逃げた先は

秋月朔夕

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逃げた先で

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「……さ、ん。サラさん。起きて下さい」
 「う、ん……?」
  なにか声が聞こえる。少し人より甲高い声は聞き覚えがある。
 (お母様だ)
  珍しい。いつだってお母様はわたしのことなんか無関心で、こんなに声を荒げて心配したことなんかなかったのに。ゆっくりと眼を開けると視界いっぱいに広がるお母様の泣き顔。いつものように丹念に施された化粧は既に涙で崩れており、眼の下のクマが長いこと寝ていないことを物語っている。こんなに乱れた姿の母を見たのは初めてだった。母はわたしが起きたことに気付くとベッド脇にあるナースコールをすぐさま押して、わたしの意識が戻ったことを告げていた。わたしは寝起きだからか頭が回らずに、ただそれを見ているだけだった。
 「お母様、ここは?」
 「サラさん、ここは病室です。貴女は三日も眠っていたのよ? どれだけ詳しく調べて貰っても原因は不明で……」
  ――では夢だったのだろうか。人魚になっていたことも。魔王に捕らわれたことも。逃げ出せたことも。海王様に会えなかったことも。
 「…………どうやらわたしは長い夢をみていたようですわ」
 「まぁ、それはどのような夢ですの?」
  それはですね、と言葉を続けようとした時に、病室の引戸がノックされる。
 「あら先生がいらっしゃったようですわね」
 「先生?」
  いつになく浮き足たつ様子に、わたしは眉根を寄せる。母はそんなわたしの感情の機敏に気付くこともなく、突然の来訪者を快く出迎える。
 「もう先生。婚約者のサラさんが目覚めたというのに、いらっしゃるのが少し遅いですわ」
 (――あぁ、そういうことか……)
  今まで起きた動乱のせいで忘れていたけれど、わたしは結婚するのだった。
 (だからお母様は必要以上にわたしを心配していたのだわ)
  父の薬品会社は既に破綻する手前まできている。贅沢がなによりも好きな母だ。そんなこと許すはずがない。娘を売ってでも今の生活を目論む母は、なんてたおやかな性格をしているのだろう。わたしの婚約者とやらの機嫌を取るような母の甘い声に内心ため息を吐きながらも、ゆっくりと顔を上げようとした。
 (――名前は確か橘千尋さん、だったはず)
  瞬時に脳内で組み立てられたのは聞き出した相手の情報。橘病院の一人息子。二十九歳。現在は脳外科医をしているが、将来的には大病院を継ぐ予定――見事に母が喜ぶ条件が揃っている。
 (だけど、なぜか写真は見せてくれなかったのよね)
  後のお楽しみだと母は艶笑んだ。彼女がそう勿体ぶるからには間違いなく顔は良いのだろう。しかしわたしは一切の期待をしていなかった。
 (だって魔王に眼が慣れているもの)
わたしの最後の自由を奪った憎い男ではあるが、顔は見惚れるほどに美しかった。
だから、期待しないと決めている。
  ――しかし、目の前にいたのはとんでもなく蠱惑的な男性だったからだ。
  百七十近くある母が隣に立っていても見劣りしないほどのしなやかで伸びた体躯に、肌との悩みなんか無縁そうな白い肌。切れ長の瞳は実に涼しげで、唇は酷薄めいた形をしているのになぜか艶めいていて見ている人の眼を離さない存在だ。
  ――わたしはこの人を知っている。



