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3 僕の日常
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その日、千尋が起きると珍しく父親が帰宅していた。父親は中堅どころの出版社に勤めていて千尋が小さいときからいつも忙しくしている。担当の本が重なっているときは帰宅もままならないようで、誕生日や記念日を母親と二人で過ごすこともしょっちゅうだった。
千尋が最後に父親を家で見たのは二日前だった。昨日は会社に泊まるとメッセージがあったが始発で帰ってきたのだろう。家にたどり着けたのはいいものの、ソファで力尽きたのかぐっすりと眠っている。
「父さん、こんなところで寝てると風邪引くよ?」
「わか……て……」
ムニャムニャと返事はするものの起きる気配はない。かろうじて脱いだらしいジャケットを手に寝室に行った千尋は、それをクローゼットに仕舞うと代わりに毛布を手にした。
「いつもお疲れ様」
毛布を掛けると「んー……」と寝言のような声が返ってくる。それに苦笑しながらパンと牛乳で朝食を済ませ、目が覚めたら着替えるだけで会社にとんぼ返りするだろう父親のためにシリアルバーをテーブルに用意した。隣に「がんばってください」というメモ書きを添えるのも忘れない。
(そういえば進路調査、今日までだったっけ)
思い出したものの父親をそれだけで起こすのは忍びなかった。「事後報告でいいか」と思い、「いってきます」と小声で言ってから家を出た。
(そもそも二年生になったばかりで将来を考えろなんて、無茶な話だと思うんだけどな)
すっかり葉桜になった桜並木を見ながらそんなことを思う。千尋には将来の夢というものがなかった。小さい頃はサッカー選手だとか学校の先生だとか言ってはいたものの、本気でなりたかったわけじゃない。周囲でよく耳にすることを真似して言っていただけだ。
(いまでもピアノは好きだけど、それだけだし)
ピアノは好きだがビアにストになりたいわけじゃなく、音楽関係の仕事に就きたいとも思っていない。進級してすぐに進路の話が出たが、やりたいことがない千尋は地元の大学の適当な学部を書き込んでそのままにしていた。
(何か特技でもあったらよかったんだろうけど)
ピアノは弾けるものの、それだけだ。音楽系に進めるほどの腕前はなく、そもそもちゃんと習ったこともない。勉強は中の上くらい、運動はあまり得意じゃなく突き指が怖くて球技はとくに苦手だった。骨格が細いのか痩せ形の上に筋肉も付きにくいらしく、昔やっていた水泳はとっくの前にやめている。
(僕みたいなのを平々凡々っていうんだろうな)
身長は一六五センチ程度と男子の中では決して大きくない。そこに黒縁眼鏡とくればいわゆる平凡キャラというやつだ。そのうえ前髪も眼鏡の縁にかかりそうな状態で、平凡より陰キャと呼ばれるような見た目をしている。
ふと、自分の手を見た。白く骨張った指は長く、それだけが自慢といえば自慢かもしれない。おかげで一オクターブも軽々と押さえることができる。これだけ長ければ好きな曲は弾けるし、いまはこの手があるだけでいい。
(三年になってから考えればいいか)
進学するかどうか決めかねている千尋だが、授業は真面目に受けていた。クラスから浮かない程度に輪の中に入り、あとは目立たないように静かに過ごす。そんな千尋が神崎と接する機会などあるはずがなく、たまに胸がざわつくのを感じながらも「相変わらずかっこいいな」と遠くから眺める日々が続いていた。
帰りのホームルームで進路調査の紙を提出した千尋は、そのままいつもどおり第二音楽室へと向かった。いつもなら少し窓を開けて外を眺めながら春の空気を感じるところだが、できるだけ外を見ないように窓を開ける。というのも、神崎が第二音楽室の窓から見える中庭を女子と会う場所の一つにしているらしいと聞いたからだ。
(また見かけたら困るし、盗み見てるみたいな感じでよくないし)
それに、もう一度キスシーンなんてみたらきっと変な感じになる。一瞬ほの暗くなった気分を振り切るようにピアノの前に座った。
「さぁて、今日は何を弾こうかな」
あえてそう声に出すと、少しだけ開けた窓の隙間から暖かな風が入ってくるのを感じた。その風にほんのわずかながら初夏の空気が混じり始めている。今年の春は驚くほどの早さで通り過ぎ、桜もあっという間に散ってしまった。そう感じたのは神崎と同じクラスになったからかもしれない。
(それに神崎を見てるだけでなんかドキドキするっていうか……って、だから!)
