燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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父の命日と感傷的な金木犀5

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 少し休んだら、歩けるようになったので、今日はタクシーは使わずに、歩いて病院に行く。

 あーさんは調子が悪い時は迷わずタクシーを使え、と言ってくれるけど、僕はそんなもののためにお金を使いたいとは思わない。

 だって、僕、すっごく医療費かかるし。
 コスパ、最悪。

 いつものようにかかりつけの病院に行って、倒れたので、一応きました、と告げると、医師はそうですか、といつもの調子でいう。

 もう僕の体の調子の悪さは医者も知っていることなので、特に検査もしない。
 頭を打ってないか、打撲痕の有無で確認して、常備薬が切れていないか確認されて、ないものだけ追加でもらう。
 以上。

「せめて学生が終わる頃には体が丈夫になってるといいねえ」

 医師の言葉は呑気に響く。僕の体の弱さは治そうと手を尽くしても、無駄だということがよくわかる無気力な響きだった。

「そうですね。こればっかりはどうにもなりませんからね」

 僕も気怠げに返すことしかできない。



 ゆっくり、時間をかけて病院から家に帰ったはずなのに、病院と家が近いせいで、すぐに家に着いてしまう。
 太陽はまだ、真上に近い部分にあるこの時間。あーさんはきっと筆がやっと乗ってきたところだろう。

 そんなことを思い始めると、なんだか今日は早退になってしまったことが後ろめたくなってくる。せめて迷惑にならないようにと、静かに音を立てないように鍵を開け自宅マンションのドアを開けた。

 あーさんが今年愛用している丸みのある革靴がきちんと並べられて置いてあるところを見るとあーさんは部屋に入るらしい。

 なのに部屋が恐ろしいほどに静かだった。いつもはうるさいほど響いているあーさんのパソコンのタイピング音とアーサンお気に入りのジャズミュージックが聞こえない。その代わりに、ずっずっと鼻水をすするような鳴き声が聞こえる。

 うそ。あーさん、泣いてるの?

 この家に住み始めてから、あーさんが泣いたところなんて一度も見たことがない。

 いつも、あーさんは不機嫌さは顔に滲ませることはあっても、その瞳を濡らすことなんてないのだ。
 どうして、なんで泣いているの? 焦るような気持ちと、その真相が知りたくて逸るような気持ち。

 いろんな気持ちが合わさって、かき混ぜられるような心をなんとか落ち着かせて、ドアをゆっくりと慎重に閉める。

 そのまま、抜き足差し足で廊下を進む。まだ、あーさんの嗚咽は止んではいない様子からして、あーさんは僕が帰ってきたことに気がついていない。

 ドアが閉まる音にも気が付かないなんて、どれだけ必死に泣いているんだろう。何がそんなにあーさんの心を埋め尽くしているんだろう。
 僕はそれをどうしても知りたくて、息を顰めて、あーさんの口から漏れる嗚咽を聞き取ろうとする。 

「ヒトカズさん……。なんであんたは死んだんですか?」

 ヒトカズ。仁和。それは紛れもなく、僕の父親の名前だった。

 あ。

 僕の頭の中で全てが繋がったような気がした。

 ロクデモナイ人と付き合っていた、と言っていたあーさん。

 あなたのお父さんは私のことなんて、ちっとも愛していないのよ。他に大好きな人がいるのよ、と囁いた僕の母親。

 葬式中、僕の顔を見て、動揺を隠し切れなかったあーさん。

 ——ああ、そっか。あーさんとお父さんは付き合っていたんだ。

 理解は一瞬だった。
 要は、今もあーさんの心を、お父さんは占領しているってことでしょ?

 なんでそれがこんなに苦くて苦しくて、切ないんだろう。
 どうやら僕の恋のライバルは死んだ自分の父親だったらしい。
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