【R18】陰に堕ちる 〜優しい彼女より、狂った彼女に溺れました〜

いろは杏⛄️

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第15話 選べない恋と、甘い檻と

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 何日が経ったのか、もう数えるのもやめていた。
 カレンダーの数字は変わっていくのに、晶の時間は止まったままだった。

 朝が来ても起きたくない。
 だが、学校には行く。行けば、澪の幻が見えるから。
 教室の窓の外に、黒髪がちらつく気がする。
 廊下の奥から、あの声が聞こえる気がする。
 ――すべて幻想だと分かっていても、晶はその蜃気楼に縋るしかなかった。

 授業の内容は頭に入らなかった。
 ノートを開いても、そこに記されるのは文字ではなく澪の名前だった。

(澪……)

 意識の奥底で、名前を呼ぶ。
 脳裏には、喉奥まで飲み込まれる感触、唇が先端を包む温もり、
 そして――あの艶やかな、濡れた指先。

 夜毎、自室のベッドで自慰を繰り返した。
 けれど、もう自分の手では満たされなかった。
 出すことはできても、癒されることはなかった。

 優里からの連絡は増えていた。
 「最近、どうしたの?」「また放課後すぐ帰っちゃったの?」
 そのひとつひとつに罪悪感が刺さった。
 けれど、返信する気力もない。

 どんな言葉を返せばいい?
 
「ごめん、俺、あの子の感触が忘れられないんだ」
 ――そんな本音を、送れるはずもなかった。

    * * *

 その日も、放課後の空気は静かだった。
 いつの間にか、教室を出ていた。
 行くあてもないのに、足が勝手に動いていた。

 薄暗い廊下。
 誰もいない階段の踊り場。
 人気のない廃棄寸前の倉庫前。
 そして、旧準備室――

 気づけば、その前に立っていた。

 重く閉ざされた扉は、今日も沈黙している。

 それでも、立ち去ることができなかった。
 まるでここに立っていれば、また彼女が現れる気がして――

「……晶くん」

 不意に、声が落ちてきた。
 鼓膜ではなく、皮膚に触れるような声。
 振り返ると、そこに――澪がいた。

 風もないのに、髪が揺れていた。
 影もないのに、輪郭が滲んでいた。
 現実なのか幻想なのか、それを判別する力はもう残っていなかった。

「……澪……っ」

 晶は走った。
 手を伸ばした。
 その小さな身体に、縋りつくように――懇願する。

「戻ろう……お願いだ。あの頃みたいに、また、俺を……!」

 澪は、その言葉にひとつも動揺を見せなかった。
 いつも通りの静かな微笑で、唇を開いた。

「……ごめんなさい。彼女さんがいる晶くんとは、もう関係を持てません」

 拒絶の言葉。
 けれど、その声音は、まるで赦しのように甘く響いた。

 晶は言葉を失ったまま、地面に崩れ落ちそうになる。
 澪は、ひざまずいた彼を見下ろしながら、淡々と続けた。

「でも……もし、彼女さんと別れたなら。そのときは」

 声が、耳の奥を愛撫する。
 囁きが、脳髄を掻き混ぜる。

「元の関係どころか――もっと深いところまで、行けるかもしれませんね」

 その微笑は、優しさと狂気の狭間で揺れていた。

    * * *

 ――「彼女と別れたら、もっと深い関係になれる」

 その言葉が、耳にこびりついて離れない。

 帰り道、晶は何度も脳内で澪の声を再生した。
 目を閉じれば、すぐにあの濡れた瞳が浮かぶ。
 湿度を帯びた唇の端がゆっくりと弧を描き、頬に落ちる髪が指を誘うように揺れる。

 身体の奥が、疼いた。
 あの味、あの感触、あの支配――
 澪のいない日々がいかに空虚だったかを、全身が訴えていた。

 だが、そんなとき、優里の笑顔が脳裏をよぎる。
 温かくて、優しくて、澪にはない「普通の愛情」をくれた人。

(別れるなんて……できるわけない)

 でも。

(澪が、欲しい)

 欲情と依存と狂気が、思考を犯す。
 澪の吐息だけで、声を聞くだけで勃つ体。
 視線を交わすだけで、絶頂しそうになる感覚。

 それを――もう一度。

 だが、澪ははっきりと告げた。「彼女がいる限り、もう関係は持てません」と。
 彼女がいる限り、あの甘い檻には戻れない。

 なら――

(……別れたって、言えばいい)

 本当に別れる必要なんて、ない。
 優里には何も言わず、ただ嘘をつくだけ。
 澪にだけ、「もう、誰もいない」と告げれば、それでいい。

 罪悪感は、あった。
 それでも、あの快楽には抗えない。
 人間としての倫理よりも、澪の舌が欲しい。
 心よりも、身体が澪を選んでいた。

    * * *

 翌朝。

 晶はスマホを取り出し、震える指でメッセージを打ち始めた。

《昨日の話、考えた。……もう、彼女とは終わった》

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥にひやりとした冷気が走る。
 だがそのすぐ後に、沸き上がる高揚感。
 澪と、また繋がれるという歓喜が、血管を駆け抜ける。

 数秒後、返信が届く。

《では――いつもの場所で、お待ちしていますね》

 短い一文。けれどそれは、まるで許可証のようだった。

 扉は、また開かれた。
 檻の中の甘い鎖が、晶を待っている。

 そして晶は、自らその鎖に手を伸ばしたのだった。
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