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第1話 どこか足りない
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夕暮れの校舎は、どこか舞台装置めいていた。
校庭に射し込む橙色の光は、ちょうどよく優しげで、廊下に伸びた二人分の影を、まるで誰かの憧れのように長く引き伸ばしていた。
「今日のプリント、ちゃんと出した?」
隣を歩く彼女の声は、耳に心地よく届いた。
花村優里。学年トップの成績と、抜群のスタイル、清楚で明るい性格。言ってしまえば――完璧だ。
その完璧さの一部として、藤堂晶は彼氏という肩書きを持っていた。
「ああ、出したよ。あの先生、提出忘れるとすぐ顔覚えるからな」
「でしょー。あの鋭い目で、三日くらい見張られるよ」
ふたり並んで笑い合う。周囲の目がこちらに向けられているのが分かる。
羨望、賞賛、嫉妬……それらの視線を、晶はすでに何度も経験していた。
「――ねえ」
優里がふと足を止めた。くるりとこちらを向く。
栗色の髪が陽の光を受けて淡くきらめき、白い肌に微かに影が落ちた。
「明日、久しぶりに映画でも行かない?」
「映画? いいけど、何観るんだ?」
「私、ホラー苦手だから、それ以外ならなんでも!」
そう言って、無邪気に笑った彼女の横顔に、晶もまた笑みを浮かべる。
けれどその笑みの奥に、うっすらとした波紋が広がるのを、彼自身まだ自覚していなかった。
この時間は、心地よいはずなのだ。
他人が羨む彼女。うまくいっている関係。
幸せなはずの日常。そのはずなのに――どこか、冷めた自分がいた。
(……また、同じやり取りだな)
そんな思いが、頭の片隅で小さく響く。
彼女が楽しげに語る未来のプラン。行きたい場所、したいこと。
それを肯定するためだけの自分の相槌が、まるで録音された音声のように思えてくる。
悪いのは自分だ。
優里は何も間違っていない。むしろ、自分にはもったいないほどの存在だ。
けれど――
(なんでだろうな……)
その問いに答えはなかった。ただ、静かなざらつきだけが胸の奥で渦巻いていた。
* * *
帰宅して、いつものようにLINEを開く。優里からは、日付が変わるまで絶え間なくメッセージが届く。
今日は楽しかった。また明日ね。おやすみなさい、好きだよ。
どの言葉も綺麗で、優しい。でも――
スマートフォンの画面を見つめる自分の顔が、妙に無表情だったことに気づく。
(俺は、何を望んでるんだ?)
ベッドに寝転んで、天井を仰ぐ。
好き、という言葉に違和感はない。けれど、響かないのだ。
どこか、鈍い。表面を撫でるような甘さだけがあって、心の奥まで届いてこない。
深呼吸して、目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、優里の笑顔でも、言葉でもない。
ただ――あの橙色の夕暮れの中、静かに沈んでいくような、自分自身の輪郭だった。
(……なんか、変だな)
そう思いながらも、眠気は訪れなかった。
何かが欠けている。何かが足りない。
自分でも説明できないその欠落の形が、心の奥底でひっそりと開き始めていた。
* * *
翌日の放課後。
目的もなく歩いていたはずなのに、晶の足は自然と、校舎の北側にある図書室へ向かっていた。
天井が高く、古びた本棚が壁のように連なるその空間は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
パソコンもテレビもない。話し声も笑い声もない。
あるのはページをめくる小さな音と、古紙と木の香り、そして冷たいほどに清らかな静けさだけ。
晶はゆっくりと書架のあいだを歩いた。
特に目的の本があったわけじゃない。ただ、何かを探しているような気がしていた。
目を閉じて耳を澄ませば、自分の呼吸すらやかましく感じるほど、世界は沈黙していた。
――カサ。
どこかで、紙のこすれる音がした。
反射的にそちらを振り返る。
本棚の向こう、わずかな隙間から見えたのは、黒髪の少女の後ろ姿だった。
座り込むようにして本を読んでいる。制服姿。
髪は肩よりも長く、まるで目隠しのようにその横顔を覆っていた。
誰だろう――そう思った瞬間、本の一冊が彼女の膝から滑り落ちた。
「……あ」
声にならない声が、わずかに洩れた。
晶は思わず、落ちた本を拾い上げる。表紙は擦れていて、タイトルは古風な活字で綴られていた。
棚の向こうに差し出す。すると、すっと細く白い指が伸びてきた。
その指先が、晶の手にわずかに触れた瞬間――
ふわり、と。
空気が甘く濡れたような香りで染まった。
湿った雨上がりの土の香りと、蜜に似た、どこか艶めいた匂い。
呼吸と共に喉の奥まで流れ込み、なぜか心臓の鼓動が一拍、強く跳ねた。
(……なんだ、これ……)
本を受け取った少女が、ふいに視線を上げた。
黒髪の奥からのぞいたその瞳は、どこか焦点の定まらない、暗く深い色をしていた。
感情が読めない。むしろ、こちらの内側を覗き込んでくるような、そんな視線。
晶が言葉を発するより早く、彼女はすっと目を逸らした。
何も言わず、何も表情を変えず、再び本に視線を落としたその仕草に、妙な緊張が残った。
(誰……だ?)
