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5 その後の魔王と勇者
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勇者から延々と魔力供給を受けていたからか、思ったよりも早く魔力の根源を修復することができた。肉体的な損傷も修復が終わり、見た目は完全に元に戻ったと言える。
問題は魔力のほうだった。根源から生み出される魔力の質が大きく変わってしまったようで、以前のように無意識に使うことが少し難しい。魔力を注がれているときにも若干の違和感を感じていたが、まさか魔力の質が変異するとは想像もしなかった。
(慣れるまでは少し苦労しそうだな)
元々再生魔法を得意としていたわたしだが、どうもその能力が格段に上がったような気がする。しかも他者を再生する力まで備わってしまったようだ。これでは書物にある神官のようだなと思わなくもないが、“壁”自体も強化されたようだから全体的な能力の底上げといった状態なのだろう。
(勇者の観察とあわせて自分の観察記録も残しておくか)
神官のような力を途中で得た魔族など珍しいはずだ。己のことながら非常に興味深い。せっかくだからわたしの記録も残すことにしよう。
(さて、記録書にペン、それからインクを……)
大きな机の前の椅子に座り、書き記すための準備を始めた手がぴたりと止まった。「またか」と小さくため息をつきながら振り返る。
「もう魔力の供給は必要ないと思うのだが?」
何度目かわからない言葉を口にすると、「違ぇよ」とこれまたいつもと同じ返事が聞こえてきた。そうして伸びてきた手がわたしの二の腕を撫で始める。
「これは魔力を送ってんじゃねぇ。愛情表現だ」
「愛情表現?」
たしか先々代魔王の書物の後半に多く登場する言葉だ。恋を成就させた者同士が互いの気持ちを確かめ合う行為、と書かれていた記憶がある。
「そ、愛情表現。人間が好きな相手にすることな」
そう言った勇者の手が腕から肩を撫で上げた。そのまま首筋を撫で、つぎは顔に触れるのかと思えばするすると下りて鎖骨の辺りを撫でている。
(なんというか、奇妙な感じがするな)
体を撫でられる経験がなかったからか、触れられるだけで背中がぞわっとする。しばらく撫でられていると腰の辺りがむずむずすることもあった。そんな感覚は初めてで、自分の体なのにどうしてそうなるのかわからない。
「人間は好きな相手のことをたくさん触りたくなるんだ」
「ほう、それは興味深いな」
そう答えると、「だろ?」と言った勇者の手が胸に降りてきた。今日は薄手のローブだからか、いつもより手の熱さを強く感じるような気がする。
「魔族ってのは体温が低いんだな」
「常時燃えている魔族もいるが、わたしは比較的低温のほうだろうな」
「寝てるときも冷たいよな」
「さぁ、眠っている間のことはわからない」
就寝中の体温なら、毎晩わたしを抱きかかえて寝ている勇者のほうが詳しいだろう。
「なぁ、風呂でも体温まんねぇのか?」
「湯を使うことはほとんどないからわからない」
「それって風呂に入らねぇってことか?」
「体を洗うかという意味でなら、わたしには必要ない。つねに魔力が表面を移動しているから、いつでも生まれたてのようなものだ」
胸を撫でていた指が不意に襟との境目に潜り込んできた。「へぇ、生まれたてね」と言って擦るように何度も肌を撫でる。
「なぁ、湯に浸かるのは嫌いか?」
「さぁ、やったことがないからわからないな」
「じゃ、今度やってみようぜ。俺がいろいろ教えてやるからさ」
「ふむ、湯か」
湯に浸かるなど考えたこともなかった。毎日湯を使う勇者を見て興味深いとは思っていたが、自分で体験してみるのもよさそうだ。
「おもしろそうだな」
「じゃ、決まりな? とりあえず湯があれば中を洗うこともできるだろうし、ついでにほぐすところまではやってしまいてぇし」
「中を洗う? ほぐす?」
「ま、ちょーっと入れるくらいはご褒美ってことで」
またわからないことを言い始めた。理解できない勇者の言葉を毎日記録しているものの増えていく一方だ。もちろん意味を尋ねることもあるが、相変わらず「そのときのお楽しみだって」と言って笑うばかりだ。
