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抜け忍お華
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「むっ? うどん……とな……」
その日の運ばれてきた夕食は、うどんだった。しかも、具はなにも無い、素うどんである。
隠れ里に潜む忍とはいえ、随分と質素な今宵の食事。一族の首領である鉄斎は、ほんの一瞬だけ眉根を寄せた。
「うふふ……お華と一緒に打ちました」
今は亡き嫡男の妻・蕾は笑顔でそう話しながら、お碗の中のうどんにだし汁をそそぎ入れ、それを鉄斎の前にある木製のお膳に載せた。
「えへへー、思っていたよりも手こずらされちゃって、具材が間に合わなくなっちゃった……じいじ、ごめんね」
次いで、自分の碗を受け取った孫娘のお華が、正座を崩した姿勢で照れ笑いをみせる。その頬は、掛けている南蛮渡来の赤縁眼鏡に負けないほどの薄紅色に染まっていた。
後継者の一人息子が戦死してからは、鉄斎がこの忍者屋敷で蕾とお華を世話していた。いや、正確には、老齢の鉄斎のほうが世話をされているとも言えよう。
「ううむ…………とはいえ、良い経験になったはず。次からは、しくじるでないぞ」
「ははーっ!」
すかさず、首領の言葉に反応したお華は、どこぞの国の家臣のように、仰々しく平伏してみせた。そんな愛娘の様子を見た蕾は、もう一度笑顔をつくる。
「ふあっはっは! 相変わらずの、愉快な奴め。どれ、では早速、このわしが毒味を──」
と、鉄斎は突然、手にしていたお碗を襖に向けて──されど一瞥もせずに──投げつける。
「ファッ!?」
いくらなんでも、食べないで判断するなんて、あんまりじゃないッスか──驚いたお華が膝立ちになるのと同時に、襖が勢いよく蹴破られ、投げられたお碗が黒装束の男にぶち当たる。
「──うわっ!? アッチチチチチチッ! うどんが! 一本だけ首筋に、うどんがぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
立ったままで悶絶する黒装束の男。敵ながら哀れだ。
「母さま!」
侵入者の出現に、お華は母をかばって盾となる。
だが、握られていたのは苦無等の武器ではなく、ただのお玉。例え頭を殴っても、いい音が鳴るだけだ。
「おまえは……義助だな? 下忍の分際でこの鉄斎を襲うとは、気でも触れたか?」
「ヒッヒッヒ、おれは正気さ。それにみんなもな」
「なにっ?」
その刹那、忍者屋敷に響き渡る爆音。
それも一度ではない。
二度、三度と、何度もだ。
鉄斎はすべてを理解し、眉間の皺をさらに深くした。
反対側の襖が、またしても何者かに蹴破られる。今度は忍刀を抜いた黒装束の下忍たちが続々と姿を現した。
「ヒッヒッヒ、もう終いだよ。死んでもらうぜ首領……おっ?」
裏切り者たちの目の前で、鉄斎の姿がゆっくりと消えてゆく。それは上級忍術のひとつで、その姿が完全に消え去った時には、もう遅い。
「ぎゃああああああああああああ!」
「ぶるはッ……!?」
義助の背後で並び立っていた下忍が二人、重なるようにして倒れる。
次に狙われるのは間違いなく自分。
ならばと、その場で急に尻餅を着く義助。
「──なにッ!?」
鉄甲鉤の爪が義助の頭上で大きく空を切る。
それと同時に、かわされた鉄斎の無防備な腹を義助の忍刀が下から貫いた。
血の飛沫が天井を一気に濡らせば、まわりの下忍たちが、鉄斎の身体を次から次に容赦なく突き刺す。
「じいじ! いやぁあああああああッ!!」
「…………ぐっ! 蕾を……連れて……逃げろ、お華ッ!」
首領として、祖父として、最後の命令を確かに告げると、鉄斎の身体がまばゆい閃光を放つ。それを見たお華は、瞬時に母をかばいながら、縁側へと続く障子に体当たりをして倒れ込んだ。
爆轟。
しばらくの後、お華が地面から顔を上げて振り返れば、黒煙と炎が忍者屋敷から立ち上り、そこで生み出された熱気が陽炎をつくり出していた。赤く照らされた裏庭の景色は、月夜の下で不気味に揺らめいて踊り続ける。
「ゴホッ、ゴホッ……」
「…………! 母さま、しっかり!」
「わたくしなら大丈夫です。さあ、今のうちに外へ……」
なんとかお互いに支え合うかたちで立ち上がった母娘ではあったが、火の手だけでなく、新たな刺客たちの気配も間近に迫っていた。
もう時間はない。
二人は着のみ着のまま、裸足で裏庭を抜けて忍者屋敷をあとにする。が──
「えっ…………」
お華が目にしたのは、炎に呑まれる里の光景だった。
見慣れた景色が、夜空を燃やすように高く炎を巻き上げる。それは、夕陽で茜色に染まった隠れ里の美景とは別次元の、朱色と闇の地獄絵図だった。
「なんで? なんで、なんで、なんでよぉぉぉぉぉ!?」
お華は逃げることも忘れ、立ち尽くしたまま絶叫する。
自分たちの里が──目を逸らしたいのに、逸らせない。
みんなの家が──見たくないのに、見ずにはいられない。
──灰となって消えてしまう!
