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13 新作戦①王弟殿下を惑わす
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「ようこそ我が屋敷へ……と言いたいところだが、いまは王城の片隅に間借りしている身でね」
そう言いながら王太子によく似た緑眼がにこりと微笑んだ。その部屋は国王や王太子が住む王城の奥から少し離れた場所で、美しい庭に突き出るように作られた部屋だった。オペラを案内しながら「昔からこの部屋が大好きで、子どもの頃はよく潜り込んだものだ」と語るグラニーテ公は、昔を懐かしんでいるのか少し遠い目をしている。
「素敵なお部屋ですわ」
「ありがとう。今日はそれほど暑くないから向こうにテーブルを用意させた」
そう言ってグラニーテ公が促したのは、大きな掃き出し窓から外に続いている場所だった。一部は柵で囲まれているものの庭に繋がっているからか開放感がある。一角に置かれたテーブルにはティーカップや焼き菓子の皿が置かれ、ソファに座れば美しく咲き誇る薔薇がよく見えた。
「お庭も素敵ですわ」
「あの辺りに咲いている薔薇は棘がなくてね。……ほら、このとおり手にするにはぴったりだ。それに小振りな花もキュートだろう?」
「まぁ、ありがとうございます」
あらかじめ用意していたらしい薔薇を差し出すグラニーテ公に微笑みながら、受け取った花に顔を寄せる。そうしてわずかに目を伏せながら「いい香り」と口にした。
「オペラ嬢には花がよく似合う。しかし薔薇の花でさえきみの前では霞んでしまうようだ」
こうした賛辞はオペラにとって聞き慣れた子守歌のようなものだ。しかも投げかけてくるのは同年代の貴族子息ではなくその父親たちで、大抵は公爵家に近づきたいか未来のオペラの地位にあやかりたいかのどちらかを考えてのものだった。
わかっているから何を言われてもオペラの心が動くことはない。それなのにグラニーテ公の言葉からはかすかに熱のようなものを感じ、伏せていた視線を斜め左側に座るグラニーテ公に向ける。
(ボンボール公はガトーオロム家にすり寄る必要がない方。それなのに、どうして熱っぽくおっしゃるのかしら)
オペラを見る眼差しも貴族子息たちの父親とは少し違っていた。いつもと違う何かを敏感に感じ取ったオペラは、警戒しながらも「これなら……」とわずかに肩に力が入った。
(ボンボール公がわたくしを意識していらっしゃるのなら、きっと成功するわ)
一人の女性として見ているのなら話は早い。そう考えながらもオペラの胸がちりりと痛む。
(これはわたくしが悪役令嬢にならないための最善の方法。“ぷろぐらむ”に負けるわけにはいかない、心を鬼にしなくては駄目)
グラニーテ公に気に入られ、今度行われる大きなお茶会でそれらしい雰囲気を周囲に見せなくてはいけない。グラニーテ公が主催するお茶会には有力貴族たちが大勢集まるはずで、そこで恋仲らしい様子を見せれば噂は当日の間に広がる。そうなればオペラが王太子妃候補から外れる日もグッと近づくことになる。
問題はグラニーテ公のほうだ。いかに恋多き人物とはいえ、可愛い甥の妃候補に秋波を送られて嫌な気分にならないかが心配だった。
(でも、この様子ならきっと大丈夫だわ)
グラニーテ公の眼差しは甥の妃候補を見るにしては熱心だ。久しぶりに王城に戻り、昔の恋多き自分を思い出したのかもしれない。それならオペラの誘惑に乗ってくる可能性が高い。そうした恋の駆け引きをしたことがないオペラだが、「きっと成功するわ」と胸の内で力強く頷いた。
「オペラ嬢はチョコレートはお好きかな」
気を引き締め直したオペラは、テーブルに薔薇を置くと「えぇ」と微笑んだ。
「お茶会のときに、たまにいただきますわ」
「では、こうしたものはいかがかな」
