桜は狂気に魅入られる

秋月朔夕

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 あれからどれだけの日にちが経っているのだろう。カレンダーもテレビもないこの部屋ではもう時間系列すらも分からない。けれど、身体の怠さと思考の重さから考えるとある程度の時は過ぎているのだろう。


 (ああ、もうすぐだ……)
  あとちょっとでわたしは楽になれる。指一本ですら動かすのが億劫になっているのに、それとは反対にその事実があるだけで心は穏やかなものだった。
 (ようやくあの男から解放されるのね)
  思わずこぼれる笑みに、顔の筋肉が強張っていることに気付く。
 (最近、表情を出すことがなくなったせいだわ)
  そうか。あの男はわたしの感情すらも気付かない内に奪っていたのだ。ああ、なんて男だ。どこまでもわたしから奪い、追いつめる。本当に最低最悪だ。だけど、それもここまでだ。わたしはもう何も奪わせはしない。両親のいる世界へ逃げてやるのだ。
 「ふ、ふふ……」
  口から溢れる儚く小さな嗤い声が、壊れたモノだと気付かないまま現実から逃げるよう眼を閉じた。




 「お嬢さん」
  まどろみに身を任せていると自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 (嫌だ。起きたくない)
  だってわたしを呼ぶ人なんてもうあの人しかいない。それなら現実から眼を背けていたかった。早く去ればいい。そう思うがすっかりやせ細った腕を掴み、彼は溜息を洩らす。
 (馬鹿みたい)
  嫌な気分になるくらいなら、触らなければいいじゃないか。それなのに御堂はわたしの手を握り、体温を移すようにさすり始める。
 (ああ、これは長くなるな)
  けれどなぜだか今日に限っては不快ではない。だがそうやって優しくするくらいなら、最初からわたしにあんなひどいことをしなければ良かったのだ。
 (まぁ今更考えてもしかたないけど)
  それでも考えてしまうのは、もう少しで全てが終わるからだろうか。
 「………………御堂」
  ぽつりと呟いた声は自分でも聞き取れるかどうかというほどに小さかったが、御堂はすぐにわたしの方へ見つめ直す。
 「お嬢さん、起きられたのですね!」
  自分で呼んでおいて何を言っているのか。だが、わたしが男の呼び声に応えるのは久しぶりだったと気付く。掠れた声を出したためかすぐに御堂はサイドテーブルに置いてあったミネラルウォーターをコップに入れ、わたしに差し出してきた。
 「どうぞ、飲んでください」
  無言のまま飲み干すと男はほっとしたかのように息を吐く。
 (あんたがわたしを追いつめたくせに)
  それなのにどうしてこうも甲斐甲斐しく世話を焼こうとするのか。そこが気に入らない――受け入れてしまった自分にも。イライラしながら腕に繋がっている点滴を外そうとする。
 (これさえなければもっと早くにお父さんとお母さんの元に行けたのに……)
  そう思うと余計にムカついてくる。しかしすぐに御堂の手が重なり、わたしの行動を阻む。
 「いけませんよ、お嬢さん」
 「……邪魔なんです」
  その言葉は御堂か点滴かどちらに向けて言ったのか自分でも分からないが、御堂は点滴に向けたと解釈したようだ。
 「それでもいけません。せっかくの栄養が取れなくなるではありませんか」
  そんなものはいらない。こっちが頼んだことではない。それなのにどうして御堂はこんなにも恩着せ卦ましく言ってくるのだろう。
 (だから御堂は嫌いなのよ)
  結局はわたしと御堂は水と油なのだ。決して合わない――混じらわない関係。
  ……だけどそれも、あと少しで終わる。わたしが覚めない夢へと飛び立てば、もう終わるのだ。そう思えば少し可笑しくなって笑う。
 「……貴女が上機嫌だなんて珍しいですね」
 (ええ、そうよ。アンタと金輪際合わなくて済むんだから、笑いの一つや二つ転げ落ちるわよ)
  怪訝そうな御堂を無視してそれでも尚わたしは笑った。ああ、そうか。わたしは疲れていたのよ――だからこんなにも壊れた。そう自覚した時、わたしは一筋の涙を流していたことに気付く。
 (全部御堂のせいだ)
  そう思うと悔しくて堪らない。彼はどれほどのものを私から奪ってきたのだろう。湧き上がる腹立たしさを自分ではどうすることもできない衝動のまま、白いハンカチで涙を拭おうとする御堂の手を跳ねのけた。ぐしゃり、と床に落ちたハンカチは無様で自分の心のように醜い。そんなもの見たくなくて御堂に目線を合わせてやると彼も静かに見つめ返す。
 「貴方なんか大嫌いです」
