好きになること

朏猫(ミカヅキネコ)

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32 球技大会での出来事

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 元々球技が得意でない千尋は、飛んできたバレーボールをうまく避けることができなかった。咄嗟に左手で顔をかばったものの、ボールに勢いがあったからか眼鏡のフレームに自分の腕が当たってしまった。その衝撃で眼鏡が床に落ちる。

「い……ったぁ」

 授業でもバレーボールはやっていたが、こんなことは初めてだ。拾った眼鏡のフレームが少しだけ曲がっている。それにため息をついたのは、学校に予備を持って来ていなかったからだ。

「秋山、血が出てる」
「え?」

 クラスメイトの指摘に首を傾げると、「左のほっぺ」と返ってきた。慌てて左頬に触れた指に少しだけ血が付いている。おそらく眼鏡のどこかが当たって切れたのだろう。
 教師に促されて保健室に行くことにした。クラスメイトが心配して付いてきてるくれようとしたが迷惑はかけたくない。なにより眼鏡をかけていない顔を誰かにずっと見られるのは嫌だ。

「大丈夫だから」

 そう言って一人で保健室へと向かった。体育館から出ると校庭から黄色い歓声が聞こえてきた。声がしたほうではバスケットの試合が行われている。もしかしたら優夜が出ているのかもしれない。そう思うと見に行きたい気持ちに駆られたが、まずは保健室だ。

(それに女子に囲まれてる姿は見たくないし)

 気にしないようにしているものの、どうしても気になってしまう。そういう場面に出くわすと、好きという気持ちよりどろりとしたものが膨らんで嫌になる。千尋は歓声から逃げるように足早に保健室に向かった。

「失礼しまーす……」

 保健室のドアを開けると、またもや無人だった。

(そういえば校庭に救護室を作るって言ってたっけ)

 養護教員はそっちで待機しているのかもしれない。「校庭のほうが近かったな」と思いながら、せっかく来たのだから絆創膏くらいはもらおうと中に入る。
 絆創膏などを探すため、容器が並ぶ棚に顔を近づけた。見慣れている場所ならここまでしなくてもなんとなくわかるが、勝手が違うとどうしても顔を近づけて見てしまう。細めた目で容器を見ながら「消毒したほうがいいのかな」とコットンを見つけたところで「何やってるんだ?」と声がした。慌てて振り返るとドアのところに誰かが立っている。

「ええと、絆創膏探してて」
「……秋山?」
「そう、ですけど」

 誰だろう。名前を知っているということは心配したクラスメイトが追いかけてきたんだろうか。そう思って目を細めると近づいて来る顔がぼんやりと見えた。

「あ、梶本かじもと

 声をかけてきたのは、一年のときに同じクラスだった梶本だった。眼鏡がなくても十分イケメンだということがわかる顔立ちに、そういえばしばらく女子たちが騒いでいたっけと去年のことを思い出す。女子たちいわく、華やかな神崎とクールな梶本ということらしい。

「怪我したのか?」
「ちょっとだけだけど。それで絆創膏探してて」
「ちょっと待ってろ」

 千尋が答える前に梶本が動き出した。せっかく手伝ってくれようとしているのに断るのも悪い。そう思って椅子に座っていると、「ちょっとしみるかもしれないけど」と言いながらコットンで左頬を拭われた。ピリッとしたものの耐えられないほどの痛みじゃない。そのまま絆創膏まで貼ってくれた。

「あの、ありがと」
「あぁ」

 そう言って片付けている梶本の手首に湿布が貼ってあることに気がついた。

「あの、湿布貼り直そうか?」
「え?」
「それで保健室に来たんだよね?」
「まぁ」
「じゃあこれ、貼ってもらったお礼に」

 左頬を指しながらそう言うと、なぜか梶本が一瞬動きを止めた。

「どうかした?」
「……いや、別に」
「じゃ、手、出して」

 今度は千尋が立ち、梶本が椅子に座る。貼ってあった湿布を剥がして新しい湿布を手に取った。保護用のビニールを剥がし、貼ってあったところとずれないように気をつけながら貼り付ける。

「顔、近すぎないか?」
「え? あ、ごめん。眼鏡ないと細かいのが見えづらくて。でもちゃんと同じ場所に貼れたと思うよ」

 気泡が入っていないか確認し、念のため力を入れすぎない程度に手で押さえる。

「はい、終わったよ」
「サンキュ」
「ううん、お互い様だし」

 そう言って顔を上げると、思っていたより近いところに梶本の顔があって声を上げそうになった。慌てて遠のきながら剥がした湿布をゴミ箱に捨てる。

「僕、もう戻るから」

 振り返ると、いつの間にか目の前に梶本が立っている。

「ど、どうかした?」
「眼鏡してないと感じ変わるな」
「え?」
「眼鏡してないほうがいいと思う」
「眼鏡ないと見えないから」

 千尋は前髪で隠すように少しだけ俯いた。湿布を貼ることに気を取られ、顔をさらしていたことをすっかり失念していた。

「眼鏡ないほうがいいよ」

 それだけ言うと梶本が出て行った。

(どうして二回も言うんだろう)

 左頬の絆創膏を撫で、「そうだ、戻らないと」と千尋も慌てて保健師を後にした。
 校庭に戻る途中で女子たちに囲まれている優夜を見かけた。バスケの試合は終わったらしく、体育館の出入り口に出てきたところで捕まってしまったんだろう。眼鏡がないからはっきり見えないものの、ペットボトルやタオルを差し出されているようにも見える。それだけで千尋の胸にどろりとしたものがわき上がった。

(見なければいいだけだし)

 くるりと踵を返して立ち去ろうとしたときだった。「ごめんね」という優夜の声と、「えぇ~」という残念そうな女子たちの声が耳に入る。

「ちひろ」

 振り返ると優夜が近づいてくるところだった。眼鏡をしていなくてもかっこいいのがよくわかる。近づいた額や首には汗が光り、それがまるで宝石のように優夜をキラキラと輝かせていた。

「あれ、怪我したの?」

 少しだけ不機嫌そうな声にハッとした。「あ、うん」と答えながら絆創膏をひと撫でする。

「ボールを避けきれなくて。あっ、でもボールじゃなくて自分の手が眼鏡に当たっちゃっただけなんだけど」
「眼鏡は?」
「フレームが曲がって」

 ポケットに入れていた眼鏡を見せると、「そっか」とやっぱり少し不機嫌そうな声が返ってくる。

「眼鏡どうするの?」
「家に帰ればほかのがあるから大丈夫」
「じゃあ、今日は帰るまで眼鏡なしか」
「今日が球技大会でよかったよ。ぼんやりとでも人は見えるし、それに僕が出る試合はもう終わってるだろうから。帰るまでならなんとかなると思う」

 球技大会は午前中だけで、ホームルームで順位が発表されたら帰宅できる。授業があるわけじゃないから多少見えづらくても問題ない。それなのに「危ないから、この後は俺の隣にいて」と言われて首を傾げた。

「どうして?」
「危ないからね」
「注意すれば転けたりしないと思うんだけど」
「そういう意味じゃないんだけどなぁ」

 困ったような声を出した優夜が急に顔を近づけてきて鼓動が跳ねた。

「可愛いちひろが誰かに攫われたら困るから」

 囁かれた内容に千尋の鼓動が忙しなくなった。まるで子犬たちが走り回るような感覚に千尋は「落ち着け、落ち着け」と呪文のように唱え、小さい深呼吸をくり返した。
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