「オギャアァァアアア!!」
突然、家屋が焼け落ちる音にまぎれて、赤子の泣き叫ぶ声が遠くから聞こえてくる。思わず母へと振り返ったお華は、無意識に手も握っていた。
「母さま、あの声って……!」
「ええ、この近くなら桔梗の家のはず。行きましょう!」
熱風に抗いながら、駆け出す母娘。
里の人間は、血肉を分けた家族も同然。知らないことなど、何もない。赤子といえば、三月ほど前に桔梗が産んだ男の子がいた。
「桔梗お姉ちゃん!」
やがてすぐ、地べたで丸まって転がる一人の人影が炎に照らされて見えてくる。
煤にまみれたその姿は、まぎれもなく桔梗だった。胸には赤ん坊が濡れた手拭いにくるまれ、大切に抱かれて泣いている。
「オギャアァァアアア! オギャアァァアアア!!」
「桔梗、しっかり! 桔梗……!」
蕾が肩に触れると、焼け焦げた着物が煮え湯のような熱を帯びていた。考えるまでもなく、火が放たれた家の中から、我が子を守って逃げてきたのだろう。
「母さま、早くみんなで逃げないと! 強い殺気が近づいて来てるよ!」
だが、蕾は泣き叫ぶ赤子を母親から引き離す。無言のまま抱き上げて瞼を閉じ、涙をにじませる。
その様子にすべてを察したお華は「そんな」とつぶやき、ふたたび桔梗の横顔を見た。
眠っているようにしか思えない、穏やかな表情。せめて、我が子の元気な泣き声に安堵してのことだと、お華は切に願う。
「おまえたち、まだ生きていたのか」
突如聞こえた、男の声。
それは、燃えさかる炎を消し去れるのではないかとさえ思えるほどの、冷たくて沈んだ声だった。
その男の顔は、浪人笠で隠されてはいたが、身形は立派な侍だ。
忍の隠れ里に、高貴な侍が何故?
異質の存在ではあったが、この非常時では最早なにもかもすべてが異質となって見えてしまう。故に、お華は然程の驚きはしなかった。
ただ気になるのは、男の全身から醸されている殺気。周囲の焼け焦げるにおいよりも強烈なそれを、自分と母に向けて放ってくる。
「お華、こちらへ……早く!」
忍でありながら、温厚な性格である蕾の凄む声を聞くのは実に久しかった。お華は男から視線を外さぬまま、後ろへ下がる。
「……お華、そっと優しく、ね」
「ふぇっ? あっ……!」
不意に蕾が、抱きかかえていた赤子をお華に手渡す。思わず受け取ったお華も、不慣れな抱っこに戸惑いをみせる。
「その子を連れて、里から逃げなさい」
「……母さま!?」
「あの男、ただの侍ではありません。わたくしが足止めをした隙に、逃げるのです」
「そんな……! 母さまも一緒に──」
「お華!」
その刹那、蕾に突然抱きしめられたお華の目には、飛んできた矢が何本も突き刺さる母の背中が映った。
赤ん坊が泣いている。
力の限り泣いている。
お華も涙が流れていたが、蕾はいつもの笑顔を見せてくれていた。
「生きて」
そう言い残して愛娘を押し退けた蕾の身体から、凄まじい風が巻き起こる。
それは、蕾が得意とする風の忍術。
しかも、このような状況下で繰り出すものではない、最も強力で、最も危険な最上級の忍術だった。
「ムウッ……!」刀を握り、身構える男。
そのまま見上げれば、周囲で燃えさかる家屋の炎が、風に誘われるままに吸い寄せられていく。それらは蕾を軸にして、大きな炎の渦となった。
やがて、月にまで届かんばかりの高さにまで育った火炎の大竜巻が、忽然と弾けるように散って、消えた。
そして男の目の前には、もう誰の姿もなかった。
「我が身を犠牲にして娘を逃がしたか……」
それ以上追うことをやめた男のもとに、同じく浪人笠を被った侍が二人、足早に近づいてくる。
「宗矩殿、我らも逃げねば火に呑まれますぞ」
「ああ。この里にもう用はない」
踵を返した三人の侍たちは、火の粉が舞う道を何処かへと戻っていった。
*
小高い丘の眼下では、月夜の下で奥磁路の隠れ里が赤く燃えている。
