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2 彼の日常
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神崎優夜のことをたびたび思い返しながら、千尋はいつもどおりの日常を送っていた。朝起きたらパンと牛乳で朝ご飯を済ませ、それから少し早い時間に登校する。真面目に授業を受け、放課後になると第二音楽室でピアノを弾いてから帰宅した。そんな千尋がもともとクラスメイト以上の接点がない神崎と言葉を交わすことはなく、人気者の神崎が千尋に声をかけることもない。
(一目惚れなんて気のせいだよ……うん、気のせいだ)
それに、一目惚れの先にあるのが恋ならやはり一目惚れなんかしたら駄目だ。放課後、カバンに荷物を詰めながらそんなことを考える。
気持ちを切り替えるように第二音楽室に向かった。そうしていつもどおり窓を少しだけ開け、ピアノの前の椅子に座る。目を閉じるといくつかの曲が頭に浮かんだ。どれも軽快な曲ばかりで、千尋の眉がほんの少し寄る。
(これじゃまるで浮かれてるみたいだ)
そう思ったからか心がざわりとした。心弾むような気持ちが段々と重苦しくなっていく。相反する気持ちが混じり合い、ますます気持ちがざわざわとした。
(……落ち着かないと)
すぅっと息を吸い、ふぅと小さく吐き出す。
(今日はベートーベンかな)
ゆっくりと目を開けて鍵盤に指を載せた。そうして静かにゆっくりと音を奏で始める。
どの曲も好きだと思うものの、ベートーベンはほかと少し違う気がする。重苦しくて繊細でドラマチックで、たまに苦悩が滲み出ているようなところがいい。これは千尋の勝手なイメージで、本当のベートーベンがどんな人だったかは知らない。別に知りたいとも思わなかった。ただ、そう思うと自分を投影できるような気がして落ち着ける。
(弾ける曲は少ないけどね)
千尋が弾けるのは母親が弾いていた曲か、実際に教えてもらった曲だけだ。誰かに師事するわけでもないピアノは少し不恰好で歪だが、それがいいと千尋は思っている。誰かに聴かせることはないし、自分が満足できればそれでいい。
(自分のために弾くんだから、これで十分)
母親を忘れないために、そして母親を忘れるために、自分のために弾く。
右手の主旋律と左手の和音をゆっくりと奏でた。紡がれるのは静かな夜にそっと光るような月光の曲だ。
(もしも……もしも僕が恋をすることがあっても、こんなふうに静かで穏やかな恋がいい)
情熱的に求め合い、奪い合うような恋はしたくない。ただ静かにそこにあるような恋がいい。
(……でも、恋はそんな優しいものじゃない。だから僕は恋なんてしない)
不意に神崎の顔が頭に浮かんだ。一瞬だけ音がアクセントを付けたようにポンと強く鳴る。それに顔をしかめ、その後はまるで平たんな道のように第一章を引き続けた。最後の音が終わると「ふぅ」とため息にも似た吐息が漏れる。
(落ち着くために弾いたはずなんだけどな)
椅子から立ち上がった千尋は窓を閉めようと窓際に近づいた。ふと眼下に人影を見つけて「誰だろう?」と見つめる。
(あれは……神崎だ)
一般棟と第二音楽室があるこの棟との間にある中庭に神崎が立っていた。顔ははっきり見えないものの、あの髪の色とスタイルのよさは神崎以外にあり得ない。何をしているのかと見ていると、一般棟のほうから女子が一人近づいて来るのが見えた。遠目でも綺麗に巻かれた髪の毛だとわかる。
神崎とその子が何か話をしている。このままじゃ盗み見ているのと同じだと思い、慌てて窓から離れようとしたときだった。神崎が少し身を屈め、女子に顔を近づけるのが見えた。
(あ……キスした)
顔を離した神崎は女子の頭を撫でると、そのまま何かを言って一般棟に行ってしまった。残された女子は驚いているのか、それとも喜びを噛み締めているのか、そのままじっと動かない。しばらくすると我に返ったように神崎が向かったのとは反対のほうに小走りで去って行った。
(モテモテだね)
しかも慣れているように見えた。こういうことは神崎にとって日常茶飯事のことなんだろう。
(一年のときからモテモテだったらしいし、“一回だけ”なんて噂が流れるくらいだもんね)