 「ええ、存じております。けれどそれがなんだというのです。貴女はこうして私の腕の中に居る。結局それが全てではないですか」
  一片の迷いもなく言い切る彼は、それが自分の正義だと信じているんだ。けれど、そんなものはただのエゴでしかない。
 (気持ち悪い)
  どうしてこんな男にわたしの人生を付き合わされなければいけないのか。一人で勝手に狂っていて欲しかった。こんなのただの巻き込み事故じゃないか。
 (……もういい。やっぱり御堂なんかと話ていてもイライラするだけなんだから、寝てしまおう)
  固く瞳を閉じてもまだ御堂はわたしに語り続けている。嫌でも耳に入る声にどうすることも出来ず、仕方なくただ聞いていた。
 「お嬢さん、愛しています。貴女だけを――永遠に」
 (ああ、また始まった……)
  ベッドに伏せることが多くなったことで、最近の御堂は眠っているわたしに愛の言葉を紡いでいることが多い。子守唄のつもりなのだろうか。おかげで御堂が居る時は悪夢を見ることが多いので止めてほしい。
 「お嬢さん、お嬢さん……!愛しているんです」
  壊れたレコードのように何度も彼は同じことを言う。一体誰が想像出来たというのか。顔も金も地位もあるこの男が一介の高校生相手にこんなにも縋る姿を。けれどそれがなんだ。わたしに縋って情に付け込もうとでも出来るというのか。
 (甘く見ないでよ)
  わたしは絶対に御堂を許さない。アンタなんか地獄に落ちてしまえ。そう何度も思ってきた相手に言葉一つで許す訳ない。だから今御堂の紡いでいる言葉に意味なんかない――そう高を括っていた。
 「お嬢さん、起きているのでしょう?」
  珍しい。わたしが眠っている時に質問をするなんて初めてのことじゃないだろうか。けれど、御堂はわたしの答えなど待たずに、また話を進める。本当に身勝手な男――けれど、それが御堂だ。
 「……ねぇ、お嬢さん。貴女はこのまま消えてしまうつもりですか?」
  わたしの髪を優しく撫でる御堂の手が震えていることが伝わる。ええ、そうよ。わたしはこのまま貴方の前から居なくなるわ。御堂がわたしに対して勝手なように、わたしだって勝手にしてやる。だから、この瞳も開けてやらない。わたしの答えを待つのか、それとも次の質問を考えているのか彼は何も言わないままわたしの胸に沈み込む。久しぶりの距離間に、少しだけ動揺した。
 「…………ああ、ちょっとだけ早くなりましたね」
  わたしの反応を見るために顔を埋めたのか。そう分かったらなおさら不快な気分になった。彼はわたしが起きているかどうか試したのだ。
 (本当に嫌な男)
 「お嬢さん、愛してますよ」
  わたしの心音は変わらない。その反応を見て彼は続ける。
 「居なくならないで下さい」
  そんなこと今更遅い。それに彼の望みなんか叶えてやるものか。
 「……ふふ、本当に私の言葉では動揺しないのですね」
  彼が笑いながらわたしの頬を撫でた時、空気が変わったのを肌で感じた。それは本能的なモノだったのかもしれない。不意に訪れた恐ろしさから遠ざかろうとベッドから離れようとしたが、彼はわたしの肩を痛いくらいに強く掴んでいるために起き上がることも出来なかった。
 「やっぱり起きていましたね」
  御堂の腕は牢獄のようにわたしを捕えている。初めからわたしを逃がさないように、あの体勢でいたのだ。
 「本当に貴女はいけないお嬢さんだ」
 「っいたぁ」
  わたしの耳を噛みそのまま息を吹き込んだ彼は、それでも喉の奥を転がすように嗤っていて、ようやく彼の様子がいつもと違うことに気付く。
 「み、どう……?」
 「ああ、ようやく呼んでくれましたね。けれど、少しだけ遅かった……私の呼びかけに答えてくれないお嬢さんには少し痛みが必要だと思いませんか?」
  狂気のままに今度はうなじの方へ齧り付く。声にならない絶叫をあげると彼はさらに笑みを濃くした。
 「……ああ、良い反応です。貴女は感情的になるとさらに輝いてくれる。ほら、もっと私に見せて下さい。私だけに――貴女の全てを!」
  跡を付けるかのように何度もわたしの首筋に噛み付き、そして流れた血を舐めとる。鋭い痛みのあまり涙を流せば、今度は嬉々として涙を指で掬い上げていく。
 「…………貴方はやっぱり狂っています」
  掠れた小さな声にどれだけの追求性があるというのか。むしろ怯えを露わにしてしまい、御堂を悦ばせるだけだ。それなのにどうしてか言葉が洩れてしまったのだ。
 「ええ。貴女のせいですよ」
  彼の喜色ばむ声はどこまでも甘い。だが、瞳の奥だけは恐ろしいほどに冷徹に光っている。じっとりと背中には嫌な汗が流れた。
 「わたしのせいじゃないわ」
  それでも御堂に弱さをさらけ出したくなくて睨み付けてやると彼は一層笑みを濃くした。


