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7 眼鏡の下
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春はあっという間に駆け抜け、季節は梅雨になっていた。天気予報で梅雨入りしたと宣言があった途端に毎日雨が降っている。土砂降りではないものの、シトシトと降り続く雨に千尋は少しだけ気が滅入っていた。
(ようやく怪我が治ったのに)
毎日のように慎司に傷の具合をチェックされた結果、十日近くピアノに触れなかった。今朝、絆創膏を着けずに登校した千尋は「治ったから」と左手中指を見せたが、慎司からは「最初から気をつけてりゃもっと早く治ったのにな」とため息混じりの言葉が返ってきた。
「まったく、慎司は心配性すぎるんだ」
そう口にしたものの、慎司がそうなった原因を思い出して眉尻を下げた。それを振り払うように「今日は何を弾こうかな」とあえて明るく口に出し、いくつか候補を思い浮かべる。
(外は雨……安易だけど、雨っていったらこの曲かなぁ)
ポーンと音を出し、それから両手を鍵盤に載せてポロロンと指を動かす。千尋が選んだのはピアノの詩人といわれるショパンの曲だった。ロマンチックで繊細で、それでいて少し切なくなる旋律は、今日の天気と最近の自分の気持ちに合っているような気がする。
(そういえば愛する恋人との療養中にこの曲を作ったって、どこかで聞いたっけ)
優しく降る雨のようなメロディを奏でながら、気がつけば千尋の頭には最近の神崎が浮かんでは消えていた。
(どうして神崎は僕のこと、名前で呼ぶようになったんだろう)
クラスの誰もがそのことに気づき、驚いていた。中でも一番驚いたのは千尋自身だ。包帯を交換してくれたのがきっかけだったとしても、どうして名前を呼ぼうと思ったのだろう。だからといって、わざわざ「どうして名前で呼ぶんだよ?」と尋ねるのもおかしな話だ。
(そもそも僕のほうから話しかけるなんてできるはずがないし)
そんなことをすれば絶対に目立つ。目立つのは千尋の本意ではなかった。これまで学校では浮かないように、目立たないように気をつけてきた。「ただでさえ慎司と幼馴染みだってだけで目立つのに」とため息を漏らしつつ、雨音のような音を奏で続ける。
(どうして僕なんかにかまうんだろう)
考えてもわからない。わからないから、ますます気になる。気になるせいで、こうして神崎のことを思い出すことが増えてきた。
(このまま神崎を好きになってしまったら……)
そう思った途端に音がポンと跳ね上がった。不自然なアクセントをつけてしまった自分に驚き、演奏を続けながら「ふぅ」と小さく息を吐く。
(大丈夫。僕は誰のことも好きにはならない)
これまでも一目惚れみたいなことはあってものの、それだけで終わった。今回もそれと同じだ。指を止め、眼鏡を外して目頭をグイグイと揉む。それから「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせるように再び鍵盤に指を載せた。
曲が中盤に差しかかったときだった。突然「何してるの?」という声がして肩が跳ねた。驚いてドアのほうを見ると誰かが立っている。慌てて眼鏡をかけ直した千尋は、立っているのが神崎だとわかって再び驚いた。
「え……と、」
戸惑っている間に神崎が教室に入ってきた。まだ夕暮れ時と呼ぶには早いもののシトシトと降り続く雨のせいか外は少し暗く、電気を付けていない教室はさらに薄暗い。どうしようとうろたえる千尋のそばに神崎が立った。
「眼鏡してないところ、初めて見た」
「え?」
ヘーゼルの瞳がじっと千尋を見ている。眼鏡をしていなかったのは一瞬で、すぐにかけ直したはずなのにまだ裸眼でいるような気がして落ち着かなくなった。
(眼鏡をしてない顔を見られたら駄目だ。だって、僕の顔は……)