「それにしても、あんたの胸って触り心地いいよな」
「胸?」
「そ。服の上からでも触り甲斐があるし、擦ればすぐぷっくり膨らむし」
「ぷっくり……?」
何のことかと視線を落とそうとしたとき、背中をぞわっとしたものが走り抜けた。見ると勇者の手がわたしの胸の一点を擦るように動いている。
(最近、これをよくされるようになった)
撫でるだけでなくこうして擦り、それから摘むようにもなった。それをされると背中がぞわぞわして落ち着かなくなる。腰というか腹というか、その辺りが熱っぽくなるのも気になるところだ。
「なぁ、ちょっと見てもいいか?」
「何をだ?」
「胸。あー、ちょっと触ったり舐めたりするかもしんねぇけど、それ以上はしねぇからさ」
「舐める……?」
「大丈夫だって。体が元に戻るのにひと月もかかったんだ、さすがにまだしねぇから。いや、ちょっとやってみて平気そうなら先に進むってのもアリだとは思うけど」
よくわからないが、胸を見られたところでどうということはない。それに腹の穴が完全に塞がったときにも上半身はすべて見せている。
(あぁそうか、穴が塞がったままか確かめたいのか)
勇者は案外心配性なのかもしれない。そのことも忘れずに記しておかなくては。
「本当は先に記録をしたいのだが……まぁいいだろう」
「じゃ、ちょっと脱いで」
碧眼がキラキラと輝いている。こうした笑顔を見るたびに、もっとこういう表情を見たいと思うようになった。何をすれば笑うのかまだよくわからないが、こうして言葉を交わし表情を観察していればいつかわかる日も来るだろう。
「少し待て」
わたしが愛用しているローブはほとんどが前開きで、ボタンや紐を外せばストンと脱ぐことができる。この楽さでつい同じ形のローブばかり着ているのだが……と、紐を解く指を勇者がやけに熱心に見つめている。
(何だろうな)
気にはなったが、肩からローブを脱ぎ腰回りに布を纏わりつかせた状態で勇者を見上げた。
「……どうした?」
碧眼が睨むように体を見ていた。もしかしてどこかに傷が残っていたのだろうか。そう思って自分でも見てみたが、あれだけぽっかり空いていた腹の穴の痕跡もまったく見当たらない。
「勇者?」
「前にも見たけど……やっべぇ、メチャクチャエロい」
「えろい?」
「肌なんて真っ白だし、胸が大きいわけでもねぇのに、想像より色が綺麗でぷっくりしているからか……」
ゴクッと喉が鳴る音がした。どうしたのかと勇者の顔を見ると、なぜか目元が真っ赤になっていた。それにキラキラしていた碧眼がギラギラと輝きを増しているようにも見える。
(人間は胸を見るとこうなるのか?)
ふむ、それは興味深い。
(もしかして、見られる側になればまた違った表情になるのだろうか)
それならぜひ観察しておきたい。
「わたしも見てみたい」
「は?」
「胸を見てみたい」
「俺のをか?」
「あぁ」
頷きながらそう答えると、なぜかまたゴクッという音が聞こえた。
「よし、見せてやる」
勇者が勢いよくシャツを脱いだ。そういえば、わたしが勇者の体を見るのは初めてだ。現れた素肌の上半身をじっくりと観察する。
「やはり筋肉質なのだな」
「そうか?」
「わたしとはまったく違う。肩幅が広く腕も太いし、胸の筋肉も盛り上がっている。なるほど、腹の筋肉はこうなっているのか」
まるでいくつかの肉をくっつけたかのようにボコボコと盛り上がっていた。このような体は初めて見るからか目が離せなくなる。
ふと、左胸のところにある痣が目に入った。血のように赤いそれは、どことなく文字のように見えなくもない。
「この痣は……」
「あぁ、これか」
勇者の声が少しだけ固くなった。
「これ、勇者だって証拠の聖紋な。生まれてすぐに親に捨てられたんだけど、これがあったから神殿に拾われたんだ。で、物心ついたころから『おまえは勇者だ。人間のために魔王を殺せ』って言われ続けてきたってわけ。何もかもこの聖紋のせいだ」
聖紋のことは先々代魔王と、それより少し前の何人かの魔王が書物に書き記していた。詳しい模様までは記されていなかったが、なるほど普通の痣とは大きく違うから間違いようがない。
