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1章 春
1話
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犀川は石川県金沢市を南から北へと流れる川で、別名「おとこ川」といわれる。
「おんな川」と呼ばれる浅野川とともに市内の両端を流れ、金沢を代表する河川として市民に親しまれている。この二つの川から取られた水は市内を網の目のように張り巡らせて用水となっており、体内をめぐる血液のようにぐるぐると街を循環している。
おとずれる人々は、ときおりこの街並みをみて「水の街」だと表現する。
僕の名前は六藤恭二郎(むとう きょうじろう)。
僕は小学生のときに父を亡くして、母は女手ひとつで僕を育ててくれた。二郎、という名前がつけられているのでよく次男だと勘違いされるのだけれど、僕に兄弟はいない。
父が恭一という名前だったので、自分の名前を一文字でも受け継いでほしい!という気持ちから「恭二郎」という名前を僕につけたそうだ。
僕の父は小学校の先生をしていたのだけれど、はたらきながら小説を書き、新人賞に応募して、大きな賞を受賞したことがある。
その小説は印刷されて本になって、全国の書店で販売された。自分の書いた小説が書店で並んでいるところを見て、父はとても嬉しそうだった。
出版社の担当編集者から、また小説を書かないか、という話が舞い込んだときにはもう、父の身体は病に蝕まれていた。
父は死んで、その小説は父の遺作となった。
父が賞をとって獲得した賞金と多少の印税は、僕が大学へ通うための貴重な資金源となった。僕はアルバイトをしながら金沢市内の国立大学に通っていて、今年文学部の三年生になる。
その日の僕は、朝早くからアルバイト先の「十文字書店」で倉庫整理をするために、犀川の河川敷に自転車を走らせていた。
最近、かすかに生きものや植物の匂いがするようになって、世界が暖かく色づきはじめたのを感じる。川沿いにはいくつもの桜の木が並んでいて、つぼみからだんだんと花が咲きはじめ、道行く人やドライバーの目を楽しませている。
季節は春。
春の犀川には、桜がよく似合うと思う。
河川敷を数分走り、もうすぐ十文字書店に着くというところで、橋の下に何やら人影のようなものが見えた。さらに近づいて目を凝らすと、それはまちがいなく人の姿だった。
うつ伏せになって倒れている。
右耳を地面に付けて、腕や足も力が完全に抜けているようでだらしなく地面に横たわっている。髪が背中まで伸びているので、どうやら女の子らしい。
僕は声をかけようか悩んだが、もし急に体調がわるくなって倒れていて、それを見過ごしたとなると寝覚めがわるい。
ブレーキをかけ、一度自転車をとめることにした。
「大丈夫ですか?」
倒れている少女からは反応がない。仕方がないのでスタンドを下ろし、自転車を固定し、少女のそばに駆け寄った。
そして再び、
「大丈夫ですか」と言い、少女の左肩に手を触れる。
そうすると少女の身体がビクッと動き、目が開かれる。
よかった、とりあえず死んではいないみたいだ。
少女はうつ伏せに寝ころんだ体勢のまま、僕に視線をむけた。
いたずらっぽく光るクルンと大きな黒い瞳。雪のように真っ白でなめらかな肌。スッと細く通る鼻筋に、卵形の輪郭が綺麗に縁どられた顔は、きゅっと小さい。地面にくっつけている腕や足は華奢で、すこしでも触れると壊れてしまいそうな儚さを感じた。もし天使がいうものが存在するのなら、こんな姿なのかなと僕は本気でそう思った。
ただ、その陶器のようになめらかな肌からはどこか懐かしさも感じられた。
「おにいさん、わたしを知っているの?」少女は言った。
いや、知らないと思うけれど。
自慢じゃないが、僕は女性の顔を覚えるのが得意ではないのだ。
「体調が悪そうだったから、声をかけただけだよ。僕の気のせいだったかな?」
「・・・だったら、気のせい」
少女は見ための繊細さからはほど遠いぶっきらぼうな声で答えた。
なんだか機嫌が悪いようだ。
紛らわしい恰好で寝ているそっちが悪いんじゃないか!