不意に頭の奥で女性の声が響いた。「あなたがいれば、それだけでいいの」とつぶやく声にハッとする。背筋に冷たいものが流れ、鍵盤に載せたままの手が小さく震えた。それに気づかないのか、神崎はにこりと微笑むと「眼鏡、ほかの人の前では取らないほうがいいと思うよ」と口にした。
(……そっか。神崎もそう思ってるんだ)
胸の奥がざわりとした。まるで冬の寒々しい大地の上を、氷を纏った風が吹き抜けるような気持ちになる。ふと、華やかで美しい冬を思わせるメロディが頭に浮かんだ。それは祖国フィンランドをこよなく愛した作曲家の曲で、木の名前が曲名になっている五曲のうちの一曲だと教えてくれたのは母親だ。
千尋は初めてその曲を聴いたとき、美しさよりも恐ろしさを感じた。母親の弾くその曲はとても美しいのに、生き物を閉じ込めるような湖上の氷のような硬く冷たいものを感じたのを思い出す。
「で、何してたの?」
「……とくには」
優しい雨音はすっかり消え、千尋の心には氷の粒が降り注いでいた。静かになった教室に「そう」と返す神崎の声が響く。ちらりと視線を向けると綺麗な顔が外を見ていた。つられて千尋も外を見ると、いつの間にか結構な雨脚になっている。
「帰ったほうがよさそうだね」
「そう、だね」
「じゃ、また明日」
そう言って神崎が教室を出て行った。開いたままのドアをしばらく見つめた千尋は、ピアノの蓋を閉めてカバンを手にした。
(神崎、何しに来たんだろ)
もしかして廊下でまた告白でもされたんだろうか。だからといって三階までわざわざ上がってくるとは思えない。ドアは締めていたし雨が降っているから窓も開けていなかった。ピアノの音が外に漏れていたとも考えにくい。
(……どうしてここに来たんだろう)
眼鏡をくいっと持ち上げ、さっき神崎に言われたことを思い返す。
(眼鏡、気をつけないとな)
眼鏡がなくてもなんとなく見える。でも、眼鏡を外すことはできない。そうしないと僕は……頭の中にまた女性の声が響いた。
『あなたがいれば、それだけでいいの』
まるで呪縛のような言葉だ。千尋はギュッと目を閉じると、静かに光る月のメロディを思い浮かべながら教室を後にした。
(ようやく怪我が治ったのに)
毎日のように慎司に傷の具合をチェックされた結果、十日近くピアノに触れなかった。今朝、絆創膏を着けずに登校した千尋は「治ったから」と左手中指を見せたが、慎司からは「最初から気をつけてりゃもっと早く治ったのにな」とため息混じりの言葉が返ってきた。
「まったく、慎司は心配性すぎるんだ」
そう口にしたものの、慎司がそうなった原因を思い出して眉尻を下げた。それを振り払うように「今日は何を弾こうかな」とあえて明るく口に出し、いくつか候補を思い浮かべる。
(外は雨……安易だけど、雨っていったらこの曲かなぁ)
ポーンと音を出し、それから両手を鍵盤に載せてポロロンと指を動かす。千尋が選んだのはピアノの詩人といわれるショパンの曲だった。ロマンチックで繊細で、それでいて少し切なくなる旋律は、今日の天気と最近の自分の気持ちに合っているような気がする。
(そういえば愛する恋人との療養中にこの曲を作ったって、どこかで聞いたっけ)
優しく降る雨のようなメロディを奏でながら、気がつけば千尋の頭には最近の神崎が浮かんでは消えていた。
(どうして神崎は僕のこと、名前で呼ぶようになったんだろう)
クラスの誰もがそのことに気づき、驚いていた。中でも一番驚いたのは千尋自身だ。包帯を交換してくれたのがきっかけだったとしても、どうして名前を呼ぼうと思ったのだろう。だからといって、わざわざ「どうして名前で呼ぶんだよ?」と尋ねるのもおかしな話だ。
(そもそも僕のほうから話しかけるなんてできるはずがないし)
そんなことをすれば絶対に目立つ。目立つのは千尋の本意ではなかった。これまで学校では浮かないように、目立たないように気をつけてきた。「ただでさえ慎司と幼馴染みだってだけで目立つのに」とため息を漏らしつつ、雨音のような音を奏で続ける。
