ちはやぶる

八神真哉

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第八十七話  形見の勾玉

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水の流れる音がする。
崖の上から峡谷に注いでいる滝が見えた。
龍門と呼ばれている滝だ。

張りだした崖の内側は大きくえぐれていた。
流れ落ちる水の下を潜るように道が続いている。
まっすぐに進めば、目指している馬木へと続く。

道をそれ、動かぬ体を叱咤し、脂汗を流し、痛みをこらえ、崖を登り、沢をさかのぼる。
足元の岩盤は長い年月をかけて削られ、曲がりくねった水路となっている。

その沢を枝葉が覆い、月の光をさえぎっていた。
しばらく登っていくと空が開けた。そこには何事も無かったかのように星が輝いていた。

その先に滝が見えた。
左右は灌木や松が点在する崖で囲まれている。
その下の大きな滝壺は龍神池と呼ばれている。

池の前にはいくつかの大きな岩がつき出ていた。
そのひとつに姫を降ろし、横たわらせる。市女笠は、先ほどの草むらに置いてきた。

袿の血のにじみが広がったようにも見える。
下の小袖は、さらに濡れているだろう。

姫は、岩の上に横たわったまま、震えていた。
獲物の最後を何度も見てきたイダテンの目には危険な兆候に思えた。
急がねばならない。

懐から紐を通した花緑青色の勾玉を引き出し、首からはずす。
結局、これに頼ることになった。

その勾玉を突き上げ、池に向かって大声で呼びかけた。

「龍よ! 龍神池に棲む龍よ、阿岐国の龍神よ! おるなら、その姿を見せよ。わが名はイダテン! シバの息子じゃ。十余年前にシバとかわした約定を憶えておるか」

雲が流れ、月の光が足元を照らす。
と、滝が巻き起こす風に吹かれ、ゆるやかに波打っていたすすきや枯草も、ぴたりと動きを止めた。
星さえも瞬きを止めた。

いつの間にか音も消え、しんと静まり返ったものの、何事も起こらない。

あきらめかけたその時、池の中心から、ごぼごぼと大きな泡が湧きだした。

水面が大きく盛り上がり、ゆっくりと姿を現した巨大な影が、イダテンと姫の前にそそり立ち、月を覆い隠した。
天辺から滝のように水が流れ落ちた。
水に濡れた鱗が月の光を跳ね返し、水しぶきは水晶のように輝いた。

池は津波のように荒れ狂い、水が岸辺に打ち寄せる。
イダテンとささらが姫もしぶきをあびた。

一滴一滴が石つぶてのように打ちつけてくる。
水は痛いほどに冷え切っていた。

濡れた髭を震わせ、龍神が不機嫌そうにゆっくりと口を開いた。
「おまえか、わしの眠りをさまたげる者は」
地の底から聞こえてくるような腹に響く声だ。

イダテンは龍神を見上げ、挑むように口にした。
「父より譲り受けた願いの玉を持ってきた。取引がしたい」

龍神は、赤銅色の目を光らせ、射抜くような視線を送ってきた。
「大きな声で名乗らぬとて、その姿を見れば、おまえが誰かぐらいはわかる」

そして続けた。
「が、よもや、おまえがここに来るとはのう」

予期などできまい。
イダテン自身、思いもしなかったのだ。
三郎やミコに逢わなければ、足を運ぶことさえなかっただろう。

「この勾玉を使いたい」
イダテンは右手で勾玉をかかげて見せた。

「で、なにが望みだ」
 憐れむような目に変わった。

「何でも叶えてくれるのか?」
「それは礼にやったものだ。シバは失せものを探すのが得意でな……叶えられるのは、たったひとつ。失った力を取り戻す、ただ、それだけだ」

龍神は、一息置いて続けた。
「手ひどい傷を負っておるようだが、命を救うことはできぬ……」

その言葉に落胆した。

だが、望みはある。
「それなら……」 
と、言いかけたイダテンを龍神が制した。

「最後まで聞け。その勾玉は、わしを呼び出すための道具にすぎぬ。願いを叶えてほしければ、代わりに命をひとつ差し出さねばならん……その覚悟のないものに、その勾玉を持つ資格はない」

龍神は、性根を試すかのようにイダテンを睥睨してきた。
答えは決まっている。

「それは、おばばから聞いた。命との引き換えを一日だけ待ってくれるということも」
「ならば話は早い……その人間の命でよいのだな?」

何を言われているのかわからなかった。
龍神の目は、横たわる、ささらが姫に注がれていた。

姫は、その気配を感じたように閉じていた目を開き、青白い顔をわずかにイダテンのほうに向け口を開いた。
だが、その声はあまりにも力がなく、イダテンの言葉にかき消された。