きっとキスの一つや二つ、それどころかキス以上のことも経験済みに違いない。不意に体育のときのことが蘇った。しっかりした腕の力と、ふわりと漂っていた柑橘系の香りに千尋の胸がずくりと疼く。それが少しずつ体に広がり、重低音のトリルが体のあちこちで鳴り響いた。
「帰ろう」
ピアノの蓋を閉じた千尋は、何かを押し込めるように一歩ずつ足を踏み出し教室を出て行った。
(一目惚れなんて気のせいだよ……うん、気のせいだ)
それに、一目惚れの先にあるのが恋ならやはり一目惚れなんかしたら駄目だ。放課後、カバンに荷物を詰めながらそんなことを考える。
気持ちを切り替えるように第二音楽室に向かった。そうしていつもどおり窓を少しだけ開け、ピアノの前の椅子に座る。目を閉じるといくつかの曲が頭に浮かんだ。どれも軽快な曲ばかりで、千尋の眉がほんの少し寄る。
(これじゃまるで浮かれてるみたいだ)
そう思ったからか心がざわりとした。心弾むような気持ちが段々と重苦しくなっていく。相反する気持ちが混じり合い、ますます気持ちがざわざわとした。
(……落ち着かないと)
すぅっと息を吸い、ふぅと小さく吐き出す。
(今日はベートーベンかな)
ゆっくりと目を開けて鍵盤に指を載せた。そうして静かにゆっくりと音を奏で始める。
どの曲も好きだと思うものの、ベートーベンはほかと少し違う気がする。重苦しくて繊細でドラマチックで、たまに苦悩が滲み出ているようなところがいい。これは千尋の勝手なイメージで、本当のベートーベンがどんな人だったかは知らない。別に知りたいとも思わなかった。ただ、そう思うと自分を投影できるような気がして落ち着ける。
(弾ける曲は少ないけどね)
千尋が弾けるのは母親が弾いていた曲か、実際に教えてもらった曲だけだ。誰かに師事するわけでもないピアノは少し不恰好で歪だが、それがいいと千尋は思っている。誰かに聴かせることはないし、自分が満足できればそれでいい。
(自分のために弾くんだから、これで十分)
母親を忘れないために、そして母親を忘れるために、自分のために弾く。
右手の主旋律と左手の和音をゆっくりと奏でた。紡がれるのは静かな夜にそっと光るような月光の曲だ。
(もしも……もしも僕が恋をすることがあっても、こんなふうに静かで穏やかな恋がいい)
情熱的に求め合い、奪い合うような恋はしたくない。ただ静かにそこにあるような恋がいい。
(……でも、恋はそんな優しいものじゃない。だから僕は恋なんてしない)
不意に神崎の顔が頭に浮かんだ。一瞬だけ音がアクセントを付けたようにポンと強く鳴る。それに顔をしかめ、その後はまるで平たんな道のように第一章を引き続けた。最後の音が終わると「ふぅ」とため息にも似た吐息が漏れる。
(落ち着くために弾いたはずなんだけどな)
椅子から立ち上がった千尋は窓を閉めようと窓際に近づいた。ふと眼下に人影を見つけて「誰だろう?」と見つめる。
(あれは……神崎だ)
一般棟と第二音楽室があるこの棟との間にある中庭に神崎が立っていた。顔ははっきり見えないものの、あの髪の色とスタイルのよさは神崎以外にあり得ない。何をしているのかと見ていると、一般棟のほうから女子が一人近づいて来るのが見えた。遠目でも綺麗に巻かれた髪の毛だとわかる。
神崎とその子が何か話をしている。このままじゃ盗み見ているのと同じだと思い、慌てて窓から離れようとしたときだった。神崎が少し身を屈め、女子に顔を近づけるのが見えた。
(あ……キスした)
顔を離した神崎は女子の頭を撫でると、そのまま何かを言って一般棟に行ってしまった。残された女子は驚いているのか、それとも喜びを噛み締めているのか、そのままじっと動かない。しばらくすると我に返ったように神崎が向かったのとは反対のほうに小走りで去って行った。
(モテモテだね)
しかも慣れているように見えた。こういうことは神崎にとって日常茶飯事のことなんだろう。
(一年のときからモテモテだったらしいし、“一回だけ”なんて噂が流れるくらいだもんね)
きっとキスの一つや二つ、それどころかキス以上のことも経験済みに違いない。不意に体育のときのことが蘇った。しっかりした腕の力と、ふわりと漂っていた柑橘系の香りに千尋の胸がずくりと疼く。それが少しずつ体に広がり、重低音のトリルが体のあちこちで鳴り響いた。
「帰ろう」
ピアノの蓋を閉じた千尋は、何かを押し込めるように一歩ずつ足を踏み出し教室を出て行った。
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