「どうして……なんで……」
里のみんなは、無事であろうか。
ほかにも誰か、生き延びているだろうか。
これから自分は、いったいどうすれば──憂いの眼差しで、腕のなかの赤ん坊を見つめる。お華の温もりとにおいにすっかり慣れたのか、スヤスヤと寝息を漏らしていた。
「二人ぼっちになっちゃったね」
静かに瞼を閉じながら、赤ん坊に頬を寄せるお華。
鼻腔をつうじて感じたのは、母親からもたらされた乳のやさしい香りではなく、頭の産毛に染みついてしまった焦げのにおいだった。
すべての悲しみで、お華の頬に涙がつたい落ちた。
*
「はぁ、はぁ、はぁ……」
お華は山を無事に越えるべく、獣道ですらない険しい場所を選んで逃げていた。
武器を何も持たず、裸足のまま悪路をひたすら歩いて突き進む。足裏に感じるのはもはや激痛だけだ。
走りたくても走れなかった。
理由は、裸足だからではない。ただでさえ赤ん坊を連れているのに、泣かれでもすれば、すぐに追っ手に見つかってしまうからである。
「うあふ」
眠っていた赤ん坊が密やかに声を発してから、モゾモゾと動きはじめた。お華は歩みを止めると抱き直し、小さな背中を何度も指先の穏やかなリズムで叩きながら、自作の子守唄を耳もとで口遊ぶ。
「ハンッオ、ヒィレ、ハァラシャッコ、パーイホォイ♪ ッモ、トンコ、ピレ、ハァラシャッコ、パーイホォイ♪」
真っ暗な山間に響き渡る、赤ん坊の泣き声。
困り果てた顔のお華が抱き上げた赤ん坊を揺すっていると、すぐ近くの木の幹に矢が一直線に突き刺さる。
見つかった!
抱きしめた赤ん坊が泣きじゃくるのもそのままに、お華は森の急な斜面を疾風の如く駆け下りた。
通り過ぎた木々に矢が次々と刺さり、新たに射られるその数も次第に増えていく。大勢の追っ手が迫るなかで、ついに、左肩を射抜かれたお華の身体が前のめりになって急斜面を転げ落ちる。
それでも赤ん坊を守ろうと、必死になってかばい続けるお華。
やがて斜面は無くなり、その先が谷底となった。
「……落ちたか」
「ああ、この高さだ。命はあるまい」
黒装束の下忍たちは、谷底にある激しい急流をのぞき見ながらそう呟き、森の中へと消えていった。
*
「あっ! 先輩もランチは、うどんですか?」
○亀製麺で〝ぶっかけうどん・冷〟の大を注文したわたしに、中途採用で入ったばかりの女の子が話しかけてきた。えーっと、名前は確か…………ダメだ、全然思い出せない。
「うん。毎日お昼は、うどんかな」
「へぇー……あっ、あたしは、〝温玉うどん・冷〟の並でお願いします。……毎日だと、飽きたりしません?」
御盆を手にした彼女が、小刻みの横歩きで徐々に近づいてくる。わたしの真横へやって来た時には、先に注文したぶっかけうどんが店員さんから手渡された。
わたしはそのまま、そばにあるトングを掴み、長皿の上に野菜かき揚げと磯部天、それと鶏天も追加で手早く載せる。
「えっ、そんなに食べれるんですか?」
ドン引く彼女は、稲荷寿司をひとつだけ小皿に載せた。
「余裕、余裕。午後に備えて、エネルギーをチャージしとかなきゃ」
どうせ今日も、終電ギリギリまで帰れない。
追っ手の放った矢が当たり、急斜面を転げ落ちたわたしは、そのまま谷底へと真っ逆さまに落っこちてしまった。
でも不思議なことに、気がつくとそこは、見たこともない別の世界だった。
幸い、この世界の人たちには同じ言葉が通じたし、優しい老夫婦にも助けられたので、わたしと当時まだ赤ん坊だった草太は、今日まで無事に生きてこられた。
『生きて』
ふと、店内の喧騒にまぎれて、母さまの声が聞こえた気がした。
「先輩は……ズルルル……彼氏とか、いるんでふぅか?」
向かい合ってすわる彼女が、お行儀良く訊ねてくる。
「んー、恋はしないかな」
「ふぇっ? なんれふか、それー。超かっこいいんですけど……ズルルッ!」
