逃げた先は

秋月朔夕

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逃れられない痛み

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 プカプカとわたしは海の上で浮いている。夢の中でわたしは人魚となった。わたしの他にもお姉さま方がいらっしゃるがなにも喋らない。ただ曖昧な笑みを浮かべて、波に逆らわずに泳いでいるだけだ。知り合ったイルカは言った。末の妹が海の泡になってしまったショックが癒えていないのだと。だからわたしは未だにマーメイド達とは話したことがない。唯一関わったのはマーマンである海王様だけだ。


 「此処におったのか」
  背後から声を掛けられ、ゆっくりと後ろを振り向くと何処か安堵の表情を浮かべている海王様がいた。
  背中まである少しだけ癖の入った金の髪に、鍛え上げられた六つの胸筋から降りた先は濃紺に少し星が混じったような煌めく尾ひれ。意思の強さを感じられる眉毛とは裏腹にコバルトブルーの瞳の奥底が今日も悲しみを映している。
 (もったいない)
  いつ見てもそう思う。せっかく輝かしい笑顔が似合うような方なのに、末娘の人魚を亡くしたせいで、いつも疲れたような表情をみせている。
 「いや、今日はまだ食事をしていないだろう? 良かったら私と共にしないか?」
 「はい」
  人魚の食事は太陽の光を浴びることを意味する。毎日する必要はないものの最近晴れていることは少ない。そのため日だまりが射し込んでいる内に溜め込む必要があるのだ。海王様はわたしがどれだけこの世界において異質な存在か知っている。だからなにかと世話を焼こうとするのだ。



  スイスイと陸に向かって泳いでいけば、既に食事をしているお姉様方がいた。色とりどりの髪と尾ひれ。人魚のように美しいかんばせ。対するわたしの顔立ちは日本にいたころと変わらず、背中まで伸ばしただけの黒髪に、低い鼻と小さな唇。眼だけは大きいが、それが童顔に拍車を掛けていて、大人ぽいお姉様方と比べるとより一層異質な存在に見えさせる。
 「ここには慣れたか?」
 「はい。なんとか……」
  嘘だ。本当は慣れてなんかいない。しかし、海王様はわたしの嘘なんか見破っているはずなのに、満足そうに頷く。彼は不安なのだ。馴染めなければ、わたしが外の世界に興味を示すのだと思って。
 (末の娘は外の世界に出たせいで、恋を知ったから)
 「海王様、大丈夫です。わたしはずっとこの海におりますわ」
 「あぁ。リトルマイレディ。どうかずっと私の傍にいておくれ」
  海王様にとって人魚は皆自分の娘だ。彼の思うままに人魚は創りだされるが、同じマーメイドは再び存在させることが出来ない。だからこそ、彼は嘆いているのだ。
  ――最も愛おしい娘をなくして……
 だからこそ、海王様は監視するようにわたしに付き添うことが多い。
 (愛した娘を再び失いたくないから)
  だけど、わたしはたまにその重圧が息苦しく感じることがある。
  そんな時は――






「ふー。久しぶりに外に出れたわね」
  今日は天気が良い。こんな日は直接太陽の光を浴びたくなる。
 「ららららー」
  花が満開に咲いている孤島は誰も知らないわたしだけの秘密基地だ。わたしは海王様の眼を盗んでは、この孤島に忍び寄る。そして気の済むまで歌ってから、また海に戻る。歌詞がでたらめでも適当な鼻歌でもここでは聞く者は誰もいない。だからこそわたしは自由に振る舞える。
 (あと一曲だけ歌ったら、海に戻ろう)
  名残惜しくはあるが、海王様が気付く前に戻らなければいけない。オレンジ色の尾ひれを水に浸け、歌おうとすると背後から人の気配が感ぜられた。
 「誰?」
  ここにはわたししか居ないはずなのに。勢いよく振り返えれば、息をするのも忘れそうな程の美丈夫がそこにいた。首が痛くなるほど見上げた先には紫紺の双眼に捕らわれた。
 (きれい)
  アメジストの瞳に腰まであるぬばたまのしなやかな髪。そこいらの女の子よりも白い肌をしているのに、なよなよしく感じないのは豪華なマントを着ていても分かる鍛えられた肢体があるからだ。唇は艶やかに弧を描いていて悪魔が人間を陥れるために創られたかのような美しさを具現化している。わたしは身震いした。人は圧倒的な美に対して平伏するものだから。
 「あなたはっ……」
  恐らくこの男は花を眺めに来たのではないのだろう。その証拠に先程まで咲き誇っていた花が男に踏まれ、無残にも散っている。
 「お前をわたしのモノにしてやろう」
  当たり前のように放たれた言葉の意味をかみ砕くよりも先に男は腰を折り、わたしに口付けをしてきた。
 「っ、んんっ」
 (やだ。なにか入ってきて……)
  いとも簡単に割り入られた舌の先にはなにかぬるついたカプセルのようなものを押し入れられる。わたしは本能的に飲み込んではいけない、と舌を押し当てて飲み込むことを拒否するが、男はその抵抗すら楽しいかのようにゆっくりと唇を蹂躙する。根負けしたのはわたしの方だ。コクン、と喉になにか入ってきたなと思うと同時にわたしは絶叫した。
 「いやぁぁぁあ」
  まず感じたのは尾ひれ全体を支配する熱。そして、次いでに感じたのは尾の骨を思い切り金槌で叩かれているような痛みだった。
 「痛いか?」
  その問いはわたしを心配するというより、どこか嬉しそうに頬を緩めている。
 「おねがい……助け、て」
 「これはお前が私のモノになるための痛みだ。だから痛みを退けてはやらん」
  あぁ、なんて勝手な男なんだろう。この地獄のような痛みに耐えぬけと言い放つ男にわたしは絶望のあまりにひとしずくの涙を流した。彼はうっとりとした様子でわたしの頬を舐め上げていく。
 (海王様……)
  わたしは馬鹿だ。こんなことになるくらいなら、はじめから海王様の言うことを聞いておけばよかったのだ。だが、これが地獄への幕開けに過ぎないことは、幸か不幸かまだ知らないでいた。



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