「勇者なんてクソ食らえってずっと思ってた。でも育ててもらった恩もあるし、仕方ねぇかって途中からは諦めてたんだ。勇者なんてなるもんじゃねぇって思ってたけど、あんたに会えたから結果オーライだな」
あぁ、またこの表情をさせてしまった。口元は笑っているのに、顔全体を見ると悲しんでいるように見える。こういう表情はできるだけさせたくないと、つくづく思った。
「尋ねるべきではなかったな」
「うん? いや、かまわないぜ? それに俺のことは何でも知っておいてほしいしな」
「そうなのか?」
「だって好きなヤツのことは全部知りてぇってのが普通だろ? 俺はあんたのことが好きだから何でも知りてぇし、あんただって俺のこと知りたがってるじゃねぇか」
「たしかに知りたいと思っている。だからこうして観察しているのだ」
「ははっ。ほんと魔族ってのは変わってるよな。好きだって言えばいいのに『観察しているのだ』って、マジメかよ」
勇者の言葉に「え?」と思った。
「いま、好きだと言ったか?」
「あぁ、言ったよ? だって俺はあんたが好きだし、あんたも俺のこと好きだろ?」
「わたしが、勇者を好き、」
思わずくり返してしまった。勇者がわたしに恋をしていることは知っている。しかし、わたしが勇者に恋をしていることには気づかなかった。
(魔族であるわたしが、恋をしている……?)
恋をする魔族もいるのだろうが出会ったことはない。そもそもわたしが恋をする魔族なのかすら知らなかった。
わたしの一族は生まれてすぐに単独行動を始める。種族同士が集まって生活することもないし、つがいを見つけるのも死期が近づいてからだ。
死期が近づくと自分の魔力を受け継がせるつぎの個体を作るため、つがいとなる相手を探す。自分が雌雄同体に近いから、相手の性別を気にする必要はない。相手の特徴を受け継ぐこともなため種族で選ぶこともなかった。そういうものだと生まれたときから知っている。
だから恋というものを感じることはないと思っていた。ところが勇者から見ると、わたしは恋をしているのだという。
「そうか、わたしは勇者に恋をしていたのか」
「なんだよ、改めて言われると照れるじゃねぇか」
「照れるのか?」
「そりゃあ、好きな相手に『恋をしている』って言われりゃうれしいだろ?」
勇者の頬が赤くなった。
(わたしも「恋をしている」と言われたらうれしいのだろうか)
改めて勇者がわたしに恋をしているのだと考えた。……なんだろう、胸の奥がざわりとする。これがうれしいという感覚なのだとしたら、たしかにわたしも恋をしていることなのだろう。
「そうか、わたしも恋をしていたのか」
頬が赤らんでいるかはわからないが、たしかに以前とは違う気がした。それに若干だが体の表面が熱くなったような気もする。
「つーか、上半身裸になったまま二人して何確認してんだろうな」
そう言って「ははっ」と笑う勇者の笑顔がやけに眩しく見えた。目にするだけでなぜか鼓動が少し速まっていく。
「よし、善は急げだ。これから一緒に風呂に入ろうぜ」
「いまからか? 湯を使うのは夜じゃないのか?」
「それは寝る前の風呂で、いまから入る風呂はセッ……って、魔族だとこういうこと何て言うんだ?」
何やら真剣な顔をして宙を睨んでいる。初めて見る様子にじっと見つめていると、「まぁ、いっか」とつぶやいた勇者がグッと顔を近づけてきた。
「勇者?」
「先にキスしようぜ」
「きす?」
「ほら、目ぇ閉じて」
よくわからないが、言われるままに目を閉じる。するとすぐに勇者の気配が近づき、そうして唇に熱いものが触れた。
(手か? いや、それにしては柔らかすぎるような)
柔らかくて熱いものが、わたしの唇を噛むように何度も動いている。どうすべきかわからず噛まれ続けていると、今度はさらに熱くて柔らかいものが触れていることに気がついた。それがググッと唇を割り口の中へと入ってくる。
「ゆぅ、んっ」
勇者と呼ぶ前に舌を熱いものに擦られて驚いた。口の中で何かが動くというのは初めてのことで何とも言えない感覚になる。かといって不快というわけでもなく、しかし心地よいという感じでもないような気がした。
(なんというか、背中がぞわっとして落ち着かない)
