ニュンフェの男

みん

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9話

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サリーは酒飲みの頬に手を添え、涙を流しながらも笑みを浮かべている。サリーは、優しく酒飲みの頬をさすった。酒飲みがサリーにさすられた頬を自分で触ると、肌が驚くほどに艶やかであることに気づいた。自分の手の平をよく見るといつもの汚い皺が消えていて、身体は若々しい筋肉が程よくついていた。背中を見るとサリーに付いているような羽が自分にもついていて、足が地面から浮いている。

「俺は、本当に妖精なのかい?」

「さっきから言っているじゃない。あなたはこの国の王子。そして、私の幼馴染なの。」

「幼馴染?サリーさんと俺は、元から知り合いだったのかい?」

「そう。わたしの家は階級の高い家ではないけれど、あなたのお父様は妖精界の階級に構う方ではなかったの。むしろ今までのしきたりを壊してしまいたいと望んでいるお方だったわ。わたしたちは同じところで学び、同じところで育って、わたしはあなたに・・・」そこでサリーは頬を伝う涙をぬぐい、俯く。

「俺に?なんだい?」

「ううん、今はいいの、さっきの話の続きをするわ。宰相のトローチはお父様を殺した後、次はあなたを殺そうとしたの。だけど王妃様が自分をトローチの妻として身を差し出す代わりにあなたの命を守った。あなたを殺すのなら、私は自死を選びますってね。トローチはあなたを殺したがったけど、この国一番の美しい王妃が自分の手に入ることは宰相にとって最高の悦びでもあったから、あなたを生かすことにしたの。ただし、記憶を消し、妖精界からも追放して。あなたはトローチによって記憶を操作された家族の元へその家族の子供として送られたの。人間界で言えば、何十年も前の話よ。」

サリーは先ほどの公園でも、酒飲みが記憶を操作されていると言った。元々は妖精であったにもかかわらず、人間として姿を変えられ、人間界へと追放された。まるで映画や小説の話のようだ、と酒飲みは思う。

「じゃあ、俺が小さい頃に死んだ両親は、本当の親じゃないってことかい。俺の住所も、記憶も、名前も、ぜんぶ嘘っぱちだってそう言いたいのかい。」

自分が親だと思っていた人物が、本当の親ではない。ろくに顔も思い出せなかった親ではあるが、彼の足元を支えていた世界が、脆く崩れ去るように酒飲みには感じられた。実際に崩れてしまったとしても、今の彼は羽が生えて宙に浮いているのだが。

「・・・そうね。あなたの本当の名前は、ダニー・ルーカス。」サリーにそう言われたとき、酒飲みの頭がひどく痛んだ。脳がその名に直接反応するかのように、電撃のような痛みが頭の中を素早く駆け巡る。

ダニー・ルーカス。

本当の名前。

おとぎ話のようだと笑い飛ばしたいのに、身体はその名にひどく反応しているのである。人間界での俺の名前はなんだっただろう。

きっとあったはずなのに、思い出せない。マスターは俺のことを、なんと呼んでいただろう。

「ダニー・ルーカス。さっき言っていた宰相の名前と似ているようにも聞こえるが。」酒飲みは左手でこめかみを押さえながら、サリーに話の続きを促す。痛みがだんだんと大きくなる。

「ダニー・トローチはあなたの叔父にあたるわ。つまり、あなたの父親の弟よ。」

「・・・じゃあ、王様は自分の弟に殺されたっていうのかい。」物騒な話ではあるが、酒飲みのいる世界でも時々おこる悲しい話だ。自分の血縁を殺すことほど、不名誉で残酷なことはない。

「ええ。わたしたちも信じられないのだけれど、事実はそうなるわ。この事件が起こるまでは、トローチ様は本当にわたしたちに良くしてくれていて、優しい方だったわ。だけどいまは、実の兄を殺害し、王妃を自分の妻として、この国を支配しているの。」

「だけどそんな風に王になったって、誰も従わないんじゃないかい。暴君は民衆の反感を買い、さらなるクーデターを呼ぶはずだ。歴史が証明している。」

「さっき、わたしたち妖精は神の第2世界に位置づけられているって話をしたでしょ。わたしたちは神の力ほど強大なものは持っていないけれど、たったひとつだけ、第1世界の住人である神から道具を授かっているの。それは国を統治し、平和な妖精界をつくるために必要なものだったから、代々あなたの家系で受け継がれてきたものだったわ。だけどその道具を悪用すれば、こんな風に世界を変えることができる。」

分厚い雨雲がかかり、豪雨が街を襲っている。街のいたるところで雷が落ち、ほかの妖精たちが住んでいるらしい家はどれもボロボロである。そんな中で、街の一番奥に鎮座している城のような建築物の上空にだけは、雲がかかっていなかった。

「もしかしてあの城は・・・」と言い、酒飲みが指をさす。よく目を凝らしてみると、サリーと同じように羽が生えている者たちが、豪雨の中城の方へ向かっている。今にも落っこちてしまいそうなほど不安定な飛び方で、見ていて苦しくなる。

「トローチがいるところよ。あの妖精たちを見て。彼は神の道具を使うことで自然を操り、この豪雨の中毎日のように貢ぎ物をさせて、国民の力を弱体化させているの。立ち向かった妖精もいたけれど、みな神の道具によって殺されたわ。」サリーはふわふわっと丘の上を飛び、また酒飲みの元へ戻ってくる。不思議なことにこの丘の上には、なぜだか豪雨も雷も影響がない。

「だから・・・」と真剣な表情をして話し出そうとすると、焦った酒飲みが手のひらをサリーに向けて話を制する。

「ちょ、ちょっと待ってくれ、話を整理してもいいかい。この世界が本当にある世界だと仮定して、君たちはそのトローチ氏に苦しめられている。だがトローチ氏はとても強い武器を持っていて普通の妖精では殺されてしまう。それで、この次に君が言う言葉は、“あなたは王子だから、この暴君の王を倒してほしい”かい?俺は今まで普通に生きてきた人間で、格闘技の経験もなけりゃ喧嘩だって対して強くもない。それにそんな奴に立ち向かう度胸も理由もありはしないって。」

「それは、あなたが妖精の力を完全に取り戻していないからよ。それに、神の道具はあなたの血筋しか扱えないの。わたしたちでは触れることすらできないけど、トローチは王様の弟だから扱うことができる。そして、神の道具を扱える最後の生き残りは、ルーカス。あなただけ。」

「最後の生き残り?」

「そうよ。あなたを連れ戻すと私は王妃様に約束して、人間界にやってきたの。私が人間界に行くために、何人もの妖精が犠牲となったわ。」

サリーはそう言うと、酒飲みの身体を強く抱きしめた。抱きしめられた身体から感じるものは、人間の女性と同じように血が通った優しい温かさだった。酒飲みはひどく驚いたものの、サリーが心から悲しんでいることが分かったので、そのまま何も言わずに彼女の背中をゆっくりとさすっていた。
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