5 / 29
姉の許嫁だった人1
しおりを挟む
その日、僕は忘れ物を届けるために修一朗さんの部屋に向かっていた。気づいたのは昨日の夕食後で、椅子の上にあったのはハンカチだった。おそらく夕方までそこに座っていた修一朗さんのものだろう。すぐにわかったけれど、夜遅くに部屋を訪ねるのは憚られたので翌朝届けることにした。
(それにしても、よく忘れ物をするような)
あんなにしっかりした人なのに意外とうっかり者なんだろうか。そんなことを思いながら廊下を歩く。
(庭に沿った廊下を真っ直ぐ進んで、次の角を曲がって……)
初めて修一朗さんの部屋に入ったのは二週間ほど前だった。庭を散歩したあと「僕の部屋のほうが近いから」と言って誘われた。そのとき緑茶とどらやきをいただいたけれど、緊張しすぎて味がどうだったか覚えていない。
その後、「迷子になったら大変だからね」と言って部屋まで送ってもらった。部屋に到着する直前で「せっかくだから、僕の部屋までの道順を教えておこうか」と言われ、僕の部屋に戻ってからもう一往復することになった。
(教えてもらった道順だと、少し遠回りのような気がするような……どうしてだろう)
珠守の屋敷のことはわからないけれど、寳月の家を思い出すと随分外側を歩いているような気がする。とくに庭に面した廊下は母屋の端のほうにあるはずだから、ここを通るだけで遠回りになるに違いない。
「千香彦様、おはようございます」
「お、おはようございます」
廊下を曲がったところで現れたのはお手伝いさんだった。珠守家のお手伝いさんはみんな同じ洋装をしていて、人数も多いからなかなか顔を覚えることができない。声をかけてくれたということは、もしかして僕の部屋を掃除してくれる人だったんだろうか。そう思って振り返ったけれど、お手伝いさんの姿はもうなかった。
(僕に挨拶なんて、別にいいのに)
それに「千香彦様」なんて呼ばれると恐縮してしまう。寳月の家では滅多に名前を呼ばれることがなかったから変な感じもした。慣れたほうがいいのかもしれないけれど、そんな日が来るとも思えない。
そんなことを思いながら角を曲がると修一朗さんの部屋が見えた。
(……もう、訪ねても大丈夫だよな)
朝食を取ってからたっぷりと一時間は経っている。念のため朝食を用意してくれたお手伝いさんに修一朗さんのことを尋ねたら、今日は昼まで部屋にいると教えてくれた。
ハンカチを手にし、すぅっと息を吸ってからコンコンとドアを叩く。
「どうぞ」
返ってきた声を聞くだけで胸がトクンと鳴った。……駄目だ、いつもどおりの顔をしていなければ気持ちを悟られてしまうかもしれない。そう思い、小さく深呼吸してからドアを開ける。
「千香彦くん」
いつもどおりのシャツにベスト、ズボン姿の修一朗さんはとても素敵だった。タイを着けていないからか、寳月家で見ていたときよりもずっと柔らかい印象を受ける。
「朝からお邪魔して申し訳ありません」
「かまわないよ。それに千香彦くんなら大歓迎だ」
そんなことを笑顔で言わないでほしい。せっかく深呼吸をして落ち着かせたのに、心臓の音が修一朗さんにまで聞こえやしないかと心配になってくる。
「昨日、こちらを部屋にお忘れでしたよ」
「あぁ、またやってしまったな。いつもありがとう、助かるよ。お礼にココアはどうかな? ちょうど今朝、注文していたものが届いたんだ」
「ありがとうございます。いただきます」
ハンカチを受け取った修一朗さんが、そのままワゴンの前に立った。そうしてココアの容器を開けながら「おいしいと評判のココアなんだ」と教えてくれる。
僕は小さく深呼吸をしながら小振りなテーブル前の椅子に座り、そっと修一朗さんの背中を見た。
(本当に、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう)
珠守家に来てから一カ月余りが経った。毎日顔を合わせる修一朗さんとは以前よりずっと親しくなったと思う。いろんな話をするし、庭の散歩も週末の恒例になってきた。
それに、最近では着物や洋服まで届けてくれるようになった。さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないと思ってやんわり断ったけれど、悲しそうな顔をされて結局受け取ることになってしまった。
せっかくだからと散歩のときに着ると「よく似合うよ」と笑顔で褒めてくれる。「僕の見立てで着てもらえるか不安だったんだ」とはにかむような表情で告げられたときは、真っ赤になった顔を見られたくなくて慌てて俯いたくらいだ。
(修一朗さんはいつも優しい。だけど、本当は僕のことをどう思っているんだろう)
(それにしても、よく忘れ物をするような)
あんなにしっかりした人なのに意外とうっかり者なんだろうか。そんなことを思いながら廊下を歩く。
(庭に沿った廊下を真っ直ぐ進んで、次の角を曲がって……)
初めて修一朗さんの部屋に入ったのは二週間ほど前だった。庭を散歩したあと「僕の部屋のほうが近いから」と言って誘われた。そのとき緑茶とどらやきをいただいたけれど、緊張しすぎて味がどうだったか覚えていない。
その後、「迷子になったら大変だからね」と言って部屋まで送ってもらった。部屋に到着する直前で「せっかくだから、僕の部屋までの道順を教えておこうか」と言われ、僕の部屋に戻ってからもう一往復することになった。
(教えてもらった道順だと、少し遠回りのような気がするような……どうしてだろう)
