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雨の日のゲイシャにご用心ください。
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この上司は自分がカッコよく見えるように、常に努力を怠っていないことを知らなかったら、憧れの気持ちをもって見上げていただろう。
(でも、そんな事を思いながらタオルを渡す俺って一体……)
まるで戦前の良妻のようだ。身に染み付いてしまった世話焼き癖が恨めしい。
「車庫から走ってきたんですか?」
「ああ、どうせ車だから傘をもって行かなかったんだ」
行きは小降りだったから油断したとぼやきながら身体を拭く。セットしてあったはずの長めの前髪は、雨に濡れてすっかり垂れ下がっていた。眼鏡は視界が水玉模様に見えるのではないかと思うほど水滴がついている。
三枝はヒーターのスイッチを入れ、保温したままのコーヒーを注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
しかし一口含んだとたん、探偵は顔をしかめた。
「何だ、これは……濃すぎないか?」
コーヒーメーカーのポットに落ちていた色を見ていなかった紗川には飲むまで分からなかったのだろうが、これは3時間かけて濃縮されたマンデリンG1だ。
「せっかく用意しておいたんですから文句を言わないでください。すぐ帰ってくるって言うから作っておいたんです。もしも濃いとしたら、先生が『すぐ』帰ってくるって言ったせいですからね」
「なるほど、随分と長い『すぐ』になってしまったわけか」
紗川が苦笑いするのも当然だろう。帰宅までに3時間もかかるなら、「すぐ」とは言えない。
その弱みに付け込んだ。たまには仕返しをしたい。
濃縮されてしまったとしても文句を言わずに飲むのが当然の礼儀である、とばかりに言ってはみたものの、実際は異なる。
単に、三枝もスイッチを切り忘れてしまって、加熱が続いてしまっただけで、わざとではなかった。
(ま、これぞ尻に敷いていた草履を懐で温めていました~作戦だよな!)
史実は分からないが、自分が秀吉の立場なら、懐で温めるなどという事はしない。
とはいえ、三枝が思っていた以上にひどい味だったらしい。紗川は見たこともないような苦々しい顔をしていた。
「お味はいかがですか?」
「煮詰まったせいで苦いうえに酸化も進んでいる。もとはなんだ?」
「マンデリンG1です」
「マンデリンに対する冒とくだ」
耐えきれないとばかりにミネラルウォーターを汲みに行き、飲み干している。
(この辺で許しておくことにしよう。一応、上司だしな)
煮詰まったコーヒーはまずいだけではなく、体にも悪いだろう。
「無理して飲まなくてもいいですよ」
溜飲が下がったとは、こういう時に使う言葉に違いない。三枝は笑いながらカップを回収しようとした。
だが、紗川はカップを持ち上げ、顔をしかめながら飲んでいる。
「作りなおしてきます。保温にしたままにしちゃっただけなんで」
「いや、いい」
「コーヒー、いらないんですか?」
紗川は、食事を抜いてもコーヒーだけは飲む。それも、スペシャリティコーヒーにこだわっている。
焙煎の仕方、挽き方、淹れ方。全てにこだわりがある。
その紗川が保温にしたまま、濃縮され参加してしまったコーヒーを飲んでいる。
唖然としている三枝の前で、まずいコーヒーを一気に飲み終えてしまった。
「すぐに戻ると言ったのに、結果的に嘘になってしまった。上司として、責任を取る必要があるだろう?」
紗川は悪戯をするように微笑むと、小さな紙袋を三枝の前で振った。
からからと乾いた音がする。
「淹れてやる。さっき煎ってもらったばかりの豆があるんだ」
「えっ! マジですか! やったあ!!」
「遅れた理由はこれだ。君も飲む権利がある」
「ありがとうございます。それなんですか?」
「ゲイシャだ。稀少な豆でなかなか手に入らないんだ。形も面白い。見て見るか?
