身代わりβの密やかなる恋

朏猫(ミカヅキネコ)

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姉の許嫁だった人1

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 その日、僕は忘れ物を届けるために修一朗さんの部屋に向かっていた。気づいたのは昨日の夕食後で、椅子の上にあったのはハンカチだった。おそらく夕方までそこに座っていた修一朗さんのものだろう。すぐにわかったけれど、夜遅くに部屋を訪ねるのは憚られたので翌朝届けることにした。

(それにしても、よく忘れ物をするような)

 あんなにしっかりした人なのに意外とうっかり者なんだろうか。そんなことを思いながら廊下を歩く。

(庭に沿った廊下を真っ直ぐ進んで、次の角を曲がって……)

 初めて修一朗さんの部屋に入ったのは二週間ほど前だった。庭を散歩したあと「僕の部屋のほうが近いから」と言って誘われた。そのとき緑茶とどらやきをいただいたけれど、緊張しすぎて味がどうだったか覚えていない。
 その後、「迷子になったら大変だからね」と言って部屋まで送ってもらった。部屋に到着する直前で「せっかくだから、僕の部屋までの道順を教えておこうか」と言われ、僕の部屋に戻ってからもう一往復することになった。

(教えてもらった道順だと、少し遠回りのような気がするような……どうしてだろう)

 珠守たまもりの屋敷のことはわからないけれど、寳月ほうづきの家を思い出すと随分外側を歩いているような気がする。とくに庭に面した廊下は母屋の端のほうにあるはずだから、ここを通るだけで遠回りになるに違いない。

「千香彦様、おはようございます」
「お、おはようございます」

 廊下を曲がったところで現れたのはお手伝いさんだった。珠守たまもり家のお手伝いさんはみんな同じ洋装をしていて、人数も多いからなかなか顔を覚えることができない。声をかけてくれたということは、もしかして僕の部屋を掃除してくれる人だったんだろうか。そう思って振り返ったけれど、お手伝いさんの姿はもうなかった。

(僕に挨拶なんて、別にいいのに)

 それに「千香彦様」なんて呼ばれると恐縮してしまう。寳月ほうづきの家では滅多に名前を呼ばれることがなかったから変な感じもした。慣れたほうがいいのかもしれないけれど、そんな日が来るとも思えない。
 そんなことを思いながら角を曲がると修一朗さんの部屋が見えた。

(……もう、訪ねても大丈夫だよな)

 朝食を取ってからたっぷりと一時間は経っている。念のため朝食を用意してくれたお手伝いさんに修一朗さんのことを尋ねたら、今日は昼まで部屋にいると教えてくれた。
 ハンカチを手にし、すぅっと息を吸ってからコンコンとドアを叩く。

「どうぞ」

 返ってきた声を聞くだけで胸がトクンと鳴った。……駄目だ、いつもどおりの顔をしていなければ気持ちを悟られてしまうかもしれない。そう思い、小さく深呼吸してからドアを開ける。

「千香彦くん」

 いつもどおりのシャツにベスト、ズボン姿の修一朗さんはとても素敵だった。タイを着けていないからか、寳月ほうづき家で見ていたときよりもずっと柔らかい印象を受ける。

「朝からお邪魔して申し訳ありません」
「かまわないよ。それに千香彦くんなら大歓迎だ」

 そんなことを笑顔で言わないでほしい。せっかく深呼吸をして落ち着かせたのに、心臓の音が修一朗さんにまで聞こえやしないかと心配になってくる。

「昨日、こちらを部屋にお忘れでしたよ」
「あぁ、またやってしまったな。いつもありがとう、助かるよ。お礼にココアはどうかな? ちょうど今朝、注文していたものが届いたんだ」
「ありがとうございます。いただきます」

 ハンカチを受け取った修一朗さんが、そのままワゴンの前に立った。そうしてココアの容器を開けながら「おいしいと評判のココアなんだ」と教えてくれる。
 僕は小さく深呼吸をしながら小振りなテーブル前の椅子に座り、そっと修一朗さんの背中を見た。

(本当に、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう)

 珠守たまもり家に来てから一カ月余りが経った。毎日顔を合わせる修一朗さんとは以前よりずっと親しくなったと思う。いろんな話をするし、庭の散歩も週末の恒例になってきた。
 それに、最近では着物や洋服まで届けてくれるようになった。さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないと思ってやんわり断ったけれど、悲しそうな顔をされて結局受け取ることになってしまった。
 せっかくだからと散歩のときに着ると「よく似合うよ」と笑顔で褒めてくれる。「僕の見立てで着てもらえるか不安だったんだ」とはにかむような表情で告げられたときは、真っ赤になった顔を見られたくなくて慌てて俯いたくらいだ。

(修一朗さんはいつも優しい。だけど、本当は僕のことをどう思っているんだろう)
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