テーブルには焼き菓子が並ぶ皿の隣に蓋を被せた皿があった。グラニーテ公がその蓋を取ると、中には果物を使った色とりどりの砂糖菓子が並んでいた。一口大の四角い砂糖菓子の半分はチョコレートで覆われ、そうしたお菓子はオペラも初めて見るものだった。
「こちらはコンフィズリー、こちらはドライフルーツにチョコレートをかけたものだ」
チョコレートがかかった砂糖菓子の隣には、オレンジやレモンを乾燥させ細く長く切ったものが並んでいる。そちらの下半分もチョコレートに覆われていた。
「柑橘類にチョコレートをかけたものが僕のお気に入りでね。ぜひオペラ嬢にも味わってもらいたくて用意させた」
「まぁ、ありがとうございます」
にこりと微笑みフォークでオレンジのものを取ろうとした。ところが「待って」と言われ手を止める。
「こうしたものは指で摘んで食べると、よりおいしく感じるものだ」
そう言いながらグラニーテ公がレモンのチョコレートがけを指で摘み上げた。そのままポイと口に放り込み、「うん、おいしい」と笑う。その様子にオペラは目を見開いた。
クッキーのような焼き菓子ならいざ知らず、砂糖菓子やケーキといったお菓子はフォークやスプーンで食べるのが常識だ。それを無視する姿に驚き、同時に「やっぱりおもしろい方」と思った。それに悪戯が成功したような笑顔も悪くない。
(周りにいるどんな貴族の方々とも違っていらっしゃる)
前回の会話でもそう感じたが、話も仕草もオペラの予想していないことを次々と見せてくれた。少し下世話な話が混じっていても嫌悪感を抱くことはなく、いまのように不作法としか言いようがないことも不思議と許せてしまう。
(だからこそ、いまでもボンボール公は人気がおありなのかもしれないわ)
王城の社交界から去って久しいグラニーテ公だが、いまだに社交界では恋の遍歴が語り継がれていた。
「コンフィズリーは一口で、ドライフルーツは二口で食べるのがよさそうだ」
そう笑いながら「さぁ」と勧めるグラニーテ公をおもしろい方と思うものの、オペラまで指で摘んで食べることなどできるはずがない。
「さすがにわたくしがそのようなことをしては、みっともないだけですわ」
「では、僕が食べさせてあげよう」
「え……?」
オレンジのチョコレートがけを指で掴んだグラニーテ公が、「さぁ」とオペラの口元に差し出した。まさかの行動にはさすがのオペラも戸惑った。これまでどんなことにも対応できるようにと教育を受けてきたが、こんなことは想定外でどうしていいのか咄嗟に返事ができない。あれこれ考えながら何度もパチパチと瞬きをした。
「さぁ、召し上がれ」
差し出されたチョコレートがけのオレンジに視線を向け、それからグラニーテ公を見る。グラニーテ公の表情はからかっているようには見えない。同時に拒絶するのは難しそうな気配を漂わせていた。
「ボンボール公、さすがにこれは……」
「大丈夫、侍女たちは見ていない」
ちらりと室内に視線を向けると、グラニーテ公が言うとおり侍女たちは誰一人こちらを見ていなかった。王城勤めの侍女らしくどんな状況にも眉一つ動かすことなく、また何を見ても口外することはないだろう。
侍女たちに向けていた視線を再びグラニーテ公に戻した。「さぁどうぞ」というようにさらにお菓子を近づける様子から諦めるつもりはないのだとオペラは悟った。
(どういうおつもりなのかしら)
グラニーテ公と顔を合わせるのは今日が二度目で、こうしたやり取りをするほど親しいわけでもない。親族ならあり得るとしても……いや、オペラは二十七歳の大人だ。社交界で完璧な淑女と言われているオペラ相手にこうしたことをする親族もいないだろう。
「遠慮することはない」
このままでは食べるまでお菓子を差し出し続けそうだ。オペラはあれこれ考えていたことを中断し、膝に置いた手をギュッと握り締め覚悟を決めた。
「……それでは」
「失礼します」というのもおかしい。言葉を続けるのをやめ、お菓子を見ながらわずかに目を伏せた。そうして艶やかな唇をほんの少し開け、子リスが木の実を囓るようにチョコレートがかかっている部分を少しだけ囓る。
