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1章
パン聖女、誕生 3
しおりを挟むその日もシェイラは、朝早くからひたすらにパンをこねていた。
当然のことながら、一日中パンをこねていれば部屋中小麦粉で粉だらけだし顔も洋服も白くなる。パン屋に生まれ育ったシェイラにとって、それはごくごく当たり前の日常だった。
けれど王宮仕えの侍女たちや衛兵たちにとっては、どうやら当たり前ではないらしい。
ゴホゴホッ……!
コホッ……! ゲホッ……!
壁際にピシリと背を伸ばし控えている侍女たちや衛兵たちが、時折苦しそうに咳き込むのが聞こえる。
「あのー……、もし粉っぽくてお辛いようなら窓を開けてもいいですよ? それか口に布を当てるとか……。私は慣れてるから大丈夫なんですけど」
けれど皆穏やかな顔で首を振るばかり。というか別にずっと見張っていなくても逃げ出したりサボったりしないから、ひとりにしてもらってもいいんだけど――なんて言葉をぐっとのみ込んだ。
生来が働き者のシェイラである。わけもわからずパンをこねる毎日ではあるけれど、それが困っている人の助けになるのだと思えば手を休めることはない。
気を取り直して再び小麦粉の山に向かい、パンをこねはじめたその時だった。
「シェイラ様、リンド殿下がおいでになりました」
「ええっ⁉ なんでこんなとこに王子殿下がっ?」
一斉に侍女たちが恭しく腰を折るのを見て、慌てて真似をして頭を下げた。何と言っても相手はこの国の王子様なんだし、万が一にも粗相があってはならない。
リンドは皆にもとに直るよう告げると、静かにこちらへ歩み寄ってきた。
「おはよう、シェイラ。調子はどうだい?」
「え? あ、はい! 毎日ちゃんとこねてます。いえ、ちゃんと聖力で魔物退治してますっ」
しっかり聖女としての役目を果たしているか、と思しき問いにこくこくとうなずきつつ答えれば、リンドの視線が自分の顔の上で固まった。
「……ぶっ」
「……え?」
今リンドの口から奇妙な声が聞こえた気がしたような――?
そしてはっと気がついた。
「もしかして、小麦粉ついてますっ⁉ す、すみません。こんな小麦粉だらけの顔で……。一生懸命一匹でも多く魔物を倒さなきゃって思って……」
どうやら顔が粉だらけだったらしい。間抜けな姿をさらしてしまったことに恥じ入るけれど、もう遅い。
(恥ずかしい……! こんな顔、リンド殿下に見られちゃうなんて……)
リンドと会うのは、謁見室で声をかけてもらったあの日以来はじめてだった。未来を担うことが約束されている王子である以上、リンドはとても多忙であるらしい。
よって王宮内でも見かける機会すらまったくなかったのに、どうして突然やってきたのだろう。
くるならくると先に言っておいてくれたらいいのになんて心の中でぼやきつつ、慌てて袖口で自分の顔をごしごしと拭った。
けれど次の瞬間、リンドが今度こそたまらないといった様子で噴き出した。
「ぶはっ! ぷぷっ、あはははっ! 袖も大分粉だらけだったみたいだね。ふふっ。これを使うといいよ」
そう言って、リンドは自分のハンカチを差し出した。
「あ、あの……でもこんなきれいで高そうなハンカチ、もったいないです……! あとで顔を洗うので、大丈夫ですっ」
袖口で拭ったことで、余計にひどい顔になってしまったらしい。恥ずかしさで顔から火が出そうな気持ちで、慌てて押し返した。
けれどリンドはにっこりと微笑んで、手をこちらに伸ばすと。
「え……!?」
リンドが自分のハンカチで自分の顔を拭ってくれているのだと気がついて、慌てて後ずさった。
「ほ、ほほほほほ本当に大丈夫ですっ! す、すすすすすみませんっ」
顔から火が噴き出すとはこのことを言うのだろう。恥ずかしさで穴を掘って消えてしまいたい。
本当はずっと会いたいと思っていた。あの時謁見室で励ましてくれた感謝を伝えたかったから。それにリンドが主導して、自室やパンこねの環境をこれでもかというくらいに過ごしやすく整えてくれたと侍女たちに聞いていたし。
けれどこんな再会はどうかと思う。もっとちゃんとした格好でせめて小麦粉くらいはきれいに落とした顔で会いたかった。
残念な再会にしょんぼりと肩を落としうなだれていると、リンドが眉をひそめ問いかけた。
「……目の下にくまができている。睡眠が足りていないのでは?」
「えっ⁉ あ、これは……いえ、ちゃんと休んでいます。一応は……」
夜が明けるまでついつい自室でパンをこっそりこねていたなんてとても言えず、もごもごと言い淀んだ。
「君ひとりで魔物をどうにかしようなんて、焦らなくていいんだよ。あまり無理をしないようにね。シェイラ」
はじめて謁見室で会った時と同じ優しい声と口調に、胸がドキドキと跳ねる。
(ふわっ……! またこの感じ……。なんだろう。なぜかリンドの声を聞くと不思議な気持ちになっちゃう……)
一気に顔に熱がこもり、慌ててうつむいた。
「は、はい……! もったいないお言葉、ですっ。ええっと、その……一日も早く魔物がいなくなるように、精一杯頑張りますっ!」
胸の鼓動がバクバクと忙しなく高鳴って、わたわたと言葉を返した。
返事になっていないその言葉に一瞬リンドの顔が曇った気がしたけれど、小さくうなずくとそのまま部屋を出て行ったのだった。
◇◇◇
パタン……。
閉じられた扉を背に、リンドは一瞬立ち止まり振り返った。
「ん? どうかしましたか、殿下。シェイラ殿に何か言い忘れたことでも?」
本来は自分の補佐であるカイルにそう問いかけられ、リンドは首を横に振った。
「いや……。なんでもない。ところでカイル、お前に調べてもらいたいことがある」
「なんです? 殿下の頼みならなんでもやりますよ? 後ろ暗いことでもちょっと内緒なことでも、何なりと」
カイルは上級貴族の次男坊で、非常に頭も切れ外見も整った男だった。少々軽薄なのが玉に瑕ではあるが、いざという時にはとても頼りになる人物だ。
そのカイルをあえて一時的に聖女付きの衛兵として置いたのは、聖女となったシェイラの身を守るためだった。
魔物を倒せる唯一の存在である聖女には、どうしたって重責がつきまとう。その苦しみから少しでもシェイラを守ってやりたかった。
リンドは今出てきたばかりの部屋の扉を見つめたまま、告げた。
「……近頃の魔物の出現地域と行動パターン、それからゲルダン侯爵とミルトンの最近の動向について調べてほしい。ただし、くれぐれもこちらの動きを悟られないように気をつけろ」
「……ゲルダン侯爵とミルトン、ですか? まさかここのところの魔物の異常とあの者たちに何か関連が……?」
カイルの問いかけに、ゆるゆると首を振った。
「いや。今はまだ何も……。だが明らかにここのところ魔物たちの動きがおかしい。何か裏がある気がするんだ」
そう告げれば、カイルの飄々とした顔にすっと真剣な色が浮かんだ。
「わかりました。すぐに調べます」
リンドは扉の向こうにいるシェイラの顔を思い浮かべ、ぐっと拳を握りしめた。
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