気のせいでなければ腹の辺りが少し熱くなってきた。それに気を取られていると、裸の胸を指に引っ掻かれて「んふっ」という奇妙な声が漏れてしまった。
そのままカリカリと胸を引っ掻かれながら、口の中では熱いものがぐるぐると動き回っている。初めて感じる奇妙な感覚に、気がつけば勇者の腕を必死に掴んでいるような状態になっていた。
「……あー、やべぇ。メチャクチャエロいんだけど」
唇を塞いでいたものがようやく離れた。ゆっくり瞼を開くと、すぐ目の前に勇者の顔がある。少し濡れている唇が気になって見ていると その唇を赤い舌がぺろりと舐め上げた。たったそれだけのことなのに、なぜか腰がぞわっと震える。
「よし、いますぐ風呂に行こう。でもって、大丈夫そうならそのままベッドに行こう」
「湯と、ベッド……?」
「たぶん大丈夫だと思うけど、あー、がっついたらごめん。先に謝っとく」
「がっつく?」
何を話しているのかさっぱりわからない。体の奥に奇妙な熱を感じるからか、勇者の言葉が耳からこぼれ落ちてしまう。
「ほら、手ぇ貸して」
「あぁ、すまない」
手を引かれ立ち上がると、腰に纏わりついていたローブが足元に落ちた。そういえば半分脱いでいたのだったと思い出す。
「ローブが、」
「どうせ脱ぐんだから放っておけよ」
「しかし、裸のまま歩くというのは少し……」
「俺しか見てねぇんだからいいだろ?」
そういうものなのだろうか。人間は羞恥心が強いと書物に書いてあったが、個体差があるのだろうか。
「勇者はこれまでの勇者と違っているな」
「ははっ、褒めんなよ。つーか、俺はもう勇者じゃねぇけどな」
「あぁ、そうか。勇者は辞めたのだったな」
わたしの言葉に、上半身裸のまま歩き出した勇者の足がぴたりと止まった。
「そういや名前、聞いてなかったな」
「名前?」
「そう、あんたの名前」
「それを言うなら、わたしも勇者の名前を知らないぞ」
「そういや名乗ってなかったわ」
そう言って笑った勇者が、わたしの右手をぎゅっと握りながら歩き出した。
「じゃ、俺から名乗るな。俺の名前は――」
問題は魔力のほうだった。根源から生み出される魔力の質が大きく変わってしまったようで、以前のように無意識に使うことが少し難しい。魔力を注がれているときにも若干の違和感を感じていたが、まさか魔力の質が変異するとは想像もしなかった。
(慣れるまでは少し苦労しそうだな)
元々再生魔法を得意としていたわたしだが、どうもその能力が格段に上がったような気がする。しかも他者を再生する力まで備わってしまったようだ。これでは書物にある神官のようだなと思わなくもないが、“壁”自体も強化されたようだから全体的な能力の底上げといった状態なのだろう。
(勇者の観察とあわせて自分の観察記録も残しておくか)
神官のような力を途中で得た魔族など珍しいはずだ。己のことながら非常に興味深い。せっかくだからわたしの記録も残すことにしよう。
(さて、記録書にペン、それからインクを……)
大きな机の前の椅子に座り、書き記すための準備を始めた手がぴたりと止まった。「またか」と小さくため息をつきながら振り返る。
「もう魔力の供給は必要ないと思うのだが?」
何度目かわからない言葉を口にすると、「違ぇよ」とこれまたいつもと同じ返事が聞こえてきた。そうして伸びてきた手がわたしの二の腕を撫で始める。
「これは魔力を送ってんじゃねぇ。愛情表現だ」
「愛情表現?」
たしか先々代魔王の書物の後半に多く登場する言葉だ。恋を成就させた者同士が互いの気持ちを確かめ合う行為、と書かれていた記憶がある。
「そ、愛情表現。人間が好きな相手にすることな」
そう言った勇者の手が腕から肩を撫で上げた。そのまま首筋を撫で、つぎは顔に触れるのかと思えばするすると下りて鎖骨の辺りを撫でている。
(なんというか、奇妙な感じがするな)
体を撫でられる経験がなかったからか、触れられるだけで背中がぞわっとする。しばらく撫でられていると腰の辺りがむずむずすることもあった。そんな感覚は初めてで、自分の体なのにどうしてそうなるのかわからない。
「人間は好きな相手のことをたくさん触りたくなるんだ」
「ほう、それは興味深いな」
そう答えると、「だろ?」と言った勇者の手が胸に降りてきた。今日は薄手のローブだからか、いつもより手の熱さを強く感じるような気がする。
