犀川のクジラ

みん

文字の大きさ
29 / 56
2章 夏

28話

しおりを挟む
 僕らは最初に出会った橋の下までやってきていた。屋台の灯りからは少し距離があり、この辺りは人もまばらである。
「ごめん」

 僕は心美の左手を握り続けていたことに気づき、パッと手を離す。
「なんで謝るの?」
 僕は心美の叔母との会話を邪魔したことや、勝手に手を握っていたことなどをボソボソと説明した。
 今さらになって、僕の行動が正しかったのか不安になる。

「ううん。また助けられちゃったよ」

 心美は僕の言葉を聞くと、優しく笑った。
「あの人、お母さんのことが嫌いで、わたしのことも嫌いなの。新潟にいたときもわたしのやることなすこと気に食わないらしくて、一日中皮肉を言われてた。だけどお母さんが死んでからわたし、ずっと抜け殻みたいだったから、おばさんの言うことに歯向かいもせずになんでもハイハイって言うことを聞いてたわ」
 心美は淡々と話した。
 叔母に会ったことで、高校時代の生活を思い出したのだろう。
「学校が終わって家に帰ったら、食材の買い出しに掃除、洗濯、お風呂や夕食の準備までほとんどやってた。まるで家政婦みたい。友達とも遊ぶ暇がなかったし、どこかに出かけたりもできなかった」
「登って?」
「登はあの家の子供なの、今年中学三年生になる男の子。あの家で唯一わたしと普通に話をしてくれた子よ。登には絵の才能があるのに・・・おばさんが絵の道に進むことを許すはずはないと思う。夫が弁護士だから、将来はそういう法律の道に進ませるつもりなんじゃないかな」
「そっか・・・」
 おばさんの後ろにいた人物は、彼女の夫だったのか。弁護士という職業が似合いそうな、インテリジェンスな雰囲気を携えていた。
「なんだか巻きこんじゃってごめんね」
「心美のせいじゃないだろ」
 心美は僕を見て目を細めると、ほんと暗黒時代だったなあ、と言って川の方に顔を向ける。白く透き通った彼女の横顔を見ながら、高校の時の心美に会っていても彼女だと分からなかったかもしれない、と僕は思う。
メガネもかけていたみたいだし。

「あれ」
彼女が突然そう言って、耳の後ろに手を当てた。
「恭二郎、聞こえるよ」
「なにが?」
「クジラの唄」
 春から心美と一緒に帰っているとき、時々心美が聞こえる、と言うときがあった。僕はそのたびに両手を耳の後ろに当てて耳を澄ませてみるが、なにかが聞こえたことはなかった。
 
 だけど、心美が嘘をついているようには見えないし、父さんのノートにも書いてあったので、僕は今日も真剣に耳を澄ます。
 目を閉じ、音を拾えないかと意識を集中させてみる。
 屋台のほうから聞こえる喧騒、じーじーと五月蝿いセミの声、ザァーと流れる川の音。ひとつひとつを判断し、意識的に遮断していく。
 だが、海の底からわきあがるような反響音は今日も聞こえない。

「恭二郎、あれ」
 僕が川に意識を集中させていると、横で心美が言う。
 僕は目を開け、心美の目線の先を追いかける。暗くてよく見えなかったが、目をこらすとピンク色の浴衣を着た女の子が石段の上に座っていた。

 羽衣ちゃんだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

入れ替わり夫婦

廣瀬純七
ファンタジー
モニターで送られてきた性別交換クリームで入れ替わった新婚夫婦の話

秘書と社長の秘密

廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。 突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。 ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

処理中です...