 「魔王様」
  自分でも聞き取ることができないくらい小さな呟きなのに彼はわたしの口の動きを読み取って口角を上げた。
 「『お久しぶり』ですね、サラさん」
 (あぁ、この人は全て知っているんだ……)
  彼の言葉に母は驚いてこちらを凝視しているが、わたしには答えられそうにない。強い視線に耐えきれずに俯くと、とうとう痺れの切らした母が口を開いた。
 「まぁ千尋先生は娘とお会いしたことがありましたの?」
  親密度を出すためにわざわざ男の名前を呼んでいることに気付いて、眉を顰めそうになるが慌てて堪える。もしも感情を露骨に出して母に見咎められてしまえば、あとあと面倒をしょい込むのはわたしなのだ。
 「じつは『昔』お会いしたことがあって――恥ずかしい話なのですが、ずっと忘れられなかったのです」
 「まぁ……!」
  昔、と強調してきたことにゾワリと肌が泡だった。彼は覚えている。そのことを嫌でも認識させられて、布団の中に潜り込んでしまいたかった。しかし、そんなことは許されるはずもない。
 「千尋先生のように素敵な方に想われているなんて、サラさんも幸せ者ですわね?」
  ふふふ、とあどけない笑みを見せているが、わたしに返事を催促するあたりいい加減媚を売れという無言の圧力を感じる。
 「そう、ですね。とても嬉しく思います」
  果たして今のわたしはキチンと笑えているだろうか。いつもなら笑みをつくることくらい造作もないことなのに、どうしてこんなに顔の筋肉が強張っているのだろうか。
  答えは簡単だ。
  ――魔王がいるから。
  彼にされた凌辱の数々は身に染みて覚えている。思い出したくもないことなのに、走馬灯のように消えては浮かび、身体が震え上がった。
 「…………少し顔色が悪いですね」
 (その原因のくせに……!)
  なにをぬけぬけと言っているのか。胸に燻る怒りのままに睨み付けると(もちろんお母様には見えない角度で)男は禍々しく嗤った。
 「起きたばかりですからね。どうせなら触診でもいたしましょうか」
  わたしに向ける顔はそのままに口先だけは穏やかな好青年を気取っている所が、一段と恐ろしい。
 「それならばわたくしは出ていった方がよろしいですわね」
 「えぇ。追い出すような真似を致してしまい心苦しいのですが……」
  心にもないことを言わないで戴きたい。母の言動に男の口端はますます吊り上り、眼は爛々と輝かせ、獲物を狩る肉食獣のような表情をわたしに見せている。そのせいで背筋から流れる冷や汗が止まることはないままに、わたしの体温を奪っていく。
 「お母様。わたしならば大丈夫ですわ」
 「サラさん、こんなに顔を青くしているのになにをおっしゃっているの?」
  それは目の前の男のせいだ。壊れそうな心臓の高鳴りも、血の気が引いたせいで起こる眩暈も、脳内からの警戒音も全部この男のせいだ。それなのにこの状況ではわたしが我儘を言って周囲を困らせているような展開になっている。もう全てが八方塞がりだ。
 (最悪)
  項垂れた気分のままに二人を見ると母は部屋を出ようとしている。どうやらわたしが俯いているうちに男が母を丸め込んだらしい。
 (嫌だ、この男と二人きりになんてなりたくない!)
 「お母様行かないでください」
 「サラ。あまり母親を困らせてはいけないよ?」
 (なんで貴方がわたしを諌めるのよ)
  しかも砂糖よりも甘い声でわたしの名前なんか呼んで、恋人気分になっているというのか。だとしたら、それはとんだ笑い種だ。
 (あんなことをしておいてよくも……!)
  人魚の証だった尾ひれを失わせた苦痛は忘れない。純潔を奪って閉じ込めたことも。そんな残虐な男と一生ともにするなんてごめんだ。むしろ今こうして一緒にいることですら、嫌悪感しか湧かないというのに。
 「千尋先生のおっしゃる通りですわ。それに甘えるならサラさんには素敵な婚約者がいるでしょう?」
 「……お母様わたしは」
 「『素敵な婚約者』が居るのは私の方ですよ」
  懸命に言葉を募ろうとしたのに、わたしが言い切る前に男が遮った。ドロリとした甘い言葉は毒のように母の思考を痺れさせ、わたしの心に苦味を与える。
 「まぁ……!やっぱりサラさんは幸せものですわね。きっとどんなに探したって千尋先生のように素敵な方なんて中々いませんわよ?」
  乙女のように頬を紅く染める母を見て、わたしはまた一つ逃げ場をなくされたのだとおもいしる。きっとこの先もわたしが逃げようとするたびに、今と同じように彼はわたしの逃げ場を潰していくのだろう。



  だからわたしは諦めよう。
  全てを受け入れて、男がわたしを飽きることを待ってやろうではないか。
  ただ逃げるだけでは、いけない。
  だって逃げた先にこの男がいるのだから。
 (つまらない女になってこの男を飽きさせよう)
  それがわたしが男から逃れる唯一の手段なのだから。

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