するとスマホに着信音。
わたしも、お行儀良く片手で画面を操作する。
無料通話アプリからのそれは、草太からだった。
『夕飯を作ってやるから、今夜こそ早く帰ってこいよ!』
そんな文面に、思わず頬を緩めたわたしを見た彼女も、何故かいやらしい笑みをつくる。
「あ! 男だ、男! 彼氏からですよね? 恋はしないんじゃなかったんですか、もー!」
「え……そんなんじゃ──」
「いっけない! 半過ぎてますよ、先輩! 急がないと、トイレ時間が無くなっちゃいます!」
そう言って慌てた彼女が、残りのうどんと食べかけの稲荷寿司を、めっちゃ速いスピードで忙しなく口へと運ぶ。若いっていいなと、心のなかで呟いてみる。
「ほら、先輩も早く早く!」
「え? あ、うん……ズルルルッ!」
急かされたわたしも、負けず劣らずのスピードで食べ続ける。
それでもわたしたちは、お喋りをやめない。
同僚との、大切なコミュニケーションの時間だから。
お昼休みが多少長くなったって、トイレ休憩はしっかりと取る。
OLは何かと大変だけど、近くのカウンター席で食後の居眠りをしているスーツ姿のオジさんも、いろいろとありそうだ。
オフィス街のランチタイムとは、こーゆーものである。
「抜け忍お華」 終
その日の運ばれてきた夕食は、うどんだった。しかも、具はなにも無い、素うどんである。
隠れ里に潜む忍とはいえ、随分と質素な今宵の食事。一族の首領である鉄斎は、ほんの一瞬だけ眉根を寄せた。
「うふふ……お華と一緒に打ちました」
今は亡き嫡男の妻・蕾は笑顔でそう話しながら、お碗の中のうどんにだし汁をそそぎ入れ、それを鉄斎の前にある木製のお膳に載せた。
「えへへー、思っていたよりも手こずらされちゃって、具材が間に合わなくなっちゃった……じいじ、ごめんね」
次いで、自分の碗を受け取った孫娘のお華が、正座を崩した姿勢で照れ笑いをみせる。その頬は、掛けている南蛮渡来の赤縁眼鏡に負けないほどの薄紅色に染まっていた。
後継者の一人息子が戦死してからは、鉄斎がこの忍者屋敷で蕾とお華を世話していた。いや、正確には、老齢の鉄斎のほうが世話をされているとも言えよう。
「ううむ…………とはいえ、良い経験になったはず。次からは、しくじるでないぞ」
「ははーっ!」
すかさず、首領の言葉に反応したお華は、どこぞの国の家臣のように、仰々しく平伏してみせた。そんな愛娘の様子を見た蕾は、もう一度笑顔をつくる。
「ふあっはっは! 相変わらずの、愉快な奴め。どれ、では早速、このわしが毒味を──」
と、鉄斎は突然、手にしていたお碗を襖に向けて──されど一瞥もせずに──投げつける。
「ファッ!?」
いくらなんでも、食べないで判断するなんて、あんまりじゃないッスか──驚いたお華が膝立ちになるのと同時に、襖が勢いよく蹴破られ、投げられたお碗が黒装束の男にぶち当たる。
「──うわっ!? アッチチチチチチッ! うどんが! 一本だけ首筋に、うどんがぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
立ったままで悶絶する黒装束の男。敵ながら哀れだ。
「母さま!」
侵入者の出現に、お華は母をかばって盾となる。
だが、握られていたのは苦無等の武器ではなく、ただのお玉。例え頭を殴っても、いい音が鳴るだけだ。
「おまえは……義助だな? 下忍の分際でこの鉄斎を襲うとは、気でも触れたか?」
「ヒッヒッヒ、おれは正気さ。それにみんなもな」
「なにっ?」
その刹那、忍者屋敷に響き渡る爆音。
それも一度ではない。
二度、三度と、何度もだ。
鉄斎はすべてを理解し、眉間の皺をさらに深くした。
反対側の襖が、またしても何者かに蹴破られる。今度は忍刀を抜いた黒装束の下忍たちが続々と姿を現した。
「ヒッヒッヒ、もう終いだよ。死んでもらうぜ首領……おっ?」