「魔族ってのは体温が低いんだな」
「常時燃えている魔族もいるが、わたしは比較的低温のほうだろうな」
「寝てるときも冷たいよな」
「さぁ、眠っている間のことはわからない」
就寝中の体温なら、毎晩わたしを抱きかかえて寝ている勇者のほうが詳しいだろう。
「なぁ、風呂でも体温まんねぇのか?」
「湯を使うことはほとんどないからわからない」
「それって風呂に入らねぇってことか?」
「体を洗うかという意味でなら、わたしには必要ない。つねに魔力が表面を移動しているから、いつでも生まれたてのようなものだ」
胸を撫でていた指が不意に襟との境目に潜り込んできた。「へぇ、生まれたてね」と言って擦るように何度も肌を撫でる。
「なぁ、湯に浸かるのは嫌いか?」
「さぁ、やったことがないからわからないな」
「じゃ、今度やってみようぜ。俺がいろいろ教えてやるからさ」
「ふむ、湯か」
湯に浸かるなど考えたこともなかった。毎日湯を使う勇者を見て興味深いとは思っていたが、自分で体験してみるのもよさそうだ。
「おもしろそうだな」
「じゃ、決まりな? とりあえず湯があれば中を洗うこともできるだろうし、ついでにほぐすところまではやってしまいてぇし」
「中を洗う? ほぐす?」
「ま、ちょーっと入れるくらいはご褒美ってことで」
またわからないことを言い始めた。理解できない勇者の言葉を毎日記録しているものの増えていく一方だ。もちろん意味を尋ねることもあるが、相変わらず「そのときのお楽しみだって」と言って笑うばかりだ。
「それにしても、あんたの胸って触り心地いいよな」
「胸?」
「そ。服の上からでも触り甲斐があるし、擦ればすぐぷっくり膨らむし」
「ぷっくり……?」
何のことかと視線を落とそうとしたとき、背中をぞわっとしたものが走り抜けた。見ると勇者の手がわたしの胸の一点を擦るように動いている。
(最近、これをよくされるようになった)
撫でるだけでなくこうして擦り、それから摘むようにもなった。それをされると背中がぞわぞわして落ち着かなくなる。腰というか腹というか、その辺りが熱っぽくなるのも気になるところだ。
「なぁ、ちょっと見てもいいか?」
「何をだ?」
「胸。あー、ちょっと触ったり舐めたりするかもしんねぇけど、それ以上はしねぇからさ」
「舐める……?」
「大丈夫だって。体が元に戻るのにひと月もかかったんだ、さすがにまだしねぇから。いや、ちょっとやってみて平気そうなら先に進むってのもアリだとは思うけど」
よくわからないが、胸を見られたところでどうということはない。それに腹の穴が完全に塞がったときにも上半身はすべて見せている。
(あぁそうか、穴が塞がったままか確かめたいのか)
勇者は案外心配性なのかもしれない。そのことも忘れずに記しておかなくては。
「本当は先に記録をしたいのだが……まぁいいだろう」
「じゃ、ちょっと脱いで」
碧眼がキラキラと輝いている。こうした笑顔を見るたびに、もっとこういう表情を見たいと思うようになった。何をすれば笑うのかまだよくわからないが、こうして言葉を交わし表情を観察していればいつかわかる日も来るだろう。
「少し待て」
わたしが愛用しているローブはほとんどが前開きで、ボタンや紐を外せばストンと脱ぐことができる。この楽さでつい同じ形のローブばかり着ているのだが……と、紐を解く指を勇者がやけに熱心に見つめている。
(何だろうな)
気にはなったが、肩からローブを脱ぎ腰回りに布を纏わりつかせた状態で勇者を見上げた。
「……どうした?」
碧眼が睨むように体を見ていた。もしかしてどこかに傷が残っていたのだろうか。そう思って自分でも見てみたが、あれだけぽっかり空いていた腹の穴の痕跡もまったく見当たらない。
「勇者?」
「前にも見たけど……やっべぇ、メチャクチャエロい」
「えろい?」
「肌なんて真っ白だし、胸が大きいわけでもねぇのに、想像より色が綺麗でぷっくりしているからか……」
ゴクッと喉が鳴る音がした。どうしたのかと勇者の顔を見ると、なぜか目元が真っ赤になっていた。それにキラキラしていた碧眼がギラギラと輝きを増しているようにも見える。
(人間は胸を見るとこうなるのか?)
