犀川のクジラ

みん

文字の大きさ
12 / 56
1章 春

11話

しおりを挟む
「いやー笑った。あんなに笑ったのはすごく久しぶりな気がする」
「六藤、良い右ストレートだったぜ」
「六藤くん、手は痛くない?」

 僕の横で心美がずっと笑い転げている。
 僕が心美の代わりに先輩を殴ったことがツボに入ったらしく、何度も腹を抱えて笑う。数十分前までの怒りはどこに行ったのだろうかと僕はあきれてしまう。殴った右手がじんじんと痛むが、折れてはいないだろう。
 
 居酒屋では、ハッとして正気に戻ると、山口という男が床でのびていた。
「え?」と言い僕が振り返ると、後ろで心美が驚いた顔をしている。おーっという歓声と拍手が学生たちの間で広がり、人を殴ってしまった僕に、なぜか賞賛の声が上がっていた。僕はおずおずと手を挙げ、歓声に応える。リングに上がり、試合に勝ったボクサーのような気分だったが、これは試合ではない。

「ヤマグチくんって後輩から人気ないのよね。大丈夫、こいつ頑丈だから」と言ってシオリはのびている男の額に居酒屋の店名が書かれたおしぼりを置き、僕と心美を追いだした。あとは何とかしておくから、ということらしい。

 永井と由紀もついてきて、僕らは一緒に店を出ることになった。
 居酒屋から逃げるようにして犀川までやってきたあと、お互いに自己紹介を済ませると、ぼくらはそのまま帰る気にはならず、河川敷の芝生広場に座って話をしていた。

 夜の犀川は静かに水が流れる音が響き、それ自体が温かな音楽のようで、聞いているとゆったりとした気分になる。僕は静かに流れていく音や、ぼんやりとした空気が漂うこの川沿いの生活が好きだった。

「シオリさんは大丈夫って言ってたけど、ほんとに大丈夫なのかな?」
「シオリさんが大丈夫って言ったときは任せておけばいいの。小学校の時からの先輩でね、頼りになるんだから」心美はそう言うが、人を殴っておいてそのままにしておくのもどうかと僕は思う。
「でも、恭二郎が殴ってくれてスッキリしたよ。人が自分のために怒ってくれるのって、案外嬉しいんだね」
心美はなぜか僕を、下の名前で呼ぶ。心美のために怒ったのかどうかには自信がなかった。そうだとも言えるし、ただムカついたから殴ったとも言える。僕は自分がそれなりの常識人だと思っていたが、もし後者なら、ただの野蛮人なのかもしれない。
「あのいけ好かない男をノックダウンした六藤はえらいよ」
「六藤くん、普段は温厚なんにね」
「あいつの顔見た?白目になってのびてるんだよ」
あー、スッキリしたと言い、心美は大きく身体を伸ばす。そしてそのまま、土手に寝ころぶ。短い芝生になっているので、寝ころぶには丁度いい。
「あの飛び蹴りも見事だったけどな。心美ちゃん、格闘技を習っていたのかい?」
「お父さんが空手の先生だったんだよね。わたし、小さいころから身体が弱くて、心身を鍛えるためだーってムリヤリね」
 それであの動きか、と僕ら三人は納得する。
「そうだ、心美ちゃんは美大に通っているんだよな」永井はミステリアスな少女の出現に興味津々といった様子で「なんか作る系?それとも絵を描いてんの?」と言う。
「うん、絵を描いてるよ。こんど近くの美術館に展示されることになってるから、時間あったら見においでよ」
「へえー、すごいな!ぜひ見に行かせてもらうよ」
「すごいね、見てみたいなあ」

 文学部に所属している永井や由紀、僕にとっては油絵も水彩画もテンペラ画も同じ“絵”のくくりに入るだけのもので、知識など皆無である。それでもこの少女がどんな作品を描くかということには惹かれるものがあった。僕は心美と初めて会った日に見た、桜と犀川の絵を思いだす。繊細なタッチと淡い色合いで美しく描かれていたその絵は、見ていると絵の中に引きずり込まれていくような、不思議な魅力があった。
あの絵をもう一度見てみたい、そう思った。