裏切り者たちの目の前で、鉄斎の姿がゆっくりと消えてゆく。それは上級忍術のひとつで、その姿が完全に消え去った時には、もう遅い。
「ぎゃああああああああああああ!」
「ぶるはッ……!?」
義助の背後で並び立っていた下忍が二人、重なるようにして倒れる。
次に狙われるのは間違いなく自分。
ならばと、その場で急に尻餅を着く義助。
「──なにッ!?」
鉄甲鉤の爪が義助の頭上で大きく空を切る。
それと同時に、かわされた鉄斎の無防備な腹を義助の忍刀が下から貫いた。
血の飛沫が天井を一気に濡らせば、まわりの下忍たちが、鉄斎の身体を次から次に容赦なく突き刺す。
「じいじ! いやぁあああああああッ!!」
「…………ぐっ! 蕾を……連れて……逃げろ、お華ッ!」
首領として、祖父として、最後の命令を確かに告げると、鉄斎の身体がまばゆい閃光を放つ。それを見たお華は、瞬時に母をかばいながら、縁側へと続く障子に体当たりをして倒れ込んだ。
爆轟。
しばらくの後、お華が地面から顔を上げて振り返れば、黒煙と炎が忍者屋敷から立ち上り、そこで生み出された熱気が陽炎をつくり出していた。赤く照らされた裏庭の景色は、月夜の下で不気味に揺らめいて踊り続ける。
「ゴホッ、ゴホッ……」
「…………! 母さま、しっかり!」
「わたくしなら大丈夫です。さあ、今のうちに外へ……」
なんとかお互いに支え合うかたちで立ち上がった母娘ではあったが、火の手だけでなく、新たな刺客たちの気配も間近に迫っていた。
もう時間はない。
二人は着のみ着のまま、裸足で裏庭を抜けて忍者屋敷をあとにする。が──
「えっ…………」
お華が目にしたのは、炎に呑まれる里の光景だった。
見慣れた景色が、夜空を燃やすように高く炎を巻き上げる。それは、夕陽で茜色に染まった隠れ里の美景とは別次元の、朱色と闇の地獄絵図だった。
「なんで? なんで、なんで、なんでよぉぉぉぉぉ!?」
お華は逃げることも忘れ、立ち尽くしたまま絶叫する。
自分たちの里が──目を逸らしたいのに、逸らせない。
みんなの家が──見たくないのに、見ずにはいられない。
──灰となって消えてしまう!
「オギャアァァアアア!!」
突然、家屋が焼け落ちる音にまぎれて、赤子の泣き叫ぶ声が遠くから聞こえてくる。思わず母へと振り返ったお華は、無意識に手も握っていた。
「母さま、あの声って……!」
「ええ、この近くなら桔梗の家のはず。行きましょう!」
熱風に抗いながら、駆け出す母娘。
里の人間は、血肉を分けた家族も同然。知らないことなど、何もない。赤子といえば、三月ほど前に桔梗が産んだ男の子がいた。
「桔梗お姉ちゃん!」
やがてすぐ、地べたで丸まって転がる一人の人影が炎に照らされて見えてくる。
煤にまみれたその姿は、まぎれもなく桔梗だった。胸には赤ん坊が濡れた手拭いにくるまれ、大切に抱かれて泣いている。
「オギャアァァアアア! オギャアァァアアア!!」
「桔梗、しっかり! 桔梗……!」
蕾が肩に触れると、焼け焦げた着物が煮え湯のような熱を帯びていた。考えるまでもなく、火が放たれた家の中から、我が子を守って逃げてきたのだろう。
「母さま、早くみんなで逃げないと! 強い殺気が近づいて来てるよ!」
だが、蕾は泣き叫ぶ赤子を母親から引き離す。無言のまま抱き上げて瞼を閉じ、涙をにじませる。
その様子にすべてを察したお華は「そんな」とつぶやき、ふたたび桔梗の横顔を見た。
眠っているようにしか思えない、穏やかな表情。せめて、我が子の元気な泣き声に安堵してのことだと、お華は切に願う。
「おまえたち、まだ生きていたのか」
突如聞こえた、男の声。
それは、燃えさかる炎を消し去れるのではないかとさえ思えるほどの、冷たくて沈んだ声だった。
その男の顔は、浪人笠で隠されてはいたが、身形は立派な侍だ。
忍の隠れ里に、高貴な侍が何故?