と思うが、口には出さない。
僕はむっとしたからと言って若い女の子を怒鳴り散らすことのできるような太い神経を持ち合わせていないのだ。
少女は僕のことなど全く気にしていない様子だ。
先ほどから少女の興味はずっと、地面の下に向いているように見える。
「ちなみに、なにをしているの?」
「おにいさんには関係ないよ」
「服が汚れちゃうよ?」
「よごれたら、また洗うだけ」
彼女が着ている白いワンピースは、地面に寝ころんでいるからか、ところどころ汚れていた。その汚れのなかに、絵の具のようなものもついている。
「そういう問題かな・・・。」
なんだか頭が痛くなってくる・・・。綺麗な外見をしているけれど中身はとんだ変わり者なのかもしれない。
「あのさ、おにいさんはわたしに何か用があるの?」
少女が再び目を開け、薄桃色の唇をひらき、じーっと僕を見る。
たった数秒のことだったけれど、まるで心の内側まで覗きこまれて観察をされているような感じだった。
「感じわるいなあ。こっちは心配して言っているのに」僕は少女の瞳から視線を逸らしながら言う。少女に見つめられて一瞬ドキリとした自分が、少し恥ずかしい。
「気になるなら、おしゃべりするのをやめて、そこに寝ころんだらいいよ」
少女は再び目を閉じ、ゆっくりと呼吸をしていた。少女のお腹のあたりが気持ちよさそうに上下にうごいて、規則正しく呼吸がつづいていく。
もう会話する気はないってことかな。
「・・・いいや、心配して声をかけただけだから。ゆっくり楽しんで」
少女は目を閉じたまま、黙ってうなずいた。
僕は自転車へと戻り、スタンドを上げる。ペダルを漕ぎはじめて横目で少女の方をちらっと見ると、先ほどは慌てていたので気づかなかったのだけれど、少女の横に木製のイーゼルが置かれていた。
そこには川と桜の絵が描かれている。
穏やかな川の流れと桜の美しさが淡い色合いで描かれた、「春の犀川」だ。
一瞬しか見ることが出来なかったけれど、その絵はぼやっと今にも溶けだしてしまいそうな色彩で描かれているのに、なにかを訴えてくるような激しい強さがあった。犀川と桜のぼんやりとした風景の中から生命力のようなものを感じる。その絵がもつ不思議なエネルギーに、僕は自分がどんどんと惹かれていくのを感じた。
もう少し絵を見ていきたいという強い衝動に駆られたものの、アルバイトに遅れてしまうので、そのままペダルを漕ぎ続ける。
少女は先ほどの体勢のままずっと、地面に耳を澄ませていた。まるで植物が大地から養分を吸収するように、彼女も生きていくためのエネルギーを集めているのかもしれない。
僕はそう思った。
「おんな川」と呼ばれる浅野川とともに市内の両端を流れ、金沢を代表する河川として市民に親しまれている。この二つの川から取られた水は市内を網の目のように張り巡らせて用水となっており、体内をめぐる血液のようにぐるぐると街を循環している。
おとずれる人々は、ときおりこの街並みをみて「水の街」だと表現する。
僕の名前は六藤恭二郎(むとう きょうじろう)。
僕は小学生のときに父を亡くして、母は女手ひとつで僕を育ててくれた。二郎、という名前がつけられているのでよく次男だと勘違いされるのだけれど、僕に兄弟はいない。
父が恭一という名前だったので、自分の名前を一文字でも受け継いでほしい!という気持ちから「恭二郎」という名前を僕につけたそうだ。
僕の父は小学校の先生をしていたのだけれど、はたらきながら小説を書き、新人賞に応募して、大きな賞を受賞したことがある。
その小説は印刷されて本になって、全国の書店で販売された。自分の書いた小説が書店で並んでいるところを見て、父はとても嬉しそうだった。
出版社の担当編集者から、また小説を書かないか、という話が舞い込んだときにはもう、父の身体は病に蝕まれていた。
父は死んで、その小説は父の遺作となった。
父が賞をとって獲得した賞金と多少の印税は、僕が大学へ通うための貴重な資金源となった。僕はアルバイトをしながら金沢市内の国立大学に通っていて、今年文学部の三年生になる。
その日の僕は、朝早くからアルバイト先の「十文字書店」で倉庫整理をするために、犀川の河川敷に自転車を走らせていた。
最近、かすかに生きものや植物の匂いがするようになって、世界が暖かく色づきはじめたのを感じる。川沿いにはいくつもの桜の木が並んでいて、つぼみからだんだんと花が咲きはじめ、道行く人やドライバーの目を楽しませている。
季節は春。
春の犀川には、桜がよく似合うと思う。