そのまま晶は立ち尽くす。数秒、いや、もっと長く感じた。
やがて気まずさに押されるように、図書室を出た。
* * *
廊下を歩く足が、妙に浮いているような気がした。
呼吸の音がうるさい。心なしか、指先が熱を帯びていた。
スマホに目を落とすと、優里からメッセージが届いていた。
《今日もお疲れさま。明日はお弁当、2人分作ってくるね!》
いつもの、優しさに満ちた言葉。
だが今は、まるで遠い誰かが送ってきたもののように感じた。
頭の奥に、残っていた。
あの香り。あの視線。
あの少女の、名前も知らない気配が。
(……変な匂いだったな……)
思い返すほどに、記憶の中で匂いは濃く、甘くなる。
思い出そうとすればするほど、胸の奥にじわじわと何かが染みこんでいく。
理由もなく、息を吸い込んでしまう。
どこかに、あの匂いが残っている気がして。
胸を押さえ、晶は呟いた。
「……まさか、な」
そう言いながらも、そのまさかの感触が、心の底でざらりと鳴った。
校庭に射し込む橙色の光は、ちょうどよく優しげで、廊下に伸びた二人分の影を、まるで誰かの憧れのように長く引き伸ばしていた。
「今日のプリント、ちゃんと出した?」
隣を歩く彼女の声は、耳に心地よく届いた。
花村優里。学年トップの成績と、抜群のスタイル、清楚で明るい性格。言ってしまえば――完璧だ。
その完璧さの一部として、藤堂晶は彼氏という肩書きを持っていた。
「ああ、出したよ。あの先生、提出忘れるとすぐ顔覚えるからな」
「でしょー。あの鋭い目で、三日くらい見張られるよ」
ふたり並んで笑い合う。周囲の目がこちらに向けられているのが分かる。
羨望、賞賛、嫉妬……それらの視線を、晶はすでに何度も経験していた。
「――ねえ」
優里がふと足を止めた。くるりとこちらを向く。
栗色の髪が陽の光を受けて淡くきらめき、白い肌に微かに影が落ちた。
「明日、久しぶりに映画でも行かない?」
「映画? いいけど、何観るんだ?」
「私、ホラー苦手だから、それ以外ならなんでも!」
そう言って、無邪気に笑った彼女の横顔に、晶もまた笑みを浮かべる。
けれどその笑みの奥に、うっすらとした波紋が広がるのを、彼自身まだ自覚していなかった。
この時間は、心地よいはずなのだ。
他人が羨む彼女。うまくいっている関係。
幸せなはずの日常。そのはずなのに――どこか、冷めた自分がいた。
(……また、同じやり取りだな)
そんな思いが、頭の片隅で小さく響く。
彼女が楽しげに語る未来のプラン。行きたい場所、したいこと。
それを肯定するためだけの自分の相槌が、まるで録音された音声のように思えてくる。
悪いのは自分だ。
優里は何も間違っていない。むしろ、自分にはもったいないほどの存在だ。
けれど――
(なんでだろうな……)
その問いに答えはなかった。ただ、静かなざらつきだけが胸の奥で渦巻いていた。
* * *
帰宅して、いつものようにLINEを開く。優里からは、日付が変わるまで絶え間なくメッセージが届く。
今日は楽しかった。また明日ね。おやすみなさい、好きだよ。
どの言葉も綺麗で、優しい。でも――
スマートフォンの画面を見つめる自分の顔が、妙に無表情だったことに気づく。
(俺は、何を望んでるんだ?)
