【R18】陰に堕ちる 〜優しい彼女より、狂った彼女に溺れました〜

いろは杏⛄️

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第2話 浅葱澪という存在

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 翌朝、教室の窓から差し込む光はどこか白くて、淡くて、曖昧だった。
 黒板に反射するそれを見つめながら、晶は思う。昨日、どんな夢を見たのだったか。
 断片的な映像が、まぶたの裏をゆらゆらと泳いでいた。

 ――甘い、湿った空気。
 ――指先に触れた、冷たく白い皮膚。
 ――あの、名も知らぬ少女の目。

(なんで、思い出してるんだ……)

 その疑問が浮かぶたびに、脳が勝手に補完しようとする。
 匂い。視線。指のかすかな重なり。
 すべてが記憶の中で、必要以上に鮮明になっていく。

 前の席の優里がふいに振り返った。

「晶くん? ノート、写す?」

 明るい笑顔。いつも通りの声。
 だが晶の心は、ほんの一瞬、まるで異物を口にしたようなずれを感じていた。

「……ああ、悪い」

 そう答えて、ノートを受け取る。
 視線を落としたその紙面に、綺麗に並んだ文字が踊っていた。

(こんなはずじゃなかったのにな……)

 違和感は、昨日から続いている。
 どこかが噛み合っていない感覚。
 優里と交わす言葉が、まるで他人の会話を盗み聞きしているような、空虚な響きになっていた。

     * * *

 放課後。
 晶は自分でも理由がわからないまま、また図書室の前に立っていた。
 扉の向こうからは、あの静寂の匂いが漂ってくるようだった。

 手をかけて、押し開ける。
 昨日と同じ、冷たい空気。
 本の背表紙が規則正しく並ぶ空間の中に、たった一つ、空気を濁すような気配があった。

 ――いた。

 本棚の奥。昨日と同じ席。
 黒髪の少女が、黙々とページをめくっていた。
 姿勢は端正で、顔のほとんどは髪に隠れている。
 ただ、白く細い指と、微かに動く喉元が、彼女が生きているという証のようにそこにあった。

 晶はそっと、近づく。
 足音を殺して、隣の書棚の影に立つ。
 心臓が、なぜかひどく速くなっていた。

(……何を読んでる?)

 背表紙のタイトルを覗こうと、身を傾けたそのとき――

 ――ギィ、と床が鳴った。

 少女の肩がわずかに震え、ゆっくりと顔がこちらを向いた。
 その瞬間、晶は息を呑んだ。

 黒髪の隙間からのぞく瞳は、やはり昨日と同じ、深い影を湛えていた。
 だが今日は、それがまっすぐにこちらを射抜いてくる。

 動けない。言葉が出ない。
 数秒の沈黙の後、少女の唇がゆっくりと動いた。

「……うるさいの、苦手なんです」

 声はとても小さくて、くぐもっていた。
 だがその一音一音が、耳ではなく脳に直接入り込んでくるような、妙な密度を持っていた。

「静かにしてると、いろんなことが分かるから」

 その言葉に、意味があるのかは分からなかった。
 けれど、なぜか晶は頷いていた。

 理由もわからず、息をのむ。
 空気が、昨日よりも濃く湿っていた。

     * * *

  沈黙のまま、ふたりの距離が少しだけ縮まった。
 棚を一つ挟んだその隙間。ふとした拍子に、澪の持つ本の表紙がこちらに傾いた。

 ――それは、明らかに普通ではない本だった。

 タイトルには、赤い文字で「緋色の夜伽」とある。
 背表紙には出版社名も記されているが、見慣れないレーベルだ。
 見開かれたページに挿絵はないものの、文章には異様なまでの熱がこもっていた。

(……えっ、これ……)

 晶の背中に冷たい汗がにじむ。
 官能小説。しかも、濃密で私的で、決して女子高生が堂々と読んでいいような代物ではなかった。

 ページをめくる彼女の指が滑らかで、柔らかそうで。
 その細い指が、昨日、自分の手に一瞬だけ触れたことを思い出す。

「……読みますか?」

 突然の問いかけに、肩が跳ねる。

 顔を上げると、澪が本を差し出していた。
 手のひらに添えられたそれは、まるで餌のように見えた。

「……いや……俺は、別に」

 そう答えるのが精一杯だった。
 だが視線は、明らかに逃げきれていなかった。
 その本を読み込んだ彼女の口元が、ゆるく、ゆるく持ち上がる。

「……見ましたよね」

 どこか楽しげな響き。
 声のトーンは低く、耳に絡みつくような湿気があった。

「そういうの、気になりますか?」

 晶は何も言えなかった。
 ただ、胸の奥にじわりと拡がっていく熱だけが、真実を物語っていた。

     * * *

 その後、ふたりの間に言葉はなかった。
 だが、視線は何度か交わされた。無言のまま、意味だけが通じるような距離感。

 澪は最後に、ゆっくりと本を閉じた。
 カバーのないその背表紙は、まるで裸のように晒されていて、晶はまた視線を逸らした。

 立ち上がった澪が、そのまま図書室を出ていくのかと思った。
 けれど、出口に向かうその足をふと止め、背中を向けたままこう言った。

「浅葱 澪、です」

 名乗られるつもりのなかった名前だった。
 その音の響きが、静かな図書室にひどく艶めいて残った。

「……別に、覚えなくてもいいですけど。どうせ、すぐ忘れられるし」

 振り返らないまま、彼女は去っていった。

 扉の音が閉まる。

 残された晶は、その名を、無意識に何度も頭の中で繰り返していた。
 浅葱 澪。
 あさぎ みお。
 舌の上で転がすたびに、昨日の匂いが蘇ってくる。

(……俺は、もう名前を知ってしまった)

 それは他人ではなくなるための、はじまりの合図だった。
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