燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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現実を見た者と夢を描き続ける若人2

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「先生は、一回デビューを経験しているでしょう? 小説家として食べていこうとは思わなかったんですか? ……それがどうしても知りたくって」

 ああ、と低く響く声で言った赤坂先生は、少し時間をかけて考えた後、絞り出すようにして、僕に説明をする。

「うーん。俺も実は最初の方は小説で食っていこうと思ってなんだよなあ。でも見事に挫折した」
「挫折?」

 その言葉が僕にはぴんと来なかった。

「ああ、俺には才能がなかったんだよ」

 それはいくらなんでもおかしい。だって、赤坂先生はちゃんとデビューをしているのだから。僕は食ってかかる様に、言葉を勢いよく口から吐き出す。

「でも、僕。先生が小説家だって知ってから、電子書籍で調べて先生の本を読んだんですけど、比喩表現が印象的で! あと、展開がドラマチックなのに、登場人物の感情が事細かに書かれているところがすごくいいなあって思って僕も、こんな文章書きたいと思いましたよ?」

 食い気味に、捲し立てるように褒めると、赤坂先生は照れたような表情を見せる。

「ははは。褒めてくれて嬉しいよ。確かに俺は物語としてそのまま成立していることを文章に書き表すのはうまかったかもしれないな。でもな、名岡。小説家でい続けるために必要なのは、文章の巧さじゃない」
「運……とかですか?」
「まあ、運も大事な要素ではあるな。でも、一番大切なのは書き続けられることだ」
「え……。それは小説家なんだから当たり前のことなんじゃないですか」
「それが、当たり前じゃないんだよなあ」

 赤坂先生は俯いて、静かに語り始めた。

「実は俺、高校卒業してから一年後に大学に入ったんだけど、その間、浪人をしていたわけじゃなくて、小説を書いてたんだ。……でも途中でこの道で食っていくのは無理だな、と判断して筆を折って大学に入り直した」
「……なんで小説家を諦めたんですか?」
「言っただろう? 才能がないって思ったから。それ以上でもそれ以下でもない」

 さっきも言った言葉だ。でも僕には赤坂先生がさす、才能という言葉の真意がよくわからない。

「才能って……。先生最年少で新文芸賞を取ったんですよね? そんな人が才能ないはずないじゃないですか?」
「残念ながらな、名岡。あの時の俺は現実をモチーフにした小説はいくら書いても同じテーマにしかならないんだよ」

 静かで染み入るような声だった。

「そもそも、俺が賞を取れたのは当時恋人が死んで、家族が離散して……。しっちゃかめっちゃかだった俺の実情をそのまま小説に落とし込んだだけだった。言わばあれは私小説だったんだ。でも、今の俺にはあの時以上のドラマは起こらない。あれ以上のものを求められても、書けないってくらい自分の全力を出し切ってしまったんだ」

 赤坂先生は自嘲したように笑う。

「でも、あいつは……周はなんのドラマなんかなくても、机の上にしがみついたままでも本物のドラマを書ける本物の小説家なんだ」
「それはわかります。あーさんの書く小説って、登場人物の息遣いすら感じるような、リアルで、すぐ隣で起こっていそうな話ばっかりですよね」
「そうそう……。そういう物語が頭の中で構想できて、サラッと……ではなくても必死になれば書けちゃう能力って、ずるいし怖いよなあ。で、本物の才能を見て、俺は打ちひしがれちゃったわけ。あ、俺に書き続けることは無理だわって」

 赤坂先生の気持ちはわかるけれど……。

「だからって、完全に諦めなくとも良かったと思うんですけど。構想はできなくとも、また身近に小説にすべき題材が転がり落ちて来るかもしれないし」
「そうだなあ……。それも選べなかったのが、俺のダメなところだと思うよ。教師になって、時間がないだとか、勉強しなくちゃいけないだとか、いろんなことを考えていたら、いつの間にか文章を書くために必要な勘みたいなものがするりと自分の体から抜け落ちていたんだ。気づいた時にはもう取り戻せなかったよ」

 僕は何もいえなかった。
 赤坂先生は、教師という職業を自分の仕事にするために多くの努力をしていたのだと思う。
 自分が今までしていたことを全部捨てて、新しい世界に飛び込むことはきっと勇気のいることだっただろう。彼の文学性に期待した沢山の人たちがそれを裏切りだと評しても。

 多分、今の赤坂先生は不幸じゃない。人生最高作のデビュー作を世に送り出せて、今はみんなに先生として慕われているのだから。

 でも、語る言葉の端々に小説家としての心残りのようなものを感じるのはなぜだろう。あーさんに心のどこかで嫉妬しているようにも聞こえる。
「名岡、お前の夢について、俺から一つだけ言えることがある。バスから降りなければ、いつか夢にたどり着けるよ」

 そのアドバイスにはどんな人間でも腑に落ちてしまう、確実な実体験が詰まっているように聞こえた。

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