(どうして僕なんかにかまうんだろう)
考えてもわからない。わからないから、ますます気になる。気になるせいで、こうして神崎のことを思い出すことが増えてきた。
(このまま神崎を好きになってしまったら……)
そう思った途端に音がポンと跳ね上がった。不自然なアクセントをつけてしまった自分に驚き、演奏を続けながら「ふぅ」と小さく息を吐く。
(大丈夫。僕は誰のことも好きにはならない)
これまでも一目惚れみたいなことはあってものの、それだけで終わった。今回もそれと同じだ。指を止め、眼鏡を外して目頭をグイグイと揉む。それから「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせるように再び鍵盤に指を載せた。
曲が中盤に差しかかったときだった。突然「何してるの?」という声がして肩が跳ねた。驚いてドアのほうを見ると誰かが立っている。慌てて眼鏡をかけ直した千尋は、立っているのが神崎だとわかって再び驚いた。
「え……と、」
戸惑っている間に神崎が教室に入ってきた。まだ夕暮れ時と呼ぶには早いもののシトシトと降り続く雨のせいか外は少し暗く、電気を付けていない教室はさらに薄暗い。どうしようとうろたえる千尋のそばに神崎が立った。
「眼鏡してないところ、初めて見た」
「え?」
ヘーゼルの瞳がじっと千尋を見ている。眼鏡をしていなかったのは一瞬で、すぐにかけ直したはずなのにまだ裸眼でいるような気がして落ち着かなくなった。
(眼鏡をしてない顔を見られたら駄目だ。だって、僕の顔は……)
不意に頭の奥で女性の声が響いた。「あなたがいれば、それだけでいいの」とつぶやく声にハッとする。背筋に冷たいものが流れ、鍵盤に載せたままの手が小さく震えた。それに気づかないのか、神崎はにこりと微笑むと「眼鏡、ほかの人の前では取らないほうがいいと思うよ」と口にした。
(……そっか。神崎もそう思ってるんだ)
胸の奥がざわりとした。まるで冬の寒々しい大地の上を、氷を纏った風が吹き抜けるような気持ちになる。ふと、華やかで美しい冬を思わせるメロディが頭に浮かんだ。それは祖国フィンランドをこよなく愛した作曲家の曲で、木の名前が曲名になっている五曲のうちの一曲だと教えてくれたのは母親だ。
千尋は初めてその曲を聴いたとき、美しさよりも恐ろしさを感じた。母親の弾くその曲はとても美しいのに、生き物を閉じ込めるような湖上の氷のような硬く冷たいものを感じたのを思い出す。
「で、何してたの?」
「……とくには」
優しい雨音はすっかり消え、千尋の心には氷の粒が降り注いでいた。静かになった教室に「そう」と返す神崎の声が響く。ちらりと視線を向けると綺麗な顔が外を見ていた。つられて千尋も外を見ると、いつの間にか結構な雨脚になっている。
「帰ったほうがよさそうだね」
「そう、だね」
「じゃ、また明日」
そう言って神崎が教室を出て行った。開いたままのドアをしばらく見つめた千尋は、ピアノの蓋を閉めてカバンを手にした。
(神崎、何しに来たんだろ)
もしかして廊下でまた告白でもされたんだろうか。だからといって三階までわざわざ上がってくるとは思えない。ドアは締めていたし雨が降っているから窓も開けていなかった。ピアノの音が外に漏れていたとも考えにくい。
(……どうしてここに来たんだろう)
眼鏡をくいっと持ち上げ、さっき神崎に言われたことを思い返す。
(眼鏡、気をつけないとな)
眼鏡がなくてもなんとなく見える。でも、眼鏡を外すことはできない。そうしないと僕は……頭の中にまた女性の声が響いた。
『あなたがいれば、それだけでいいの』
まるで呪縛のような言葉だ。千尋はギュッと目を閉じると、静かに光る月のメロディを思い浮かべながら教室を後にした。
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