紗川はそう言って一粒の豆をてのひらに乗せた。
「え、これ、コーヒー豆なんですか?」
三枝が知っている豆と形が違う。
細長いのだ。
「驚いたか? ゲイシャ種の特徴だ。ちなみに、このゲイシャというのは、日本の芸者は全く関係ない。エチオピアの地名に由来するものだそうだ」
「へえ……」
「ゲイシャフレーバーと言われる香りは独特の華やかさがある。爽やかな酸味が特徴だが、品のいいアフターフレーバーもこのコーヒーならではの味わいだ。」
「へえ……酸味とか華やかな香りっていうとアフリカ系の豆を連想しますけど。あれとは違うんですね」
「あちらは南国の色彩のような鮮やかさがある。ゲイシャはどちらかというと、ジャスミンのような控えめな華やかさだな。知っているか? コーヒーの花はジャスミンに似ている」
「そうなんですか?」
「白く可憐な花だ。時間があるときにネットで見て見ると言い。さて、今年最初のゲイシャをいれてやろう」
紗川の大きなてのひらで、猫っ毛の髪をくしゃりとかき混ぜられてしまった。せっかく落ち着かせている髪が跳ねるから嫌なのだが、文句を言う前に、紗川は道具を取りにキッチンに消えてしまった。
珍しい豆が手に入って機嫌がよさそうだ。
希少種というからには、随分前から予約していたのではないだろうか。煮詰まったコーヒーすら機嫌よく飲めてしまうほどだ。よほど楽しみだったに違いない。
(先生の機嫌がいいのは何よりだけど。それより問題はこっちだよな)
スマートフォンの画面をタップして、先ほど届いたメッセージを読み直す。何度見ても不思議に思えた。
(でも、そんな事を思いながらタオルを渡す俺って一体……)
まるで戦前の良妻のようだ。身に染み付いてしまった世話焼き癖が恨めしい。
「車庫から走ってきたんですか?」
「ああ、どうせ車だから傘をもって行かなかったんだ」
行きは小降りだったから油断したとぼやきながら身体を拭く。セットしてあったはずの長めの前髪は、雨に濡れてすっかり垂れ下がっていた。眼鏡は視界が水玉模様に見えるのではないかと思うほど水滴がついている。
三枝はヒーターのスイッチを入れ、保温したままのコーヒーを注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
しかし一口含んだとたん、探偵は顔をしかめた。
「何だ、これは……濃すぎないか?」
コーヒーメーカーのポットに落ちていた色を見ていなかった紗川には飲むまで分からなかったのだろうが、これは3時間かけて濃縮されたマンデリンG1だ。
「せっかく用意しておいたんですから文句を言わないでください。すぐ帰ってくるって言うから作っておいたんです。もしも濃いとしたら、先生が『すぐ』帰ってくるって言ったせいですからね」
「なるほど、随分と長い『すぐ』になってしまったわけか」
紗川が苦笑いするのも当然だろう。帰宅までに3時間もかかるなら、「すぐ」とは言えない。
その弱みに付け込んだ。たまには仕返しをしたい。
濃縮されてしまったとしても文句を言わずに飲むのが当然の礼儀である、とばかりに言ってはみたものの、実際は異なる。
単に、三枝もスイッチを切り忘れてしまって、加熱が続いてしまっただけで、わざとではなかった。
(ま、これぞ尻に敷いていた草履を懐で温めていました~作戦だよな!)
史実は分からないが、自分が秀吉の立場なら、懐で温めるなどという事はしない。
とはいえ、三枝が思っていた以上にひどい味だったらしい。紗川は見たこともないような苦々しい顔をしていた。
「お味はいかがですか?」
「煮詰まったせいで苦いうえに酸化も進んでいる。もとはなんだ?」
「マンデリンG1です」
「マンデリンに対する冒とくだ」
耐えきれないとばかりにミネラルウォーターを汲みに行き、飲み干している。
(この辺で許しておくことにしよう。一応、上司だしな)
煮詰まったコーヒーはまずいだけではなく、体にも悪いだろう。
「無理して飲まなくてもいいですよ」
溜飲が下がったとは、こういう時に使う言葉に違いない。三枝は笑いながらカップを回収しようとした。
だが、紗川はカップを持ち上げ、顔をしかめながら飲んでいる。
「作りなおしてきます。保温にしたままにしちゃっただけなんで」
「いや、いい」
「コーヒー、いらないんですか?」
紗川は、食事を抜いてもコーヒーだけは飲む。それも、スペシャリティコーヒーにこだわっている。
焙煎の仕方、挽き方、淹れ方。全てにこだわりがある。
その紗川が保温にしたまま、濃縮され参加してしまったコーヒーを飲んでいる。
唖然としている三枝の前で、まずいコーヒーを一気に飲み終えてしまった。
「すぐに戻ると言ったのに、結果的に嘘になってしまった。上司として、責任を取る必要があるだろう?」
紗川は悪戯をするように微笑むと、小さな紙袋を三枝の前で振った。
からからと乾いた音がする。
「淹れてやる。さっき煎ってもらったばかりの豆があるんだ」
「えっ! マジですか! やったあ!!」
「遅れた理由はこれだ。君も飲む権利がある」
「ありがとうございます。それなんですか?」
「ゲイシャだ。稀少な豆でなかなか手に入らないんだ。形も面白い。見て見るか?
紗川はそう言って一粒の豆をてのひらに乗せた。
「え、これ、コーヒー豆なんですか?」
三枝が知っている豆と形が違う。
細長いのだ。
「驚いたか? ゲイシャ種の特徴だ。ちなみに、このゲイシャというのは、日本の芸者は全く関係ない。エチオピアの地名に由来するものだそうだ」
「へえ……」
「ゲイシャフレーバーと言われる香りは独特の華やかさがある。爽やかな酸味が特徴だが、品のいいアフターフレーバーもこのコーヒーならではの味わいだ。」
「へえ……酸味とか華やかな香りっていうとアフリカ系の豆を連想しますけど。あれとは違うんですね」
「あちらは南国の色彩のような鮮やかさがある。ゲイシャはどちらかというと、ジャスミンのような控えめな華やかさだな。知っているか? コーヒーの花はジャスミンに似ている」
「そうなんですか?」
「白く可憐な花だ。時間があるときにネットで見て見ると言い。さて、今年最初のゲイシャをいれてやろう」
紗川の大きなてのひらで、猫っ毛の髪をくしゃりとかき混ぜられてしまった。せっかく落ち着かせている髪が跳ねるから嫌なのだが、文句を言う前に、紗川は道具を取りにキッチンに消えてしまった。
珍しい豆が手に入って機嫌がよさそうだ。
希少種というからには、随分前から予約していたのではないだろうか。煮詰まったコーヒーすら機嫌よく飲めてしまうほどだ。よほど楽しみだったに違いない。
(先生の機嫌がいいのは何よりだけど。それより問題はこっちだよな)
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