珠守の屋敷のことはわからないけれど、寳月の家を思い出すと随分外側を歩いているような気がする。とくに庭に面した廊下は母屋の端のほうにあるはずだから、ここを通るだけで遠回りになるに違いない。
「千香彦様、おはようございます」
「お、おはようございます」
廊下を曲がったところで現れたのはお手伝いさんだった。珠守家のお手伝いさんはみんな同じ洋装をしていて、人数も多いからなかなか顔を覚えることができない。声をかけてくれたということは、もしかして僕の部屋を掃除してくれる人だったんだろうか。そう思って振り返ったけれど、お手伝いさんの姿はもうなかった。
(僕に挨拶なんて、別にいいのに)
それに「千香彦様」なんて呼ばれると恐縮してしまう。寳月の家では滅多に名前を呼ばれることがなかったから変な感じもした。慣れたほうがいいのかもしれないけれど、そんな日が来るとも思えない。
そんなことを思いながら角を曲がると修一朗さんの部屋が見えた。
(……もう、訪ねても大丈夫だよな)
朝食を取ってからたっぷりと一時間は経っている。念のため朝食を用意してくれたお手伝いさんに修一朗さんのことを尋ねたら、今日は昼まで部屋にいると教えてくれた。
ハンカチを手にし、すぅっと息を吸ってからコンコンとドアを叩く。
「どうぞ」
返ってきた声を聞くだけで胸がトクンと鳴った。……駄目だ、いつもどおりの顔をしていなければ気持ちを悟られてしまうかもしれない。そう思い、小さく深呼吸してからドアを開ける。
「千香彦くん」
いつもどおりのシャツにベスト、ズボン姿の修一朗さんはとても素敵だった。タイを着けていないからか、寳月家で見ていたときよりもずっと柔らかい印象を受ける。
「朝からお邪魔して申し訳ありません」
「かまわないよ。それに千香彦くんなら大歓迎だ」
そんなことを笑顔で言わないでほしい。せっかく深呼吸をして落ち着かせたのに、心臓の音が修一朗さんにまで聞こえやしないかと心配になってくる。
「昨日、こちらを部屋にお忘れでしたよ」
「あぁ、またやってしまったな。いつもありがとう、助かるよ。お礼にココアはどうかな? ちょうど今朝、注文していたものが届いたんだ」
「ありがとうございます。いただきます」
ハンカチを受け取った修一朗さんが、そのままワゴンの前に立った。そうしてココアの容器を開けながら「おいしいと評判のココアなんだ」と教えてくれる。
僕は小さく深呼吸をしながら小振りなテーブル前の椅子に座り、そっと修一朗さんの背中を見た。
(本当に、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう)
珠守家に来てから一カ月余りが経った。毎日顔を合わせる修一朗さんとは以前よりずっと親しくなったと思う。いろんな話をするし、庭の散歩も週末の恒例になってきた。
それに、最近では着物や洋服まで届けてくれるようになった。さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないと思ってやんわり断ったけれど、悲しそうな顔をされて結局受け取ることになってしまった。
せっかくだからと散歩のときに着ると「よく似合うよ」と笑顔で褒めてくれる。「僕の見立てで着てもらえるか不安だったんだ」とはにかむような表情で告げられたときは、真っ赤になった顔を見られたくなくて慌てて俯いたくらいだ。
(修一朗さんはいつも優しい。だけど、本当は僕のことをどう思っているんだろう)
69
あなたにおすすめの小説
借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
白金の花嫁は将軍の希望の花
葉咲透織
BL
義妹の身代わりでボルカノ王国に嫁ぐことになったレイナール。女好きのボルカノ王は、男である彼を受け入れず、そのまま若き将軍・ジョシュアに下げ渡す。彼の屋敷で過ごすうちに、ジョシュアに惹かれていくレイナールには、ある秘密があった。
※個人ブログにも投稿済みです。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
うそつきΩのとりかえ話譚
沖弉 えぬ
BL
療養を終えた王子が都に帰還するのに合わせて開催される「番候補戦」。王子は国の将来を担うのに相応しいアルファであり番といえば当然オメガであるが、貧乏一家の財政難を救うべく、18歳のトキはアルファでありながらオメガのフリをして王子の「番候補戦」に参加する事を決める。一方王子にはとある秘密があって……。雪の積もった日に出会った紅梅色の髪の青年と都で再会を果たしたトキは、彼の助けもあってオメガたちによる候補戦に身を投じる。
舞台は和風×中華風の国セイシンで織りなす、同い年の青年たちによる旅と恋の話です。
当たり前の幸せ
ヒイロ
BL
結婚4年目で別れを決意する。長い間愛があると思っていた結婚だったが嫌われてるとは気付かずいたから。すれ違いからのハッピーエンド。オメガバース。よくある話。
初投稿なので色々矛盾などご容赦を。
ゆっくり更新します。
すみません名前変えました。
愛のない婚約者は愛のある番になれますか?
水無瀬 蒼
BL
Ωの天谷千景には親の決めた宮村陸というαの婚約者がいる。
千景は子供の頃から憧れているが、陸にはその気持ちはない。
それどころか陸には千景以外に心の決めたβの恋人がいる。
しかし、恋人と約束をしていた日に交通事故で恋人を失ってしまう。
そんな絶望の中、千景と陸は結婚するがーー
2025.3.19〜6.30
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる