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執務に一段落したアルスーンは書庫に行こうと考えた。いつも通る廊下ではなく、中庭を抜ける渡り廊下を通ることにしたのは偶然だった。
「や……」
耳に届いた小さな声はシャオティエンのものだ。アルスーンは、すぐさま漂ってくるΩの香りを辿り中庭にある四阿へと足早に向かった。
中庭のやや奥まったところにあるそこは、シャオティエンのお気に入りの場所だった。周囲に彼の国でもよく見かける植物が多く植えられているからだろうが、アルスーンの執務中はそこで過ごすことが多いという報告も受けている。
「やめ、」
「何をしている」
四阿には予想どおりシャオティエンがいた。しかし一人ではない。そばには軍服を着た男がいて白く細い手首を掴んでいる。
「か、閣下!」
男が慌てふためきながら敬礼した。シャオティエンは力が抜けたのか、そばにあった椅子にくたりと腰掛けている。その様子を見たアルスーンはわずかに眉を寄せ、それから軍服の男に視線を向けた。
「あの、これは」
「書類を拾い、仕事に戻れ」
「は、はい!」
地面に落ちていた書類を慌てて拾い上げた男は、もう一度敬礼し大慌てで走り去る。それを無言で見送ったアルスーンは改めてシャオティエンを見た。
緩やかに結ばれていた黒髪はわずかに乱れ、彼の国の衣装の胸元が少しばかり乱れている。軍服の男が何をしようとしていたのか一目瞭然の状態だ。
先ほど立ち去った男は、アルスーンに書類を届けに来た軍人だった。執務室で書類を受け取り、処理した別の書類を渡した際に二言三言言葉を交わした。下級貴族出身だという男は、終始尊敬の念を隠さない眼差しでアルスーンを見ていた。
「その香りはΩが発情したときの香りですね」
先ほどわずかに眉を寄せたのは、朝食のときには感じられなかった香りを感じたからだ。もし発情の兆候があればアルスーンが気づかないはずがない。ほんの数時間前には一切兆候がなかった香りがわずかに漂っている。
(αでないあの男が原因ではないだろう)
αなら強制的に発情を促すこともできるだろうが、そうでない人間にΩの発情を誘発することは難しい。そもそもαの上官がすぐそばにいる状況で、そういった薬を上官の伴侶相手に使うのは考えにくかった。
「何が目的ですか?」
アルスーンの問いかけに黒眼が上を向く。
「わたしの心配はしないのですか?」
「あなたから仕掛けたのでしょう? それなら自分に害が及ぶようなことまではしないはずです」
アルスーンの言葉にシャオティエンの口角がわずかに上がった。
「どこまでを害と考えるかは、人それぞれ」
そう言って立ち上がったシャオティエンの首に、ほんのわずか赤い痕が見えた。乱れた原因がそれだとわかり、アルスーンの緑眼がわずかに細くなる。
「王に散々なぶりものにされたこの身、もはやどこまでが害かなどわからぬものです」
「……何が目的ですか」
「目的は最初からただ一つだけ」
持ち上げられた腕から長い袖がしゅるりとすべり落ちる。顕わになった細い腕が、険しい表情を浮かべるアルスーンの首に絡みつくように回された。
「わたしはあなたがほしい。わたしだけのαにしたい。それなのにうなじを噛んでもらえない。それならばと、少しばかり強引なことを考えました」
「あの男を利用しましたか」
「αでなくとも、わたしの香りからは逃れられません。それに、Ωに初心な者ほど香りに流されやすいもの。あなたに謝りながらも手を伸ばす姿は憐れと思いましたが、あなたが噛んでくれないのが悪いのですよ?」
小さく笑うシャオティエンは、女神とも悪魔とも言いがたい美しさを放っていた。清純ながら蠱惑的で、あらゆる欲を刺激するような魅力も兼ね備えている。
(自分をわかっている者の姿だ)
そして、自分がどう動けば相手を惑わすことができるかもわかっている。相手がαだろうとそうでなかろうと、シャオティエンに惑わされない者などいないだろう。
細腕を引きはがしたアルスーンは、黒髪が乱れるのも構わず後頭部を掴み噛みつくように口づけた。頭一つ分ほど背丈が違うシャオティエンは、爪先立ちになりながらも倒れないようにと軍服の胸元を握り締める。
縋るような仕草に、アルスーンの腹の底がカッと熱くなった。漂っているΩの香りを吸い込むたびに体の芯が熱くなっていく。
「俺の嫉妬心を煽ろうとは」
唇を離し、触れそうな距離のまま低い声でそうつぶやいた。
「そうでもしなければ、あなたは本気になってくれません」
「嫉妬しないかもしれないとは思わなかったのですか?」
「あなたから強いαの香りが漂い始めていましたから、αの本能を剥き出しにするのはわかっていました」
「……なるほど」
ここのところ、やけに鼻についていた香りは自分の香りだったらしい。アルスーンは香りの原因にようやく思い至った。それを誘発していたのはシャオティエンだ。おそらくΩの香りを放つことで少しずつ発情を促そうとしたのだろう。
(Ωがαの発情を誘うとはな)
Ωの発情に引きずられることはあっても、Ωが意識してαを発情させるなど聞いたことがない。
口角を上げるシャオティエンを肩に担ぎ上げたアルスーンは、やや乱暴な足取りで屋敷の中へと戻った。驚く侍女たちに「しばらく部屋に人を近づけるな」と告げ、寝室のドアをぴしゃりと閉じた。