ベッドに寝転んで、天井を仰ぐ。
好き、という言葉に違和感はない。けれど、響かないのだ。
どこか、鈍い。表面を撫でるような甘さだけがあって、心の奥まで届いてこない。
深呼吸して、目を閉じる。
まぶたの裏に浮かぶのは、優里の笑顔でも、言葉でもない。
ただ――あの橙色の夕暮れの中、静かに沈んでいくような、自分自身の輪郭だった。
(……なんか、変だな)
そう思いながらも、眠気は訪れなかった。
何かが欠けている。何かが足りない。
自分でも説明できないその欠落の形が、心の奥底でひっそりと開き始めていた。
* * *
翌日の放課後。
目的もなく歩いていたはずなのに、晶の足は自然と、校舎の北側にある図書室へ向かっていた。
天井が高く、古びた本棚が壁のように連なるその空間は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
パソコンもテレビもない。話し声も笑い声もない。
あるのはページをめくる小さな音と、古紙と木の香り、そして冷たいほどに清らかな静けさだけ。
晶はゆっくりと書架のあいだを歩いた。
特に目的の本があったわけじゃない。ただ、何かを探しているような気がしていた。
目を閉じて耳を澄ませば、自分の呼吸すらやかましく感じるほど、世界は沈黙していた。
――カサ。
どこかで、紙のこすれる音がした。
反射的にそちらを振り返る。
本棚の向こう、わずかな隙間から見えたのは、黒髪の少女の後ろ姿だった。
座り込むようにして本を読んでいる。制服姿。
髪は肩よりも長く、まるで目隠しのようにその横顔を覆っていた。
誰だろう――そう思った瞬間、本の一冊が彼女の膝から滑り落ちた。
「……あ」
声にならない声が、わずかに洩れた。
晶は思わず、落ちた本を拾い上げる。表紙は擦れていて、タイトルは古風な活字で綴られていた。
棚の向こうに差し出す。すると、すっと細く白い指が伸びてきた。
その指先が、晶の手にわずかに触れた瞬間――
ふわり、と。
空気が甘く濡れたような香りで染まった。
湿った雨上がりの土の香りと、蜜に似た、どこか艶めいた匂い。
呼吸と共に喉の奥まで流れ込み、なぜか心臓の鼓動が一拍、強く跳ねた。
(……なんだ、これ……)
本を受け取った少女が、ふいに視線を上げた。
黒髪の奥からのぞいたその瞳は、どこか焦点の定まらない、暗く深い色をしていた。
感情が読めない。むしろ、こちらの内側を覗き込んでくるような、そんな視線。
晶が言葉を発するより早く、彼女はすっと目を逸らした。
何も言わず、何も表情を変えず、再び本に視線を落としたその仕草に、妙な緊張が残った。
(誰……だ?)
そのまま晶は立ち尽くす。数秒、いや、もっと長く感じた。
やがて気まずさに押されるように、図書室を出た。
* * *
廊下を歩く足が、妙に浮いているような気がした。
呼吸の音がうるさい。心なしか、指先が熱を帯びていた。
スマホに目を落とすと、優里からメッセージが届いていた。
《今日もお疲れさま。明日はお弁当、2人分作ってくるね!》
いつもの、優しさに満ちた言葉。
だが今は、まるで遠い誰かが送ってきたもののように感じた。
頭の奥に、残っていた。
あの香り。あの視線。
あの少女の、名前も知らない気配が。
(……変な匂いだったな……)
思い返すほどに、記憶の中で匂いは濃く、甘くなる。
思い出そうとすればするほど、胸の奥にじわじわと何かが染みこんでいく。
理由もなく、息を吸い込んでしまう。
どこかに、あの匂いが残っている気がして。
胸を押さえ、晶は呟いた。
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そう言いながらも、そのまさかの感触が、心の底でざらりと鳴った。
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