【R18】陰に堕ちる 〜優しい彼女より、狂った彼女に溺れました〜

いろは杏

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第1話 どこか足りない

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 夕暮れの校舎は、どこか舞台装置めいていた。
 校庭に射し込む橙色の光は、ちょうどよく優しげで、廊下に伸びた二人分の影を、まるで誰かの憧れのように長く引き伸ばしていた。

「今日のプリント、ちゃんと出した?」

 隣を歩く彼女の声は、耳に心地よく届いた。
 花村優里はなむら ゆうり。学年トップの成績と、抜群のスタイル、清楚で明るい性格。言ってしまえば――完璧だ。
 その完璧さの一部として、藤堂晶とうどう あきらは彼氏という肩書きを持っていた。

「ああ、出したよ。あの先生、提出忘れるとすぐ顔覚えるからな」

「でしょー。あの鋭い目で、三日くらい見張られるよ」

 ふたり並んで笑い合う。周囲の目がこちらに向けられているのが分かる。
 羨望、賞賛、嫉妬……それらの視線を、晶はすでに何度も経験していた。

「――ねえ」

 優里がふと足を止めた。くるりとこちらを向く。
 栗色の髪が陽の光を受けて淡くきらめき、白い肌に微かに影が落ちた。

「明日、久しぶりに映画でも行かない?」

「映画? いいけど、何観るんだ?」

「私、ホラー苦手だから、それ以外ならなんでも!」

 そう言って、無邪気に笑った彼女の横顔に、晶もまた笑みを浮かべる。
 けれどその笑みの奥に、うっすらとした波紋が広がるのを、彼自身まだ自覚していなかった。

 この時間は、心地よいはずなのだ。
 他人が羨む彼女。うまくいっている関係。
 幸せなはずの日常。そのはずなのに――どこか、冷めた自分がいた。

(……また、同じやり取りだな)

 そんな思いが、頭の片隅で小さく響く。
 彼女が楽しげに語る未来のプラン。行きたい場所、したいこと。
 それを肯定するためだけの自分の相槌が、まるで録音された音声のように思えてくる。

 悪いのは自分だ。
 優里は何も間違っていない。むしろ、自分にはもったいないほどの存在だ。

 けれど――

(なんでだろうな……)

 その問いに答えはなかった。ただ、静かなざらつきだけが胸の奥で渦巻いていた。

     * * *

 帰宅して、いつものようにLINEを開く。優里からは、日付が変わるまで絶え間なくメッセージが届く。
 今日は楽しかった。また明日ね。おやすみなさい、好きだよ。

 どの言葉も綺麗で、優しい。でも――
 スマートフォンの画面を見つめる自分の顔が、妙に無表情だったことに気づく。

(俺は、何を望んでるんだ?)

 ベッドに寝転んで、天井を仰ぐ。
 好き、という言葉に違和感はない。けれど、響かないのだ。
 どこか、鈍い。表面を撫でるような甘さだけがあって、心の奥まで届いてこない。

 深呼吸して、目を閉じる。
 まぶたの裏に浮かぶのは、優里の笑顔でも、言葉でもない。
 ただ――あの橙色の夕暮れの中、静かに沈んでいくような、自分自身の輪郭だった。

(……なんか、変だな)

 そう思いながらも、眠気は訪れなかった。
 何かが欠けている。何かが足りない。
 自分でも説明できないその欠落の形が、心の奥底でひっそりと開き始めていた。

     * * *

 翌日の放課後。
 目的もなく歩いていたはずなのに、晶の足は自然と、校舎の北側にある図書室へ向かっていた。

 天井が高く、古びた本棚が壁のように連なるその空間は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 パソコンもテレビもない。話し声も笑い声もない。
 あるのはページをめくる小さな音と、古紙と木の香り、そして冷たいほどに清らかな静けさだけ。

 晶はゆっくりと書架のあいだを歩いた。
 特に目的の本があったわけじゃない。ただ、何かを探しているような気がしていた。
 目を閉じて耳を澄ませば、自分の呼吸すらやかましく感じるほど、世界は沈黙していた。

 ――カサ。

 どこかで、紙のこすれる音がした。

 反射的にそちらを振り返る。
 本棚の向こう、わずかな隙間から見えたのは、黒髪の少女の後ろ姿だった。
 座り込むようにして本を読んでいる。制服姿。
 髪は肩よりも長く、まるで目隠しのようにその横顔を覆っていた。

 誰だろう――そう思った瞬間、本の一冊が彼女の膝から滑り落ちた。

「……あ」

 声にならない声が、わずかに洩れた。
 晶は思わず、落ちた本を拾い上げる。表紙は擦れていて、タイトルは古風な活字で綴られていた。

 棚の向こうに差し出す。すると、すっと細く白い指が伸びてきた。
 その指先が、晶の手にわずかに触れた瞬間――

 ふわり、と。
 空気が甘く濡れたような香りで染まった。

 湿った雨上がりの土の香りと、蜜に似た、どこか艶めいた匂い。
 呼吸と共に喉の奥まで流れ込み、なぜか心臓の鼓動が一拍、強く跳ねた。

(……なんだ、これ……)

 本を受け取った少女が、ふいに視線を上げた。

 黒髪の奥からのぞいたその瞳は、どこか焦点の定まらない、暗く深い色をしていた。
 感情が読めない。むしろ、こちらの内側を覗き込んでくるような、そんな視線。

 晶が言葉を発するより早く、彼女はすっと目を逸らした。
 何も言わず、何も表情を変えず、再び本に視線を落としたその仕草に、妙な緊張が残った。

(誰……だ?)

 そのまま晶は立ち尽くす。数秒、いや、もっと長く感じた。
 やがて気まずさに押されるように、図書室を出た。

     * * *

 廊下を歩く足が、妙に浮いているような気がした。
 呼吸の音がうるさい。心なしか、指先が熱を帯びていた。

 スマホに目を落とすと、優里からメッセージが届いていた。

《今日もお疲れさま。明日はお弁当、2人分作ってくるね!》

 いつもの、優しさに満ちた言葉。
 だが今は、まるで遠い誰かが送ってきたもののように感じた。

 頭の奥に、残っていた。

 あの香り。あの視線。
 あの少女の、名前も知らない気配が。

(……変な匂いだったな……)

 思い返すほどに、記憶の中で匂いは濃く、甘くなる。
 思い出そうとすればするほど、胸の奥にじわじわと何かが染みこんでいく。

 理由もなく、息を吸い込んでしまう。
 どこかに、あの匂いが残っている気がして。

 胸を押さえ、晶は呟いた。

「……まさか、な」

 そう言いながらも、そのまさかの感触が、心の底でざらりと鳴った。
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