 「いいえ、貴女のせいですよ――だって貴女が居なければ私はお嬢さんのご両親を殺そうとは思いませんでしたから」



 (…………今、なんて言った?)
  聞き間違いであって欲しい。だって、まさか。そんなわけない――そう言い切れなかったのは今までのつじつまが全て合う気がしたからだ。
  両親が事故でなくなったのも、突然本家とやらに連れて行かれたのも、御堂がわたしの世話係になったのも――全部わたしのせいなのか。苦しいほどに早まる鼓動と乾く喉。ゴクリ、と唾を呑み込み茫然と御堂を見つめる。
 「ああ、もちろん私が直接手を下してはいませんよ。だってそんな面倒なことは部下がしますからね。ちなみに動機は貴女を手っ取り早く御堂家に入れたかったからですよ」
  にこやかにこの男は何を言っているのだ。なんで人の両親を殺しておいて、楽しそうに笑っているのか。
 「本当に災難ですよね。貴女さえ居なければ、今頃平凡な幸せとやらを満喫していたはずでしょうに」
  わたしは忘れていた。この男は悪魔だったのだ。痛いくらいに鼓動は早くなっているのに、情報を処理しようとする脳はどこまでも遅い。けれど一つだけ湧き上がる感情がある。
 「……アンタが死ねばいいのに」
  怒りで目の前が赤くなるというのはこういうことなのか。首を絞めようと男に手を伸ばすが、あっさりと振り払われる。
 「お嬢さんは馬鹿ですねぇ。こんなにやつれた身体で私に勝てる気でいるんですか?」
  分かっている。わたしではこの男に勝てないことを。だけどそれだけで諦めろというのか。この男の所業を。そんなことわたしには出来ない。
 「許さない。アンタを……絶対に許さないっ!」
 「良いですねぇ。その憎しみに満ちた顔。じつにそそりますよ。どうです? 貴女の頭の中は私のことでいっぱいですか? 思う存分恨んでください。そうするごとに貴女の中で私の存在が大きくなっていくのですから。けれど許さないだなんて、怖いお嬢さんだ――私に何かする気ですか? 先に言っておきましょう。無駄ですよ。そんな身体で何が出来るというのです」
  だから諦めろ、というのか。そんなことで……わたしは両親の敵を取れずに終わってしまうのか。いいえ。そんなの嫌よ。
 「……殺してやる。絶対に、アンタだけは許してやるものか」
 「おやおや勇ましいお嬢さんですね。だから私は貴女が大好きなのですよ」
  芝居がかった様子で言う彼には激しい嫌悪感しか湧かない。唇を強く噛みしめたためにで流れた血を男が舐めとったせいで全身から悪寒がした。
 「わたしはアンタなんかに好かれてもこれぽっちも嬉しくないわ」
 「貴女の意思は関係ない。何度もそう言っているのに、なんて聞き分けがないのでしょうか。いい加減覚えてください。貴女はもう私だけのモノ……早く自覚なさい」
  瞬間、頭に血が上ることを自覚した。わたしの感情に今あるのは怒りと殺意、憎しみと嫌悪。様々な負の感情が脳内を駆け巡った。確かに弱り切った今のわたしでは御堂を殺すことはできない。けれど、いつか必ずわたしの手でアイツの人生を終わらせてやろう。これはそのための宣言だ。
 「御堂わたしはアンタを殺すわ。例え何年掛かろうとも絶対に……!」
  わたしの怒髪天に御堂は何か小さく呟いて、そして微笑む。それは今までに見たこともないほどの優雅な笑みだった。
 「ええ。貴女の手に掛かることが出来るなら待ってあげましょう。けれど忘れないで下さい。いつか来るその日までは貴女は私のモノであることを。そしてその身体も心も全ては私のモノであることを」
 「……何を言っているの? 少なくとも心だけはアンタのモノになったことはないでしょうに」
 「……いいえ、お嬢さん。貴女の心は既に私のモノですよ。だってその憎しみを受けていられるのは私だけなのですからね」
  恍惚とした表情で微笑む男に鳥肌が立つ。きっとわたし達はどこまでも正反対のままお互いの考えを曲げることなくこれからも突き進んでいくのだろう。男はわたしを妄執的までに求め、わたしは男を永遠に拒絶して――それでもどちらかの最後までずっと傍に居続ける。男はわたしを逃がさないために。わたしは男を殺すために。幕が下りるその時までずっと一緒に居るのだ。













  お嬢さん可哀そうに。こんなにやせ細ってしまって。けれども大丈夫。貴女は死なない。死なせやしない。だって貴女の生きる活力は私であるのだから。知っていますか、お嬢さん? 憎しみというのは、人間の感情の中で最も大きい活動力となるのですよ。

  ――だから憎んでください。

  そうすることでお嬢さんが生きるというのならそれだけで私は価値がある。
 (お嬢さんに憎まれるとなると、コレクションも増えますねぇ)
  優しい世界に生きていたお嬢さんのことだ。きっと彼女は殺意なんて抱いたことはなにのだろう――だとしたらそれは私だけのモノ。私だけへ向ける感情。それは特別ではないか。
 (ああ、ゾクゾクします……)
  お嬢さん、愛しています。だからたくさんたくさん私を恨んでください。そうすることによって今まで知らなかったお嬢さんを見れるのですから。貴女はもう逃げられない。だって貴女はもう私という狂気に魅入られてしまったのだから逃がすはずはないでしょう。


  ――ずっと一緒に居ましょうね。最後の時までずっと一緒に。
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