「おれだ!」
膨れ上がった怒りを抑えることができなかった。
龍神をにらみつけた。
「鬼の命では不足だというか?」

龍神は、あきれたように訊いてきた。
「人間のために命を捧げようと言うのか?」
「捧げるのではない。使うのじゃ」
「おなじことよ」

「ならば龍神……なぜ、おれはここにおる? 生まれてきたは何のためじゃ?」
「わしを相手に、禅問答を始めるつもりか?」
「答えよ龍神」

怒らせてよい相手ではない。
わかってはいるが言葉が口をついて出た。

「もはや、おまえには守るべきものなどないと思っていたが」
龍神は、髭を震わせた。
「つまらぬ世なら、自らの手で変えたらどうじゃ。手始めに隣国の夜盗、山賊あたりを従えれば面白くなろう」

その目が光ったように見えた。

「その昔、人の力を遥かに凌駕する異形のものは、畏れ、敬われたものだ。立場をわきまえぬ人間どもに思い知らせてやればよいものを」

愚か者のやることだ。
だが、一刻を争うこの時に、問答を吹っ掛ける行為も賢明とは言えない。
「人と関わる気はない」
その答えに、龍神は笑ったように見えた。

それには構わず姫の様子をうかがった。
胸が小さく上下しているのを見て安堵する。
痛みどめが効いてきたのか、わずかではあるが表情から険しさが消えたように見える。

龍神を見上げた。
「おれの足を動くようにしてくれ」
「それが望みか?」
「命を救えぬというなら、それしかあるまい」

龍神の目が細められたようにみえた。
「もうひとつ、方法がある」
その視線の先には姫の姿があった。

「何やら面白いものを持っておるではないか」
「……何のことじゃ」
口にしてから、姫に渡した緋色の勾玉のことだと気がついた。
その透きとおった勾玉が揺らいだように見えた。

「あるとは聞いておったが、見るのは初めてじゃ」
「あれに使い道があると言うか?」
「あの勾玉には、強き魂が宿っている」
おばばからは、母の形見としか聞かされていない。

「まことか?」
「礼儀を知らぬこわっぱだ。誰に向かって言っておる」
そういいながらも腹を立てた様子はなかった。
むしろ、愉しげな口ぶりである。

「それを、その死にかけている人間に入れてやればよい……手当てさえ必要ないだろう。それほど強き力を持っておる」
形見の勾玉で命を救える、というのか。

だが、叶えられる願いはたったひとつ。
ここで姫が回復したところで、隆家の邸までたどり着ける足がなければ意味がない。

「渡せる命はひとつしかない」
イダテンの答えに、龍神は面白そうに答えた。
「ひとつでよい」

どうなるのか見たいということか――だが、含みがある。
言葉にも切れがない。
なにより、気前がよすぎる。

「何を隠しておる」
そう口にして、気がついた。
「……人の魂ではないな?」

「ただ、ただ、誰かを助けたい、という思念だけで、この世にとどまっておる。長い年月でそれが誰だったか……おのれが何者で、どうすればそれができるかもわからずに……ゆえに、その身を乗っ取られることもあるまい」

龍神は言葉を濁した。
正鵠を射たのだ。

だが、異形の魂であれば、人とは比べ物にならぬほどの生命力があろう。
ならば姫を救うことができる。
三郎の無念を、わずかでも晴らすことができる。

――が、疑念がわいた。

それほどの珠玉を、母は、なぜ自分のために使わなかったのだろう。
都から来た陰陽師さえ、赤子扱いしたという母といえど、魂を操るすべを持たなかったのか。

それとも――

「それは……」
この魂を受け入れれば命は助かるのだろう。

――だが、
「……それは、人ではなくなると言うことだな?」
「おそらく、人を遥かに凌駕する力も同時に手に入れることになろう」

「だめだ!」
おもわず叫んでいた。
それでは人とは呼べない。

「これから走ったところで間に合わぬかも知れぬぞ」
「かまわぬ」
迷いなく答えた。
そのときは苦しまぬよう、わが手で首を刎ねてやるまでだ。

      *

「イダテン、わたしは……」
姫がようやく絞りだした声もイダテンには届かない。
続けて言葉を発する力もないようだ。

龍神にはわかった。
その珠玉がどのようにしてつくられたかが。
それほどの、思念が、その珠玉にはこもっている。 

     *
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