異質の存在ではあったが、この非常時では最早なにもかもすべてが異質となって見えてしまう。故に、お華は然程の驚きはしなかった。
ただ気になるのは、男の全身から醸されている殺気。周囲の焼け焦げるにおいよりも強烈なそれを、自分と母に向けて放ってくる。
「お華、こちらへ……早く!」
忍でありながら、温厚な性格である蕾の凄む声を聞くのは実に久しかった。お華は男から視線を外さぬまま、後ろへ下がる。
「……お華、そっと優しく、ね」
「ふぇっ? あっ……!」
不意に蕾が、抱きかかえていた赤子をお華に手渡す。思わず受け取ったお華も、不慣れな抱っこに戸惑いをみせる。
「その子を連れて、里から逃げなさい」
「……母さま!?」
「あの男、ただの侍ではありません。わたくしが足止めをした隙に、逃げるのです」
「そんな……! 母さまも一緒に──」
「お華!」
その刹那、蕾に突然抱きしめられたお華の目には、飛んできた矢が何本も突き刺さる母の背中が映った。
赤ん坊が泣いている。
力の限り泣いている。
お華も涙が流れていたが、蕾はいつもの笑顔を見せてくれていた。
「生きて」
そう言い残して愛娘を押し退けた蕾の身体から、凄まじい風が巻き起こる。
それは、蕾が得意とする風の忍術。
しかも、このような状況下で繰り出すものではない、最も強力で、最も危険な最上級の忍術だった。
「ムウッ……!」刀を握り、身構える男。
そのまま見上げれば、周囲で燃えさかる家屋の炎が、風に誘われるままに吸い寄せられていく。それらは蕾を軸にして、大きな炎の渦となった。
やがて、月にまで届かんばかりの高さにまで育った火炎の大竜巻が、忽然と弾けるように散って、消えた。
そして男の目の前には、もう誰の姿もなかった。
「我が身を犠牲にして娘を逃がしたか……」
それ以上追うことをやめた男のもとに、同じく浪人笠を被った侍が二人、足早に近づいてくる。
「宗矩殿、我らも逃げねば火に呑まれますぞ」
「ああ。この里にもう用はない」
踵を返した三人の侍たちは、火の粉が舞う道を何処かへと戻っていった。
*
小高い丘の眼下では、月夜の下で奥磁路の隠れ里が赤く燃えている。
「どうして……なんで……」
里のみんなは、無事であろうか。
ほかにも誰か、生き延びているだろうか。
これから自分は、いったいどうすれば──憂いの眼差しで、腕のなかの赤ん坊を見つめる。お華の温もりとにおいにすっかり慣れたのか、スヤスヤと寝息を漏らしていた。
「二人ぼっちになっちゃったね」
静かに瞼を閉じながら、赤ん坊に頬を寄せるお華。
鼻腔をつうじて感じたのは、母親からもたらされた乳のやさしい香りではなく、頭の産毛に染みついてしまった焦げのにおいだった。
すべての悲しみで、お華の頬に涙がつたい落ちた。
*
「はぁ、はぁ、はぁ……」
お華は山を無事に越えるべく、獣道ですらない険しい場所を選んで逃げていた。
武器を何も持たず、裸足のまま悪路をひたすら歩いて突き進む。足裏に感じるのはもはや激痛だけだ。
走りたくても走れなかった。
理由は、裸足だからではない。ただでさえ赤ん坊を連れているのに、泣かれでもすれば、すぐに追っ手に見つかってしまうからである。
「うあふ」
眠っていた赤ん坊が密やかに声を発してから、モゾモゾと動きはじめた。お華は歩みを止めると抱き直し、小さな背中を何度も指先の穏やかなリズムで叩きながら、自作の子守唄を耳もとで口遊ぶ。
「ハンッオ、ヒィレ、ハァラシャッコ、パーイホォイ♪ ッモ、トンコ、ピレ、ハァラシャッコ、パーイホォイ♪」
真っ暗な山間に響き渡る、赤ん坊の泣き声。
困り果てた顔のお華が抱き上げた赤ん坊を揺すっていると、すぐ近くの木の幹に矢が一直線に突き刺さる。
見つかった!
