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第2話 浅葱澪という存在
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翌朝、教室の窓から差し込む光はどこか白くて、淡くて、曖昧だった。
黒板に反射するそれを見つめながら、晶は思う。昨日、どんな夢を見たのだったか。
断片的な映像が、まぶたの裏をゆらゆらと泳いでいた。
――甘い、湿った空気。
――指先に触れた、冷たく白い皮膚。
――あの、名も知らぬ少女の目。
(なんで、思い出してるんだ……)
その疑問が浮かぶたびに、脳が勝手に補完しようとする。
匂い。視線。指のかすかな重なり。
すべてが記憶の中で、必要以上に鮮明になっていく。
前の席の優里がふいに振り返った。
「晶くん? ノート、写す?」
明るい笑顔。いつも通りの声。
だが晶の心は、ほんの一瞬、まるで異物を口にしたようなずれを感じていた。
「……ああ、悪い」
そう答えて、ノートを受け取る。
視線を落としたその紙面に、綺麗に並んだ文字が踊っていた。
(こんなはずじゃなかったのにな……)
違和感は、昨日から続いている。
どこかが噛み合っていない感覚。
優里と交わす言葉が、まるで他人の会話を盗み聞きしているような、空虚な響きになっていた。
* * *
放課後。
晶は自分でも理由がわからないまま、また図書室の前に立っていた。
扉の向こうからは、あの静寂の匂いが漂ってくるようだった。
手をかけて、押し開ける。
昨日と同じ、冷たい空気。
本の背表紙が規則正しく並ぶ空間の中に、たった一つ、空気を濁すような気配があった。
――いた。
本棚の奥。昨日と同じ席。
黒髪の少女が、黙々とページをめくっていた。
姿勢は端正で、顔のほとんどは髪に隠れている。
ただ、白く細い指と、微かに動く喉元が、彼女が生きているという証のようにそこにあった。
晶はそっと、近づく。
足音を殺して、隣の書棚の影に立つ。
心臓が、なぜかひどく速くなっていた。
(……何を読んでる?)
背表紙のタイトルを覗こうと、身を傾けたそのとき――
――ギィ、と床が鳴った。
少女の肩がわずかに震え、ゆっくりと顔がこちらを向いた。
その瞬間、晶は息を呑んだ。
黒髪の隙間からのぞく瞳は、やはり昨日と同じ、深い影を湛えていた。
だが今日は、それがまっすぐにこちらを射抜いてくる。
動けない。言葉が出ない。
数秒の沈黙の後、少女の唇がゆっくりと動いた。
「……うるさいの、苦手なんです」
声はとても小さくて、くぐもっていた。
だがその一音一音が、耳ではなく脳に直接入り込んでくるような、妙な密度を持っていた。
「静かにしてると、いろんなことが分かるから」
その言葉に、意味があるのかは分からなかった。
けれど、なぜか晶は頷いていた。
理由もわからず、息をのむ。
空気が、昨日よりも濃く湿っていた。
* * *
沈黙のまま、ふたりの距離が少しだけ縮まった。
棚を一つ挟んだその隙間。ふとした拍子に、澪の持つ本の表紙がこちらに傾いた。
――それは、明らかに普通ではない本だった。
タイトルには、赤い文字で「緋色の夜伽」とある。
背表紙には出版社名も記されているが、見慣れないレーベルだ。
見開かれたページに挿絵はないものの、文章には異様なまでの熱がこもっていた。
(……えっ、これ……)
晶の背中に冷たい汗がにじむ。
官能小説。しかも、濃密で私的で、決して女子高生が堂々と読んでいいような代物ではなかった。
ページをめくる彼女の指が滑らかで、柔らかそうで。
その細い指が、昨日、自分の手に一瞬だけ触れたことを思い出す。
「……読みますか?」
突然の問いかけに、肩が跳ねる。
顔を上げると、澪が本を差し出していた。
手のひらに添えられたそれは、まるで餌のように見えた。
「……いや……俺は、別に」
そう答えるのが精一杯だった。
だが視線は、明らかに逃げきれていなかった。
その本を読み込んだ彼女の口元が、ゆるく、ゆるく持ち上がる。
「……見ましたよね」
どこか楽しげな響き。
声のトーンは低く、耳に絡みつくような湿気があった。
「そういうの、気になりますか?」
晶は何も言えなかった。
ただ、胸の奥にじわりと拡がっていく熱だけが、真実を物語っていた。
* * *
その後、ふたりの間に言葉はなかった。
だが、視線は何度か交わされた。無言のまま、意味だけが通じるような距離感。
澪は最後に、ゆっくりと本を閉じた。
カバーのないその背表紙は、まるで裸のように晒されていて、晶はまた視線を逸らした。
立ち上がった澪が、そのまま図書室を出ていくのかと思った。
けれど、出口に向かうその足をふと止め、背中を向けたままこう言った。
「浅葱 澪、です」
名乗られるつもりのなかった名前だった。
その音の響きが、静かな図書室にひどく艶めいて残った。
「……別に、覚えなくてもいいですけど。どうせ、すぐ忘れられるし」
振り返らないまま、彼女は去っていった。
扉の音が閉まる。
残された晶は、その名を、無意識に何度も頭の中で繰り返していた。
浅葱 澪。
あさぎ みお。
舌の上で転がすたびに、昨日の匂いが蘇ってくる。
(……俺は、もう名前を知ってしまった)
