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七夜目・ほほえみのレディ 其の一
しおりを挟む夜にだけ開く相談室に集まるのは、いずれも奇妙な相談ごとばかりだ。
それは例えば「とある猫の口説き方を教えてほしい」であったり、「家族の夢枕に立つ方法を一緒に考えてほしい」であったり。中には、「どうしても思い出せない大切な人の名前を教えてほしい」というものまであったりする。
本日相談室に寄せられた相談も、例に漏れずおかしなものだった。
「絵画の少女を笑わせたい?」
僕がおうむ返しに尋ねれば、ナノカと名乗った少女は大きく頷く。
本日の相談者は3年4組の生徒。はつらつとした笑顔と力強い眼差しが特徴的な女の子だ。どうやら陸上部のエースらしく、彼女が相談室に向かって走ってくるのを見たときは旋風が迫ってくるようだと思ったほどだった。
そんな健脚な少女は、席に案内するや否や先程の相談を切り出したのだった。
「ええと……絵に描かれた人物を笑わせたいっていうこと? 一体なんでそうなったのか、教えてほしいな」
僕がやんわりと尋ねれば、ナノカちゃんはこんなことを尋ね返してくる。
「つぐみ先生さ、『ほほえみのレディ』って知ってっか?」
「……ほほえみのレディ?」
「それなら知ってるよ。美術室に展示している、卒業生が描いた作品だ。花模様の着物を着た少女が微笑んでいる絵だと聞いているけれど……」
聞いたことないと戸惑っていると、ひたき兄さんがこっそり耳打ちしてくた。どうやら彼女が言っている絵はそれで合っていたようで、ナノカちゃんは嬉しそうに膝を叩く。
「そう、その絵! あたし、ゲージュツとかはよくわかんねーけど絵を見るのが好きでさ。放課後によく美術室に行って鑑賞してんだ」
僕は最近美術室に行くことが少ないので、そんな絵があることは知らなかった。ナノカちゃんの反応はとても誇らしげなもので、余程その絵が好きなのだろうと察する。だけど彼女は一転して真剣な顔で、そのほほえみのレディが問題なのだと言った。
「ほほえみのレディっていうからにはさ、本来は笑っている絵のはずなんだよ。でも今、ほほえみのレディは笑っていないんだ」
「……笑っていない? 絵が変化したっていうこと?」
「そうそう。笑ってる美人の絵があるって聞いたから見に行ったのに、つめたーい表情ですまし顔してるんだ。確かに美人だったけど、あんな仏頂面じゃつまんねーよ」
だから笑わせてみたいんだとナノカちゃんは言う。噂で聞いた通りの笑顔が見たくて、彼女は色々な方法を試してみたそうだ。
「落語を聞かせたり、変顔したり、面白い話をしたり、あとはコントの動画を見せたり……でも全然だめなんだ。くすりとも笑わねーの。なあ、なんかいい方法ないかな?」
無茶振りに僕達は顔を見合わせる。絵に描かれた人物を笑わせる方法なんてわかるはずがない。これはなかなかに難題だ。
「……まあ、とにかく一度その絵を見に行ってみようかな。実際に見てみないとなんとも言えないからね」
それでいいよね、と同意を求めればひたき兄さんは頷く。だけど僕が浮足立っているのに気付いたのだろう、少しだけ眉をひそめた。
「……つぐみ、もしかしてこれを口実にくいなに会おうとしてないかい?」
「えへへ、ばれた?」
「用がないなら絶対に美術室に来るなと言われていたはずだけど……大丈夫なのかな?」
「大丈夫大丈夫! 仕事の一環で訪ねるだけなんだから、文句は言えないでしょ♡」
久々に弟を構いに行けることが嬉しくて鼻歌交じりに立ち上がれば、ひたき兄さんは呆れ顔で僕に続く。
「……また構いすぎてへそを曲げられても知らないぞ」
そんなひたき兄さんのぼやきを無視して、僕は意気揚々と相談室を出るのだった。
ひたき兄さんとナノカちゃんを引き連れ、美術室に辿り着くと、丁度部活が終わったところだったのか生徒達が出てくるところだった。