また神崎のことを考えてしまった。これじゃあ本当に一目惚れしたみたいだ。それでも頑なに違うと自分に言い聞かせる。そんな千尋の頭に浮かんだのはベートーベンの曲だった。
鍵盤に置いた指がタララララと有名なフレーズを奏でる。この曲はベートーベンがテレーゼという愛する女性に送った曲だと言われているが、その話が本当かどうか千尋にはわからない。ただ、母親が幸せそうに弾いていた表情は忘れられずにいた。
不意に高い音が刺すように鳴り、驚いて指が止まった。両手で一オクターブずつポンポンと上がっていくところで小指を強く叩いてしまったせいだ。母親のことを思い出していたからか、それとも神崎のことを考えていたからだろうか。小さく息を吸って呼吸を整えた千尋は、気を取り直して冒頭から弾き直すことにした。
(ベートーベンの好きな人って、どんな人だったんだろう)
あの天才作曲家が曲をプレゼントしたくらいだから、きっと美人だったに違いない。もしくは音楽的な才能にあふれた人だったんだろうか。
(ベートーベンも情熱的な恋をしたのかな)
軽やかだった音が次第に平たんなものに変わっていく。楽譜に書かれているであろう強弱記号はすべて消え、すべての感情を排除したかのような淡々とした音が続いた。
「……帰ろう」
千尋はそうつぶやくとピアノの蓋を閉め、奏でていた音のように淡々とした足取りで第二音楽室を出て行った。
千尋が最後に父親を家で見たのは二日前だった。昨日は会社に泊まるとメッセージがあったが始発で帰ってきたのだろう。家にたどり着けたのはいいものの、ソファで力尽きたのかぐっすりと眠っている。
「父さん、こんなところで寝てると風邪引くよ?」
「わか……て……」
ムニャムニャと返事はするものの起きる気配はない。かろうじて脱いだらしいジャケットを手に寝室に行った千尋は、それをクローゼットに仕舞うと代わりに毛布を手にした。
「いつもお疲れ様」
毛布を掛けると「んー……」と寝言のような声が返ってくる。それに苦笑しながらパンと牛乳で朝食を済ませ、目が覚めたら着替えるだけで会社にとんぼ返りするだろう父親のためにシリアルバーをテーブルに用意した。隣に「がんばってください」というメモ書きを添えるのも忘れない。
(そういえば進路調査、今日までだったっけ)
思い出したものの父親をそれだけで起こすのは忍びなかった。「事後報告でいいか」と思い、「いってきます」と小声で言ってから家を出た。
(そもそも二年生になったばかりで将来を考えろなんて、無茶な話だと思うんだけどな)
すっかり葉桜になった桜並木を見ながらそんなことを思う。千尋には将来の夢というものがなかった。小さい頃はサッカー選手だとか学校の先生だとか言ってはいたものの、本気でなりたかったわけじゃない。周囲でよく耳にすることを真似して言っていただけだ。
(いまでもピアノは好きだけど、それだけだし)
ピアノは好きだがビアにストになりたいわけじゃなく、音楽関係の仕事に就きたいとも思っていない。進級してすぐに進路の話が出たが、やりたいことがない千尋は地元の大学の適当な学部を書き込んでそのままにしていた。
(何か特技でもあったらよかったんだろうけど)
ピアノは弾けるものの、それだけだ。音楽系に進めるほどの腕前はなく、そもそもちゃんと習ったこともない。勉強は中の上くらい、運動はあまり得意じゃなく突き指が怖くて球技はとくに苦手だった。骨格が細いのか痩せ形の上に筋肉も付きにくいらしく、昔やっていた水泳はとっくの前にやめている。