ふむ、それは興味深い。
(もしかして、見られる側になればまた違った表情になるのだろうか)
それならぜひ観察しておきたい。
「わたしも見てみたい」
「は?」
「胸を見てみたい」
「俺のをか?」
「あぁ」
頷きながらそう答えると、なぜかまたゴクッという音が聞こえた。
「よし、見せてやる」
勇者が勢いよくシャツを脱いだ。そういえば、わたしが勇者の体を見るのは初めてだ。現れた素肌の上半身をじっくりと観察する。
「やはり筋肉質なのだな」
「そうか?」
「わたしとはまったく違う。肩幅が広く腕も太いし、胸の筋肉も盛り上がっている。なるほど、腹の筋肉はこうなっているのか」
まるでいくつかの肉をくっつけたかのようにボコボコと盛り上がっていた。このような体は初めて見るからか目が離せなくなる。
ふと、左胸のところにある痣が目に入った。血のように赤いそれは、どことなく文字のように見えなくもない。
「この痣は……」
「あぁ、これか」
勇者の声が少しだけ固くなった。
「これ、勇者だって証拠の聖紋な。生まれてすぐに親に捨てられたんだけど、これがあったから神殿に拾われたんだ。で、物心ついたころから『おまえは勇者だ。人間のために魔王を殺せ』って言われ続けてきたってわけ。何もかもこの聖紋のせいだ」
聖紋のことは先々代魔王と、それより少し前の何人かの魔王が書物に書き記していた。詳しい模様までは記されていなかったが、なるほど普通の痣とは大きく違うから間違いようがない。
「勇者なんてクソ食らえってずっと思ってた。でも育ててもらった恩もあるし、仕方ねぇかって途中からは諦めてたんだ。勇者なんてなるもんじゃねぇって思ってたけど、あんたに会えたから結果オーライだな」
あぁ、またこの表情をさせてしまった。口元は笑っているのに、顔全体を見ると悲しんでいるように見える。こういう表情はできるだけさせたくないと、つくづく思った。
「尋ねるべきではなかったな」
「うん? いや、かまわないぜ? それに俺のことは何でも知っておいてほしいしな」
「そうなのか?」
「だって好きなヤツのことは全部知りてぇってのが普通だろ? 俺はあんたのことが好きだから何でも知りてぇし、あんただって俺のこと知りたがってるじゃねぇか」
「たしかに知りたいと思っている。だからこうして観察しているのだ」
「ははっ。ほんと魔族ってのは変わってるよな。好きだって言えばいいのに『観察しているのだ』って、マジメかよ」
勇者の言葉に「え?」と思った。
「いま、好きだと言ったか?」
「あぁ、言ったよ? だって俺はあんたが好きだし、あんたも俺のこと好きだろ?」
「わたしが、勇者を好き、」
思わずくり返してしまった。勇者がわたしに恋をしていることは知っている。しかし、わたしが勇者に恋をしていることには気づかなかった。
(魔族であるわたしが、恋をしている……?)