抱きしめた赤ん坊が泣きじゃくるのもそのままに、お華は森の急な斜面を疾風の如く駆け下りた。
通り過ぎた木々に矢が次々と刺さり、新たに射られるその数も次第に増えていく。大勢の追っ手が迫るなかで、ついに、左肩を射抜かれたお華の身体が前のめりになって急斜面を転げ落ちる。
それでも赤ん坊を守ろうと、必死になってかばい続けるお華。
やがて斜面は無くなり、その先が谷底となった。
「……落ちたか」
「ああ、この高さだ。命はあるまい」
黒装束の下忍たちは、谷底にある激しい急流をのぞき見ながらそう呟き、森の中へと消えていった。
*
「あっ! 先輩もランチは、うどんですか?」
○亀製麺で〝ぶっかけうどん・冷〟の大を注文したわたしに、中途採用で入ったばかりの女の子が話しかけてきた。えーっと、名前は確か…………ダメだ、全然思い出せない。
「うん。毎日お昼は、うどんかな」
「へぇー……あっ、あたしは、〝温玉うどん・冷〟の並でお願いします。……毎日だと、飽きたりしません?」
御盆を手にした彼女が、小刻みの横歩きで徐々に近づいてくる。わたしの真横へやって来た時には、先に注文したぶっかけうどんが店員さんから手渡された。
わたしはそのまま、そばにあるトングを掴み、長皿の上に野菜かき揚げと磯部天、それと鶏天も追加で手早く載せる。
「えっ、そんなに食べれるんですか?」
ドン引く彼女は、稲荷寿司をひとつだけ小皿に載せた。
「余裕、余裕。午後に備えて、エネルギーをチャージしとかなきゃ」
どうせ今日も、終電ギリギリまで帰れない。
追っ手の放った矢が当たり、急斜面を転げ落ちたわたしは、そのまま谷底へと真っ逆さまに落っこちてしまった。
でも不思議なことに、気がつくとそこは、見たこともない別の世界だった。
幸い、この世界の人たちには同じ言葉が通じたし、優しい老夫婦にも助けられたので、わたしと当時まだ赤ん坊だった草太は、今日まで無事に生きてこられた。
『生きて』
ふと、店内の喧騒にまぎれて、母さまの声が聞こえた気がした。
「先輩は……ズルルル……彼氏とか、いるんでふぅか?」
向かい合ってすわる彼女が、お行儀良く訊ねてくる。
「んー、恋はしないかな」
「ふぇっ? なんれふか、それー。超かっこいいんですけど……ズルルッ!」
するとスマホに着信音。
わたしも、お行儀良く片手で画面を操作する。
無料通話アプリからのそれは、草太からだった。
『夕飯を作ってやるから、今夜こそ早く帰ってこいよ!』
そんな文面に、思わず頬を緩めたわたしを見た彼女も、何故かいやらしい笑みをつくる。
「あ! 男だ、男! 彼氏からですよね? 恋はしないんじゃなかったんですか、もー!」
「え……そんなんじゃ──」
「いっけない! 半過ぎてますよ、先輩! 急がないと、トイレ時間が無くなっちゃいます!」
そう言って慌てた彼女が、残りのうどんと食べかけの稲荷寿司を、めっちゃ速いスピードで忙しなく口へと運ぶ。若いっていいなと、心のなかで呟いてみる。
「ほら、先輩も早く早く!」
「え? あ、うん……ズルルルッ!」
急かされたわたしも、負けず劣らずのスピードで食べ続ける。
それでもわたしたちは、お喋りをやめない。
同僚との、大切なコミュニケーションの時間だから。
お昼休みが多少長くなったって、トイレ休憩はしっかりと取る。
OLは何かと大変だけど、近くのカウンター席で食後の居眠りをしているスーツ姿のオジさんも、いろいろとありそうだ。
オフィス街のランチタイムとは、こーゆーものである。
「抜け忍お華」 終
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「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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