それは他人ではなくなるための、はじまりの合図だった。
黒板に反射するそれを見つめながら、晶は思う。昨日、どんな夢を見たのだったか。
断片的な映像が、まぶたの裏をゆらゆらと泳いでいた。
――甘い、湿った空気。
――指先に触れた、冷たく白い皮膚。
――あの、名も知らぬ少女の目。
(なんで、思い出してるんだ……)
その疑問が浮かぶたびに、脳が勝手に補完しようとする。
匂い。視線。指のかすかな重なり。
すべてが記憶の中で、必要以上に鮮明になっていく。
前の席の優里がふいに振り返った。
「晶くん? ノート、写す?」
明るい笑顔。いつも通りの声。
だが晶の心は、ほんの一瞬、まるで異物を口にしたようなずれを感じていた。
「……ああ、悪い」
そう答えて、ノートを受け取る。
視線を落としたその紙面に、綺麗に並んだ文字が踊っていた。
(こんなはずじゃなかったのにな……)
違和感は、昨日から続いている。
どこかが噛み合っていない感覚。
優里と交わす言葉が、まるで他人の会話を盗み聞きしているような、空虚な響きになっていた。
* * *
放課後。
晶は自分でも理由がわからないまま、また図書室の前に立っていた。
扉の向こうからは、あの静寂の匂いが漂ってくるようだった。
手をかけて、押し開ける。
昨日と同じ、冷たい空気。
本の背表紙が規則正しく並ぶ空間の中に、たった一つ、空気を濁すような気配があった。
――いた。
本棚の奥。昨日と同じ席。
黒髪の少女が、黙々とページをめくっていた。
姿勢は端正で、顔のほとんどは髪に隠れている。
ただ、白く細い指と、微かに動く喉元が、彼女が生きているという証のようにそこにあった。
晶はそっと、近づく。
足音を殺して、隣の書棚の影に立つ。
心臓が、なぜかひどく速くなっていた。
(……何を読んでる?)
背表紙のタイトルを覗こうと、身を傾けたそのとき――
――ギィ、と床が鳴った。
少女の肩がわずかに震え、ゆっくりと顔がこちらを向いた。
その瞬間、晶は息を呑んだ。
黒髪の隙間からのぞく瞳は、やはり昨日と同じ、深い影を湛えていた。
だが今日は、それがまっすぐにこちらを射抜いてくる。
動けない。言葉が出ない。
数秒の沈黙の後、少女の唇がゆっくりと動いた。
「……うるさいの、苦手なんです」
声はとても小さくて、くぐもっていた。
だがその一音一音が、耳ではなく脳に直接入り込んでくるような、妙な密度を持っていた。
「静かにしてると、いろんなことが分かるから」
その言葉に、意味があるのかは分からなかった。
けれど、なぜか晶は頷いていた。
理由もわからず、息をのむ。
空気が、昨日よりも濃く湿っていた。
* * *
沈黙のまま、ふたりの距離が少しだけ縮まった。
棚を一つ挟んだその隙間。ふとした拍子に、澪の持つ本の表紙がこちらに傾いた。
――それは、明らかに普通ではない本だった。
タイトルには、赤い文字で「緋色の夜伽」とある。
背表紙には出版社名も記されているが、見慣れないレーベルだ。
見開かれたページに挿絵はないものの、文章には異様なまでの熱がこもっていた。
(……えっ、これ……)
晶の背中に冷たい汗がにじむ。
官能小説。しかも、濃密で私的で、決して女子高生が堂々と読んでいいような代物ではなかった。
ページをめくる彼女の指が滑らかで、柔らかそうで。
その細い指が、昨日、自分の手に一瞬だけ触れたことを思い出す。
「……読みますか?」
突然の問いかけに、肩が跳ねる。
顔を上げると、澪が本を差し出していた。
手のひらに添えられたそれは、まるで餌のように見えた。
「……いや……俺は、別に」
そう答えるのが精一杯だった。
だが視線は、明らかに逃げきれていなかった。
その本を読み込んだ彼女の口元が、ゆるく、ゆるく持ち上がる。
「……見ましたよね」
どこか楽しげな響き。
声のトーンは低く、耳に絡みつくような湿気があった。
「そういうの、気になりますか?」
晶は何も言えなかった。
ただ、胸の奥にじわりと拡がっていく熱だけが、真実を物語っていた。
* * *
その後、ふたりの間に言葉はなかった。
だが、視線は何度か交わされた。無言のまま、意味だけが通じるような距離感。
澪は最後に、ゆっくりと本を閉じた。
カバーのないその背表紙は、まるで裸のように晒されていて、晶はまた視線を逸らした。
立ち上がった澪が、そのまま図書室を出ていくのかと思った。
けれど、出口に向かうその足をふと止め、背中を向けたままこう言った。
「浅葱 澪、です」
名乗られるつもりのなかった名前だった。
その音の響きが、静かな図書室にひどく艶めいて残った。
「……別に、覚えなくてもいいですけど。どうせ、すぐ忘れられるし」
振り返らないまま、彼女は去っていった。
扉の音が閉まる。
残された晶は、その名を、無意識に何度も頭の中で繰り返していた。
浅葱 澪。
あさぎ みお。
舌の上で転がすたびに、昨日の匂いが蘇ってくる。
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それは他人ではなくなるための、はじまりの合図だった。
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