「聞きたかったんだけど、君はどうして橋の下で寝ころんでいたの?」僕は心美と一緒に寝ころび、前から疑問に思っていたことを口にする。
「君じゃなくて、私の名前は心美だよ」
「女性を下の名前で呼ぶのは苦手なんだ」
「じゃあ、教えてあげない」
 心美は頬をふくらませ、僕に背中を向ける。横に座る由紀に助けを求めるが、由紀は曖昧な笑顔をみせるだけだ。
「心美、橋の下で寝ころんでいた理由を教えてくれませんか」
 背中越しに心美にそう言うと少し機嫌を直したようで、くるっと僕のほうを向き笑顔をみせて話す。
「唄を聞いていたんだよ」
「唄?」
「そうだよ、クジラたちの唄」
 クジラを見た、と少年のように目を輝かせた父の顔がとっさに浮かぶ。クジラという単語を聞くと、僕の脳みそは父を連想するように設定されているようだ。
「クジラが唄を歌うっていう話は聞いたことがあるけど、この川で?」
「うん。お母さんが死んじゃってからちょっと経つとね、この川で唄が聞こえてくるようになったんだよ」と言い、心美は寝ころんだまま地面に耳をつけ、目を閉じる。唄が聞こえるかどうか、そっと耳を澄まして確認しているようだ。
「ダメだね、いまは聞こえない」
「なになに、クジラの唄ってどんなのなんだ?」芝生に寝ころんでいた永井が起き上がり、僕らのほうへやってきて座る。面白そうだから聞かせろ、といった感じだ。
「犀川にクジラがいるん?」由紀も僕の横で、楽しそうに目を輝かせている。
こういう時に、犀川にクジラなんているわけないだろ、見てみろよ、こんな浅瀬なんだぜ、などと野暮なことを言わないのが僕の友人たちの良いところだと思う。もっとも、心美があまりにも平然と「クジラの唄を聞いていた」と言うので、本当にこの犀川にクジラがいる気がしてくるから不思議なものである。
「んーとね、遠くから反響してくるようなゆったりとした音のときもあれば、近くでウィーン、キューンて大きい音のときもある。ほんとはね、川のなかに耳をくっつけると一番よく聞こえるんだけど、こないだそれをしていたら警察のひとに見つかって怒られて、地面で我慢してるんだ。別にわるいことしてないのにね」心美はその時のことを思い出して、納得がいかない、といった顔をしている。
それで地面に寝ていたのか・・・って地面でもあまり変わらないだろ。
「なんでその音がクジラの唄やって思ったん?」と由紀が聞く。たしかに、クジラの唄を聞いたことがなければ、音を聞いてもその唄がクジラの唄かどうか判断することができない。
「わたしね、小学生のときにオーストラリアへ旅行に行ったことがあるの。ホエールウォッチングとダイビングを体験させてもらったんだけど、その時に聞いたクジラの唄声とね、まるっきり一緒なの」
心美は楽しそうに、それでもどこかさみしそうに、小さいころの思い出を語る。
「クジラがこの犀川に・・・ロマンだな。ロマンを感じるぜ、心美ちゃん」
「犀川にクジラがいるかどうかは分からないけど、耳を澄ませばクジラの唄が聞こえてくるのはたしかだよ。それにね、クジラの歌声を聞いているとすごく安心するの」
 
 心美のことばに、僕らはみんな地面に耳をつけ、クジラの唄が聞こえないだろうか、と耳を澄ませる。だけど聞こえてくるのは、地面につけてないほうの耳から聞こえてくる川の音や、河川敷を歩く人たちの声だった。
「ん、そうだ。まずクジラの歌声を知らん」永井がもっともなことを言って、ズボンのポケットから携帯電話を取り出す。由紀もそうだね、と照れている。永井は慣れた手つきで携帯電話を操作し、動画サイトを開くと、

“クジラ 歌声”と打ちこむ。

 出てきたページをクリックすると、よるの河川敷にクジラの唄が響いた。
 海の中にいる状態なのかゴポゴポと音が聞こえ、同時に、広い建物内に響きわたるような反響音が聞こえてくる。波のような抑揚をもった旋律は海の底からわきあがり、ふるえる高音が海中に響きわたっている。聞いていると心がしんとして落ちつき、神秘的な何かのかたすみに触れているような気分になる。

「んー、これは、遠くにいるクジラの唄だとおもう。ほかにも、近くにいるときとか、クジラが住んでいる海によっても歌声はちがってくるらしいんだけどね」
「心美にはクジラの唄が、この犀川から聞こえてくるんだね?」僕は心美に念を押すように、尋ねる。
「だから、さっきからそう言っているでしょ。朝の日が昇る前とか、深夜遅くの時間帯だと、聞こえる場合が多いんだよね」心美はなんでだろうね、というように首を傾げる。
「そうだ」永井が突然、手をポンっと叩き、ひらめいたように「六藤、お前はこの“犀川の会”には目的が必要だとか偉そうなことを言っていたな」と言う。
「居酒屋での話?まあ言ったけど」その話はもう終わったじゃないか、わざわざ蒸し返すことはないだろうと僕は思う。

「そのクジラ、おれたちで見つけないか」
「え?」

「心美ちゃんに聞こえているっていうことはクジラが近くにいるのかもしれない。もしクジラがいないとしても、歌声の正体は一体何なのかを究明する。その研究を“犀川の会”の目的とするのはどうだ」永井は名案だ、と言わんばかりに目を輝かせ、僕らを見回す。
 
 永井の携帯からはクジラの歌声が延々と流れていて、そうするべきだ、とクジラが賛同しているようだ。
「犀川の不思議を解明するんやね?面白そうやあ」由紀は穏やかで大人しい性格だが「青春、て感じやね」と言って笑っている様子をみると、“ノリ”は永井とよく似ているのかもしれない、と僕は思う。
「さすが由紀、乗ってくれると思ったぜ。もちろんそれには、心美ちゃんが“犀川の会”に入ってくれることが条件なんだけど・・・」と言い、永井が心美のほうを見る。
「え、わたし?仲間にいれてもらっていいの?」
「ぜひ入ってほしい、現段階でクジラの唄が聞こえるのは心美ちゃんだけなんだし。たしか心美ちゃんも、犀川沿いに住んでるんだよね」
「うん、芸術村の近くに家があるけど」
「だったら入会条件は、余裕でパスしているさ」
「んー、そうだなあ・・・。じゃあ、よろしくお願いします」
 永井の強引な誘いを断れなかったのか、犀川の会に興味があったのか、心美はそう言って小さくお辞儀をした。
 
 学生と社会人の大きなちがいは、体力と時間に余裕があるかどうかだとおもう。アルバイトや大学の講義があるものの、アルバイトは正社員の仕事に比べれば単純なものだし、大学の講義は出席していてもそこまで体力を消耗するものではない。疲れているときは肩肘をついて、教授に見つからないように寝ていることもよくある。
 
 つまり僕らには学生生活の最後に、青春を謳歌する体力と時間が与えられていた。

 だが、僕は彼らのやりとりを見ながら、頭の中ではひたすら別のことを考えていた。それは僕が大学でいまの学部をえらんだきっかけでもあり、僕の人生で解決しなければいけない“課題”についてだった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

処理中です...