ここがケツバット村

黒巻雷鳴

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ここがケツバット村

【黒鉄孝之(6)】

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 ただの思いつきの、まったくの無計画ノープランで逃げ出した孝之は、全力疾走で中庭を抜けると、その勢いのまま刀背打邸を後にした。どこかへ行くあてなどは無かったが、とにかく、孝之は走り続けた。
 尻の痛みやケツバット村で起きた出来事も忘れ、ただ、真綾のことだけを、今日までのふたりの思い出だけが、もの凄いスピードで頭の中を過っては弾けて消えていく。
 やがて孝之は、息を切らして足を止め、ハッと我に返る。
 自分の脇を見てみれば、乱れた髪でこちらを見上げる無表情の飛鳥と目が合った。

「うわぁ?! ごめんね、飛鳥ちゃん……」

 地面にそっと降ろしてから、飛鳥の髪型を手櫛でなんとか綺麗に整える。されるがままの飛鳥は、相変わらず表情を変えずにじっとしていた。
 がむしゃらに走り続けた孝之は、どうやら旅館まで戻ってきていたようで、数寄門の前では火を放たれた車の残骸がまだわずかにくすぶっていた。
 損傷がひどい車体の前面部が先ほどの死体と重なって見えてしまい、孝之は死そのものに追い詰められているような錯覚に陥ってしまう。
 気分を変えようと、顔を上げる。
 辺りの景色や空はすっかりと茜色に染まり、山の向こうの天高く広がる入道雲が、ひぐらしの鳴き声に呼応してその内部を雷鳴と共に光らせている。おそらく、今夜は雨になるだろう。

「ねえねえ、おにいちゃん」
「んー? なんだい?」

 手招きする飛鳥に笑顔を近づける孝之。
 すると飛鳥は何やら耳打ちをして、それを終えてから可愛くにっこりと笑いかけた。

「えっ……」

 話を訊いた孝之は、姿勢をゆっくりと正してから、刀背打邸があるはずの方角をじっと見つめる。

「だけど、飛鳥ちゃん──」

 視線を戻すと、不思議なことに飛鳥の姿はどこかへ消えてしまっていた。
 蜩が鳴き続ける。
 悲しげなその鳴き声が、夏の終わりを予感させた。
 孝之は額の汗をTシャツの袖口で拭い、天を仰ぎ見る。やがてすぐに、雨のにおいが風にのって首筋を撫でた。


     *


 孝之はフロント受付でマスターキーを見つけると、部屋へ戻って村を逃げ出すための準備を始める。もちろん、着替えなどは手に取らない。必要最小限で身軽に済ませる。
 金庫の中の貴重品は無事だったが、使えていたはずのスマートフォンはなぜか圏外になっていて、警察に通報することができなかった。この様子だと、固定電話も期待ができないだろう。
 そのまま1階の土産物売場へ向かい、水や食料をむさぼり食べる。
 可能な限り、コンディションを万全の状態にするためには、なんの遠慮も躊躇いも感じる必要などはまったく無い。それらは余計な考えでしかなく、一時の迷いにすぎない。本能の赴くまま、目的に向かってがむしゃらに突き進めばよいのだと、ケツバット村での経験から学んだ。
 やがて、瞬く間に商品を食い散らかした孝之は、トートバッグが掛けてあるポールハンガーを全力で蹴飛ばしてから旅館を後にした。


 大通りに着く頃には風も強くなり、茜色の空もすっかりと夜のとばり侵食おかされて藍色へと変わりつつあった。そんな空の下で、連なる外灯が薄闇の先へと孝之を妖しく導く。
 だが、不思議と緊張感も恐怖心もまったく感じられなかった。今の気持ちを例えるならば、まるで別人にでもなったような、安全な場所から自分自身を操っているような感覚がいちばん近いのかもしれない。
 このケツバット村を生きて無事に真綾と脱出する。
 それが全て。
 最大の目的であり、揺るぎない決意だった。
 強い夜風の中、辿たどり着いた坂道をたった1人で見上げるその勇姿は、まさに、囚われのヒロインを助けにきたヒーローそのものだ。
 釘バットを両手で強く握り直した孝之は、精悍な顔つきで数回の素振りをすると、刀背打邸をめざして走りだす。
 恐れなどもう微塵も無い。
 むしろ、これまでの人生の中で、最高の興奮状態であるといえよう。
 孝之の走る速度が、どこまでも加速する──

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