぼーっとしている。変な汗が出て……それなのに身体はどこか肌寒い。魔法酔いや風邪に似ているけれど違う。
そして――。
あいかわらず頭のなかはぐちゃぐちゃで、思考はまとまらない。
ジャスパーに調整してもらってから、めまいはずいぶんよくなった。少しは起きられるようになったおかげで……今、こうして昼過ぎのバスルームで汗を流している。
そろそろ出ないと、それはそれでまた心配されそうだ。
今日も階下――たぶん一階の店の方にヴァンがいる。
ヴァンとの距離を測りかねて……何となく、避けるような態度になった。そんな俺に気づいたのか、無理にそばに来なくなった。
この世界に来てからというもの夜は一緒のベッドだったのに、ここ半月ばかりは別々だ。俺がソファで寝ると言ったら体調がすぐれないのにと叱られてからは、ヴァンはずっと二階のソファで休むようになっている。
家主をベッドから追い出すなんて最低だ。
そう思っても、身体がいうことをきかない。
本当になんなんだろう。何かがおかしい。
いや、そんな俺の体調よりも……考えないといけないことがある。魅了と呼ばれる危険な力を、どうにかしないと。
「部屋にある本が……読めたらな……」
ヴァンは魔法の使い手だ。
その手の本も相当な量が置いてある。それなのに、俺はこの世界の文字が読めない。
会話は問題なくできるのに。どうしてか分からないけれど、そうなのだとしか言えない。だから今はひとつひとつ字を覚えている途中で、まだ、山とある専門的な魔法書は、知らない国の言葉という模様のようにしか見えない。
「文字を覚えて……それから、調べて……気が、遠くなりそうだ」
バスタブから立ち上がり、裸のまま洗面台の鏡の前に立つ。
黒い髪。黒い瞳。
この世界……いや、この国には珍しい色らしい。顔を合わせる人たちは皆、黒曜石だとか黒玉とか、希少な宝石に譬えてくれるけれど俺には陰鬱な色にしか見えない。
ヴァンのような、明るいクリームイエローの髪や透き通った緑の瞳だったら、少しは華やかな……明るい気持ちになるのに。
いつまでも……そばで見ていたいな……と思えるのにな。
「何考えてるんだ、俺……」
今、どうにかしなきゃいけないのは、魅了の問題だ。
俺の姿なんかどうでもいい。
どうでも……。
……ヴァンは、ヴァンの目に俺は、どんなふうに映っているのだろう。
ずっと以前、初めて馬車に乗った時、道行く人が注目するのを見て悪目立ちしているのかときいたことがある。ヴァンはやさしく微笑んでから、「リクが可愛くて、目が離せなくなるのさ」と言っていた。
俺を喜ばせようとする言葉だったのだと思う。
「それとも、あれも……俺の魅了で無理やり言わせていたのかな……」
たくさんかけてもらった優しい言葉も。
この世界に残ると選んだ朝、俺の目の前で片膝をついて、まるで誓いのように言った言葉がある。「この胸の魔法石はあなたのものだ」と――あの言葉もヴァンの意思ではなかったとしたら……。
「いや、だから! そういうのは今、考えることじゃない」
いくら頭の中から追い払っても、ヴァンのことばかり浮かんでくる。
優しく頭を撫でて、髪を梳いて、額に口をつける。
もう……ヴァンに触れなくなって何日経っただろう。声も熱も。同じ家で暮らしているのに、存在がひどく遠い。
残り香のような匂いだけが、俺のまわりを漂っている。
抱き寄せられて。
耳元で囁く。熱い息が首元にも触れる。
――リク。
両腕を広げて言う。
――おいで……リク。
ヴァンの肩や首元や胸に鼻先をうずめると、ヴァンの匂いに体の芯がじんじんしてくる。優しく肩を抱きしめて、安心できるように背中をさすってくれる。その大きくて温かな手のひらの……感覚。
いつもシャツやブランケット越しにしか感じられないヴァンの手を、直接、肌で感じることが出来たらどんな感じがするのだろう……。
ため息のように、声が漏れる。
「……ぅ、ん……」
くらくらする。
また……めまいだろうか。
いや違う。めまいに似ているけれど、もっと地に足がつかないような感覚だ。ふわふわとした、心地よくて夢をみているような気持ちになる。
背中や、胸や、膝や腰や……背骨のどことは言えない芯の部分が、ひどく疼く感じがする。
「……んんっ……」
瞼を閉じたまま、想像してみる。
ヴァンがあの大きな手で、俺に触れる。
身体を洗ってくれた時のように、隅々まで、奇跡を生み出す魔法の指の腹が、俺のかたちを確かめるように肩の骨や背骨をなぞり、這っていく。
腰へと、下りていく。
「……ぁ、ふ……ぅうう……」
これはなんだろう。
分からない。
魔力が……身体の中でうねっているんだろうか……。力を解放したい。なのに何かが邪魔をする。ぐつぐつに煮えた鍋に無理やり蓋をしているような感覚だ。
つらい。……早く、放ってしまいたい。
なのにできない。
……しちゃ、いけない。
「ん……っ……」
助けてほしい。
……だめだ、自分の力でどうにかしないと。
「……ん、ヴぁ、ん……んんっ……」
自分で自分の肩を抱く。
涙がにじんでくる。
どうにかしなければ……でも、どうすればいいのか分からない。
首もとの、守りの魔法石がうっとおしい……。ヴァンが俺のためにと探して、贈ってくれたものなのだから手放してはいけないのに。
縄でがんじがらめらされているような、感覚もある……。
無理やり――。
「――――っあぁっ……」
ギシッ、と見えない力に締め上げられた感覚に声が漏れた。
身体が揺れて思わず鏡に手をつく。
肩で呼吸を繰り返す。今のは……今の感覚は一体何だったのだろう。初めてだ。まだ身体の奥がじんじんしている。甘い痺れが残っている。
「はあっ、あっ、ぁ……はっ……」
ゆっくりと顔を上げる。
鏡に映った自分の顔が目に入る……その、姿に、俺は息を止めた。
ひたいに張り付いた髪。
耳まで赤く火照った……上気した、頬。
瞳は涙で潤んで、午後の明るい窓の光に似つかわしく無いほど、濡れている。一瞬、口紅でも塗っているのかと思うほど赤い唇。半開きの歯の隙間から、熟れた果実のような舌が覗いている。
よだれが一筋、口角を伝って喉に流れ落ちる。
艶めかしい……女みたいな、顔。
強い酒にでも酔っているかのにように。欲に……溺れたかのように。
気持ち悪い。
これが……俺の、姿なのか……?
俺はこんな顔をヴァンに見せていたのか?
――と、その時、誰かが階段を上ってくる音がした。
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