恋をする魔族もいるのだろうが出会ったことはない。そもそもわたしが恋をする魔族なのかすら知らなかった。
わたしの一族は生まれてすぐに単独行動を始める。種族同士が集まって生活することもないし、つがいを見つけるのも死期が近づいてからだ。
死期が近づくと自分の魔力を受け継がせるつぎの個体を作るため、つがいとなる相手を探す。自分が雌雄同体に近いから、相手の性別を気にする必要はない。相手の特徴を受け継ぐこともなため種族で選ぶこともなかった。そういうものだと生まれたときから知っている。
だから恋というものを感じることはないと思っていた。ところが勇者から見ると、わたしは恋をしているのだという。
「そうか、わたしは勇者に恋をしていたのか」
「なんだよ、改めて言われると照れるじゃねぇか」
「照れるのか?」
「そりゃあ、好きな相手に『恋をしている』って言われりゃうれしいだろ?」
勇者の頬が赤くなった。
(わたしも「恋をしている」と言われたらうれしいのだろうか)
改めて勇者がわたしに恋をしているのだと考えた。……なんだろう、胸の奥がざわりとする。これがうれしいという感覚なのだとしたら、たしかにわたしも恋をしていることなのだろう。
「そうか、わたしも恋をしていたのか」
頬が赤らんでいるかはわからないが、たしかに以前とは違う気がした。それに若干だが体の表面が熱くなったような気もする。
「つーか、上半身裸になったまま二人して何確認してんだろうな」
そう言って「ははっ」と笑う勇者の笑顔がやけに眩しく見えた。目にするだけでなぜか鼓動が少し速まっていく。
「よし、善は急げだ。これから一緒に風呂に入ろうぜ」
「いまからか? 湯を使うのは夜じゃないのか?」
「それは寝る前の風呂で、いまから入る風呂はセッ……って、魔族だとこういうこと何て言うんだ?」
何やら真剣な顔をして宙を睨んでいる。初めて見る様子にじっと見つめていると、「まぁ、いっか」とつぶやいた勇者がグッと顔を近づけてきた。
「勇者?」
「先にキスしようぜ」
「きす?」
「ほら、目ぇ閉じて」
よくわからないが、言われるままに目を閉じる。するとすぐに勇者の気配が近づき、そうして唇に熱いものが触れた。
(手か? いや、それにしては柔らかすぎるような)
柔らかくて熱いものが、わたしの唇を噛むように何度も動いている。どうすべきかわからず噛まれ続けていると、今度はさらに熱くて柔らかいものが触れていることに気がついた。それがググッと唇を割り口の中へと入ってくる。
「ゆぅ、んっ」
勇者と呼ぶ前に舌を熱いものに擦られて驚いた。口の中で何かが動くというのは初めてのことで何とも言えない感覚になる。かといって不快というわけでもなく、しかし心地よいという感じでもないような気がした。
(なんというか、背中がぞわっとして落ち着かない)
気のせいでなければ腹の辺りが少し熱くなってきた。それに気を取られていると、裸の胸を指に引っ掻かれて「んふっ」という奇妙な声が漏れてしまった。
そのままカリカリと胸を引っ掻かれながら、口の中では熱いものがぐるぐると動き回っている。初めて感じる奇妙な感覚に、気がつけば勇者の腕を必死に掴んでいるような状態になっていた。
「……あー、やべぇ。メチャクチャエロいんだけど」
唇を塞いでいたものがようやく離れた。ゆっくり瞼を開くと、すぐ目の前に勇者の顔がある。少し濡れている唇が気になって見ていると その唇を赤い舌がぺろりと舐め上げた。たったそれだけのことなのに、なぜか腰がぞわっと震える。
「よし、いますぐ風呂に行こう。でもって、大丈夫そうならそのままベッドに行こう」
「湯と、ベッド……?」
「たぶん大丈夫だと思うけど、あー、がっついたらごめん。先に謝っとく」
「がっつく?」
何を話しているのかさっぱりわからない。体の奥に奇妙な熱を感じるからか、勇者の言葉が耳からこぼれ落ちてしまう。
「ほら、手ぇ貸して」
「あぁ、すまない」
手を引かれ立ち上がると、腰に纏わりついていたローブが足元に落ちた。そういえば半分脱いでいたのだったと思い出す。
「ローブが、」
「どうせ脱ぐんだから放っておけよ」
「しかし、裸のまま歩くというのは少し……」
「俺しか見てねぇんだからいいだろ?」
そういうものなのだろうか。人間は羞恥心が強いと書物に書いてあったが、個体差があるのだろうか。
「勇者はこれまでの勇者と違っているな」
「ははっ、褒めんなよ。つーか、俺はもう勇者じゃねぇけどな」
「あぁ、そうか。勇者は辞めたのだったな」
わたしの言葉に、上半身裸のまま歩き出した勇者の足がぴたりと止まった。
「そういや名前、聞いてなかったな」
「名前?」
「そう、あんたの名前」
「それを言うなら、わたしも勇者の名前を知らないぞ」
「そういや名乗ってなかったわ」
そう言って笑った勇者が、わたしの右手をぎゅっと握りながら歩き出した。
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