「あ、つぐみ先生! ひたき先生も!」
「やっほー。くいなは居る?」
こちらに気付いた部員達に手を振れば、まだ中に居ますよと微笑まれる。お礼を言って部室を覗き込めば、そこには絵の具で汚れた白衣を翻して後片付けに追われる弟の姿があった。
「くいな~♡ お兄ちゃんだよ♡」
猫撫で声で呼べば、こちらに気付いたくいなが露骨に嫌そうな顔をする。彼は慌てて逃げ出そうとしたが、それを許す僕ではなかった。瞬時に駆け寄って、その体を思いっきり抱き締めたのだ。
「よしよし、くいなは今日も可愛いな~♡」
「ちょっと、放せ、放せって! このブラコン!!」
全力で嫌がるくいなを猫可愛がりすれば、ナノカちゃんがぽかんとした顔で僕とくいなを見比べる。同じ顔が並んだ光景に、彼女は唖然としたようだった。
「そういえば、美術部の顧問ってつぐみ先生達の弟だったっけ! すっげー、ほんとに同じ顔!」
でもなんかあれだな。同じ顔が三人も居ると絵面がやばいな。興奮しきった様子で失礼なことをのたまう生徒に、くいなは盛大に顔をしかめる。なんでここに来たんだと睨みつけてくるが、僕は素知らぬ顔で流した。
「……ひたき兄さん! なんでつぐみ兄さんを連れてきたんだよ! 用もないのに来るなって言ってあっただろ!?」
僕相手じゃ埒が明かないと思ったのか、くいなはひたき兄さんに噛みつく。ひたき兄さんは困った顔で苦笑いしながら、不機嫌な末弟をやんわりとなだめた。
「すまないね。これでも一応つぐみの仕事の一環で来ただけなんだ。許してやってくれないか?」
「……つぐみ兄さんの仕事?」
スクールカウンセラーが、美術室なんかになんの用だ。そう言いたげに眉をひそめたくいなは、うろんげに僕を一瞥した。
「ほら、つぐみ。弟が可愛いのはわかるけど、おふざけはそれくらいにしなさい。僕達はほほえみのレディを見に来たんだろう?」
べりっと強引にくいなから引き剥がされ、僕はふてくされる。だけど、くいなはひたき兄さんの言葉にますます困惑したようだった。
「ほほえみのレディ? あの絵になんの用があるんだ?」
「大ありだよ。彼女がね、ほほえみのレディを笑わせたいって言うんだ」
僕の言葉を受け、ナノカちゃんがその通りと胸を張る。
くいなはそれを聞いて、未知の料理を口にしたときのような物凄い顔で絶句するのだった。
「……一体なにが目的なのかはわからないけれど、これがそのほほえみのレディだよ」
苦い顔をしたままのくいなが、僕達を美術室のある一角に先導する。
壁に掛けられたそのキャンバスに描かれていたのは、噂通り、花模様の着物を身にまとった一人の少女だった。
「これが……ほほえみのレディ?」
それは芸術に疎い僕でも思わず見入ってしまうような、魅力に満ちた絵だった。人の手で描かれたということが信じられないほど緻密で、けして色鮮やかでないのに、不思議と目を惹く華やかさがある。通りすがり、気付いたら目で追ってしまっているような、そんな神秘的な雰囲気がある絵だった。
描かれている少女は、濡れたような黒髪をきっちりとまとめてこちらに視線を投げかけている。真面目過ぎると思うくらい姿勢正しく椅子に腰かけ、隙の無い凛とした佇まいはまさしく淑女という言葉がよく似合うと思った。涼しげな切れ長目が色香を放つ、とても綺麗な少女だった。
だけど、この少女の姿は、与えられたタイトルにはあまりにそぐわないものだった。
何故なら彼女は、冷徹さを感じるほどのすまし顔で絵の中に佇んでいたのだから。
「……この絵、元々は笑っていたって聞いたけど」
僕が確認すれば、くいなはあっさりとそれを肯定する。
「ああ、そうだよ。ほほえみのレディというタイトルの通り、完成した当初は少女が笑っている絵だったんだ」