河川敷を数分走り、もうすぐ十文字書店に着くというところで、橋の下に何やら人影のようなものが見えた。さらに近づいて目を凝らすと、それはまちがいなく人の姿だった。
うつ伏せになって倒れている。
右耳を地面に付けて、腕や足も力が完全に抜けているようでだらしなく地面に横たわっている。髪が背中まで伸びているので、どうやら女の子らしい。
僕は声をかけようか悩んだが、もし急に体調がわるくなって倒れていて、それを見過ごしたとなると寝覚めがわるい。
ブレーキをかけ、一度自転車をとめることにした。
「大丈夫ですか?」
倒れている少女からは反応がない。仕方がないのでスタンドを下ろし、自転車を固定し、少女のそばに駆け寄った。
そして再び、
「大丈夫ですか」と言い、少女の左肩に手を触れる。
そうすると少女の身体がビクッと動き、目が開かれる。
よかった、とりあえず死んではいないみたいだ。
少女はうつ伏せに寝ころんだ体勢のまま、僕に視線をむけた。
いたずらっぽく光るクルンと大きな黒い瞳。雪のように真っ白でなめらかな肌。スッと細く通る鼻筋に、卵形の輪郭が綺麗に縁どられた顔は、きゅっと小さい。地面にくっつけている腕や足は華奢で、すこしでも触れると壊れてしまいそうな儚さを感じた。もし天使がいうものが存在するのなら、こんな姿なのかなと僕は本気でそう思った。
ただ、その陶器のようになめらかな肌からはどこか懐かしさも感じられた。
「おにいさん、わたしを知っているの?」少女は言った。
いや、知らないと思うけれど。
自慢じゃないが、僕は女性の顔を覚えるのが得意ではないのだ。
「体調が悪そうだったから、声をかけただけだよ。僕の気のせいだったかな?」
「・・・だったら、気のせい」
少女は見ための繊細さからはほど遠いぶっきらぼうな声で答えた。
なんだか機嫌が悪いようだ。
紛らわしい恰好で寝ているそっちが悪いんじゃないか!
と思うが、口には出さない。
僕はむっとしたからと言って若い女の子を怒鳴り散らすことのできるような太い神経を持ち合わせていないのだ。
少女は僕のことなど全く気にしていない様子だ。
先ほどから少女の興味はずっと、地面の下に向いているように見える。
「ちなみに、なにをしているの?」
「おにいさんには関係ないよ」
「服が汚れちゃうよ?」
「よごれたら、また洗うだけ」
彼女が着ている白いワンピースは、地面に寝ころんでいるからか、ところどころ汚れていた。その汚れのなかに、絵の具のようなものもついている。
「そういう問題かな・・・。」
なんだか頭が痛くなってくる・・・。綺麗な外見をしているけれど中身はとんだ変わり者なのかもしれない。
「あのさ、おにいさんはわたしに何か用があるの?」
少女が再び目を開け、薄桃色の唇をひらき、じーっと僕を見る。
たった数秒のことだったけれど、まるで心の内側まで覗きこまれて観察をされているような感じだった。
「感じわるいなあ。こっちは心配して言っているのに」僕は少女の瞳から視線を逸らしながら言う。少女に見つめられて一瞬ドキリとした自分が、少し恥ずかしい。
「気になるなら、おしゃべりするのをやめて、そこに寝ころんだらいいよ」
少女は再び目を閉じ、ゆっくりと呼吸をしていた。少女のお腹のあたりが気持ちよさそうに上下にうごいて、規則正しく呼吸がつづいていく。
もう会話する気はないってことかな。
「・・・いいや、心配して声をかけただけだから。ゆっくり楽しんで」
少女は目を閉じたまま、黙ってうなずいた。
僕は自転車へと戻り、スタンドを上げる。ペダルを漕ぎはじめて横目で少女の方をちらっと見ると、先ほどは慌てていたので気づかなかったのだけれど、少女の横に木製のイーゼルが置かれていた。
そこには川と桜の絵が描かれている。
穏やかな川の流れと桜の美しさが淡い色合いで描かれた、「春の犀川」だ。
一瞬しか見ることが出来なかったけれど、その絵はぼやっと今にも溶けだしてしまいそうな色彩で描かれているのに、なにかを訴えてくるような激しい強さがあった。犀川と桜のぼんやりとした風景の中から生命力のようなものを感じる。その絵がもつ不思議なエネルギーに、僕は自分がどんどんと惹かれていくのを感じた。
もう少し絵を見ていきたいという強い衝動に駆られたものの、アルバイトに遅れてしまうので、そのままペダルを漕ぎ続ける。
少女は先ほどの体勢のままずっと、地面に耳を澄ませていた。まるで植物が大地から養分を吸収するように、彼女も生きていくためのエネルギーを集めているのかもしれない。
僕はそう思った。
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