「や……」
耳に届いた小さな声はシャオティエンのものだ。アルスーンは、すぐさま漂ってくるΩの香りを辿り中庭にある四阿へと足早に向かった。
中庭のやや奥まったところにあるそこは、シャオティエンのお気に入りの場所だった。周囲に彼の国でもよく見かける植物が多く植えられているからだろうが、アルスーンの執務中はそこで過ごすことが多いという報告も受けている。
「やめ、」
「何をしている」
四阿には予想どおりシャオティエンがいた。しかし一人ではない。そばには軍服を着た男がいて白く細い手首を掴んでいる。
「か、閣下!」
男が慌てふためきながら敬礼した。シャオティエンは力が抜けたのか、そばにあった椅子にくたりと腰掛けている。その様子を見たアルスーンはわずかに眉を寄せ、それから軍服の男に視線を向けた。
「あの、これは」
「書類を拾い、仕事に戻れ」
「は、はい!」
地面に落ちていた書類を慌てて拾い上げた男は、もう一度敬礼し大慌てで走り去る。それを無言で見送ったアルスーンは改めてシャオティエンを見た。
緩やかに結ばれていた黒髪はわずかに乱れ、彼の国の衣装の胸元が少しばかり乱れている。軍服の男が何をしようとしていたのか一目瞭然の状態だ。
先ほど立ち去った男は、アルスーンに書類を届けに来た軍人だった。執務室で書類を受け取り、処理した別の書類を渡した際に二言三言言葉を交わした。下級貴族出身だという男は、終始尊敬の念を隠さない眼差しでアルスーンを見ていた。
「その香りはΩが発情したときの香りですね」
先ほどわずかに眉を寄せたのは、朝食のときには感じられなかった香りを感じたからだ。もし発情の兆候があればアルスーンが気づかないはずがない。ほんの数時間前には一切兆候がなかった香りがわずかに漂っている。
(αでないあの男が原因ではないだろう)
αなら強制的に発情を促すこともできるだろうが、そうでない人間にΩの発情を誘発することは難しい。そもそもαの上官がすぐそばにいる状況で、そういった薬を上官の伴侶相手に使うのは考えにくかった。
「何が目的ですか?」
アルスーンの問いかけに黒眼が上を向く。
「わたしの心配はしないのですか?」
「あなたから仕掛けたのでしょう? それなら自分に害が及ぶようなことまではしないはずです」
アルスーンの言葉にシャオティエンの口角がわずかに上がった。
「どこまでを害と考えるかは、人それぞれ」
そう言って立ち上がったシャオティエンの首に、ほんのわずか赤い痕が見えた。乱れた原因がそれだとわかり、アルスーンの緑眼がわずかに細くなる。
「王に散々なぶりものにされたこの身、もはやどこまでが害かなどわからぬものです」
「……何が目的ですか」
「目的は最初からただ一つだけ」
持ち上げられた腕から長い袖がしゅるりとすべり落ちる。顕わになった細い腕が、険しい表情を浮かべるアルスーンの首に絡みつくように回された。
「わたしはあなたがほしい。わたしだけのαにしたい。それなのにうなじを噛んでもらえない。それならばと、少しばかり強引なことを考えました」
「あの男を利用しましたか」
「αでなくとも、わたしの香りからは逃れられません。それに、Ωに初心な者ほど香りに流されやすいもの。あなたに謝りながらも手を伸ばす姿は憐れと思いましたが、あなたが噛んでくれないのが悪いのですよ?」
小さく笑うシャオティエンは、女神とも悪魔とも言いがたい美しさを放っていた。清純ながら蠱惑的で、あらゆる欲を刺激するような魅力も兼ね備えている。
(自分をわかっている者の姿だ)
そして、自分がどう動けば相手を惑わすことができるかもわかっている。相手がαだろうとそうでなかろうと、シャオティエンに惑わされない者などいないだろう。
細腕を引きはがしたアルスーンは、黒髪が乱れるのも構わず後頭部を掴み噛みつくように口づけた。頭一つ分ほど背丈が違うシャオティエンは、爪先立ちになりながらも倒れないようにと軍服の胸元を握り締める。
縋るような仕草に、アルスーンの腹の底がカッと熱くなった。漂っているΩの香りを吸い込むたびに体の芯が熱くなっていく。
「俺の嫉妬心を煽ろうとは」
唇を離し、触れそうな距離のまま低い声でそうつぶやいた。
「そうでもしなければ、あなたは本気になってくれません」
「嫉妬しないかもしれないとは思わなかったのですか?」
「あなたから強いαの香りが漂い始めていましたから、αの本能を剥き出しにするのはわかっていました」
「……なるほど」
ここのところ、やけに鼻についていた香りは自分の香りだったらしい。アルスーンは香りの原因にようやく思い至った。それを誘発していたのはシャオティエンだ。おそらくΩの香りを放つことで少しずつ発情を促そうとしたのだろう。
(Ωがαの発情を誘うとはな)
Ωの発情に引きずられることはあっても、Ωが意識してαを発情させるなど聞いたことがない。
口角を上げるシャオティエンを肩に担ぎ上げたアルスーンは、やや乱暴な足取りで屋敷の中へと戻った。驚く侍女たちに「しばらく部屋に人を近づけるな」と告げ、寝室のドアをぴしゃりと閉じた。
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