美術部の顧問ということもあって、くいなはこの絵のことをよく知っているようだった。なら一体どうして笑わなくなったのだと尋ねようとした僕は、しかしナノカちゃんの威勢のいい宣言で閉口する。
「よっし! じゃあ、もう一度挑戦してみよっかな! つぐみ先生、ひたき先生、こいつを笑わせるのを手伝ってくれよ!」
ナノカちゃんはイキイキとスマホを取り出し、落語やシュール動画などありったけの面白いものを検索する。くいなはそんなナノカちゃんの行動にぎょっとしたあと、心底不快そうに顔をしかめた。
「……くいな?」
弟の反応を不審に思って顔を覗き込めば、なんでもない、と不機嫌そうに吐き捨てられる。
だけどその目は、ほほえみのレディを笑わせようと奮闘するナノカちゃんに注がれたままだった。
「っだー! 全然ダメだ!」
ナノカちゃんが盛大にひっくり返ったのを見て、僕とひたき兄さんも肩を落とす。
あれから一時間、僕達はありとあらゆる方法でほほえみのレディを笑わせようとした。山程コントの動画を見せたり、知人から聞いた面白い話を披露したり、筆の穂先でくすぐってみたり。だけど結果は惨敗で、ほほえみのレディはにこりとも笑わなかった。
「……これ、本当に意味があるのかな……」
ひたき兄さんが虚ろな目で零す。確かに、絵に描かれた少女を笑わせようとするだなんて冷静に考えたら正気じゃないだろう。
「僕は……僕は一体なにをやって……」
「しっ、ひたき兄さん! 我に返っちゃだめだ!」
ノイローゼになりかけているひたき兄さんと、彼を慌ててなだめる僕。そんな兄達の様子を見守っていたくいなは、呆れたように溜息をついた。
「……さっきから黙ってみていれば、君、まだ諦めていなかったのか。毎日毎日やってきて、本当に懲りないな。おまけに兄さん達まで連れてくるなんて……」
どうやらくいなは、ナノカちゃんがほほえみのレディを笑わせようとしていることを知っていたらしい。ナノカちゃんは毎日美術室を訪れていたというし、確かに顧問であるくいながそれを把握していてもおかしくはないだろう。だけどくいなの表情は険しく、ナノカちゃんの行動を快く思っていないようだった。
「一つ訊いていいかい。なんで君はそこまでして、ほほえみのレディを笑わせたいんだ」
くいなの問いに、床に寝転がっていたナノカちゃんは起き上がって胸を張る。
「そんなん決まってるだろー? つまんないからだよ! せっかく美人なんだからさ、笑ってないと勿体ないじゃん!」
実にシンプルな、潔さすら感じる動機。しかしそれを聞いたくいなは渋面を作り、素っ気なく吐き捨てた。
「……やっぱりそんなことか。つぐみ兄さん、こんな相談聞くことないよ」
突然の宣言に驚いたのは、ナノカちゃんだけでなく僕も同じだった。どうしてそういうことを言うんだと狼狽えれば、くいなはつんとそっぽを向く。
「こんな相談ってなんだよ。あたしは真剣なんだけど」
ナノカちゃんは唇を尖らせたが、くいなの返答は刺々しいものだった。彼はナノカちゃんを見据えたまま、言い聞かせるように淡々と告げる。
「好奇心旺盛なのは結構だけれど、ほほえみのレディからしたらいい迷惑だよ。つまらないからなんてくだらない理由で笑わせようだなんて身勝手すぎやしないか」
「こ、こら、くいな……!」
ひたき兄さんが慌てて止めようとしたが、くいなはそれを遮って畳みかける。
「絵にだって心があるんだ。心が動かなければ、笑顔になんてならないよ。ただの興味本位ならもうやめたほうがいい。……もっとも、心から彼女に向き合いたいって言うのなら、僕は止めないけど」
くいなの厳しい言葉に、ナノカちゃんはショックを受けた顔で黙り込む。
どうしてこんなにくいなが怒っているのかわからなくて、僕とひたき兄さんは戸惑うことしかできないのだった。
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