(僕みたいなのを平々凡々っていうんだろうな)
身長は一六五センチ程度と男子の中では決して大きくない。そこに黒縁眼鏡とくればいわゆる平凡キャラというやつだ。そのうえ前髪も眼鏡の縁にかかりそうな状態で、平凡より陰キャと呼ばれるような見た目をしている。
ふと、自分の手を見た。白く骨張った指は長く、それだけが自慢といえば自慢かもしれない。おかげで一オクターブも軽々と押さえることができる。これだけ長ければ好きな曲は弾けるし、いまはこの手があるだけでいい。
(三年になってから考えればいいか)
進学するかどうか決めかねている千尋だが、授業は真面目に受けていた。クラスから浮かない程度に輪の中に入り、あとは目立たないように静かに過ごす。そんな千尋が神崎と接する機会などあるはずがなく、たまに胸がざわつくのを感じながらも「相変わらずかっこいいな」と遠くから眺める日々が続いていた。
帰りのホームルームで進路調査の紙を提出した千尋は、そのままいつもどおり第二音楽室へと向かった。いつもなら少し窓を開けて外を眺めながら春の空気を感じるところだが、できるだけ外を見ないように窓を開ける。というのも、神崎が第二音楽室の窓から見える中庭を女子と会う場所の一つにしているらしいと聞いたからだ。
(また見かけたら困るし、盗み見てるみたいな感じでよくないし)
それに、もう一度キスシーンなんてみたらきっと変な感じになる。一瞬ほの暗くなった気分を振り切るようにピアノの前に座った。
「さぁて、今日は何を弾こうかな」
あえてそう声に出すと、少しだけ開けた窓の隙間から暖かな風が入ってくるのを感じた。その風にほんのわずかながら初夏の空気が混じり始めている。今年の春は驚くほどの早さで通り過ぎ、桜もあっという間に散ってしまった。そう感じたのは神崎と同じクラスになったからかもしれない。
(それに神崎を見てるだけでなんかドキドキするっていうか……って、だから!)
また神崎のことを考えてしまった。これじゃあ本当に一目惚れしたみたいだ。それでも頑なに違うと自分に言い聞かせる。そんな千尋の頭に浮かんだのはベートーベンの曲だった。
鍵盤に置いた指がタララララと有名なフレーズを奏でる。この曲はベートーベンがテレーゼという愛する女性に送った曲だと言われているが、その話が本当かどうか千尋にはわからない。ただ、母親が幸せそうに弾いていた表情は忘れられずにいた。
不意に高い音が刺すように鳴り、驚いて指が止まった。両手で一オクターブずつポンポンと上がっていくところで小指を強く叩いてしまったせいだ。母親のことを思い出していたからか、それとも神崎のことを考えていたからだろうか。小さく息を吸って呼吸を整えた千尋は、気を取り直して冒頭から弾き直すことにした。
(ベートーベンの好きな人って、どんな人だったんだろう)
あの天才作曲家が曲をプレゼントしたくらいだから、きっと美人だったに違いない。もしくは音楽的な才能にあふれた人だったんだろうか。
(ベートーベンも情熱的な恋をしたのかな)
軽やかだった音が次第に平たんなものに変わっていく。楽譜に書かれているであろう強弱記号はすべて消え、すべての感情を排除したかのような淡々とした音が続いた。
「……帰ろう」
千尋はそうつぶやくとピアノの蓋を閉め、奏でていた音のように淡々とした足取りで第二音楽室を出て行った。
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