最初に口に広がったのはチョコレートの甘い味と濃厚な香りだった。次にオレンジの爽やかな香りが広がり鼻に抜けていく。
「これで二つ目といったところかな」
グラニーテ公が何かを囁いた。しかし思った以上にうろたえていたオペラの耳には届いていない。いつもなら相手をよく観察しているところだが、早く飲み込まなくてはと咀嚼することに夢中になっていたため顔すら見ていなかった。そんなオペラを見つめながら「今日はこの前のお詫びをしたくてね」とグラニーテ公が話し始める。
「お詫び、ですか?」
「そう、お詫びだ」
オペラが視線を向けると、摘んでいたお菓子の残りをポイと口に放り込んだ。「うん、オレンジもおいしいね」と微笑む姿にオペラは唖然とした。
(食べかけのものをお食べになるなんて……)
さすがにそれは不作法すぎやしないだろうか。そう思ったものの、なぜかオペラの胸はとくんと鳴り、続けてトクトクと鼓動が忙しなくなった。同時にグラニーテ公はこういう方だという思いが脳裏をよぎる。
「強引に茶に誘うのは紳士的じゃなかったと、あれから反省してね、それでお詫びにこうしてお茶に誘い直したというわけだ」
「そう、ですか」
動揺しながらもかろうじて言葉を返す。
「確かに僕は以前からオペラ嬢に会いたいと思っていた。できれば話をしたいとも思っていた。だからといって強引に誘うのはよくない。この年になって若造のようなことをしてしまったと恥じたところだ」
「あぁ、もちろん甥っ子の話をしたかったのも本当だよ」と言いながらにこりと笑った。
「あのときのことは、どうぞお気になさらないでください」
「許してくれるかい?」
「許すもなにも、悪いことなどなさっていらっしゃいませんもの。それにカラム殿下のことを心配されてのことだとわかっております。ボンボール公はお優しくていらっしゃいますわ」
ようやく気持ちが落ち着いた。落ち着きさえすればいつもどおりに振る舞うことができる。そう思いホッとしたオペラだったが、グラニーテ公の眼差しを見ると再び落ち着かない気持ちになった。
「さて、それはどうだろう。優しさだと偽ってオペラ嬢に近づきたいだけかもしれない」
若葉色の緑眼がじっとオペラを見ている。それは視線を逸らすのを許さないと言わんばかりの強さで、かろうじて表情を変えずにいるオペラも内心戸惑っていた。
いまらな誘うことができる、狙っていた好機だ。わかっているのに、いざそうなると思考がぴたりと止まってしまう。貴族としての駆け引きには慣れているものの、色恋に関わることは皆無だったオペラは考えていたことの一つも言葉にすることができなかった。
「こうしてお近づきになれたのは本当にラッキーだ。四日後のお茶会も楽しみにしているよ」
ソファから立ち上がったグラニーテ公が左手を後ろに回し、腰を少し屈めながら右手を差し出した。オペラは条件反射で左手を載せた。それににこりと微笑んだグラニーテ公がゆっくりとその手を持ち上げ、指先に触れるだけの口づけを落とす。オペラはその様子をただじっと見つめることしかできなかった。
そう言いながら王太子によく似た緑眼がにこりと微笑んだ。その部屋は国王や王太子が住む王城の奥から少し離れた場所で、美しい庭に突き出るように作られた部屋だった。オペラを案内しながら「昔からこの部屋が大好きで、子どもの頃はよく潜り込んだものだ」と語るグラニーテ公は、昔を懐かしんでいるのか少し遠い目をしている。
「素敵なお部屋ですわ」
「ありがとう。今日はそれほど暑くないから向こうにテーブルを用意させた」
そう言ってグラニーテ公が促したのは、大きな掃き出し窓から外に続いている場所だった。一部は柵で囲まれているものの庭に繋がっているからか開放感がある。一角に置かれたテーブルにはティーカップや焼き菓子の皿が置かれ、ソファに座れば美しく咲き誇る薔薇がよく見えた。
「お庭も素敵ですわ」
「あの辺りに咲いている薔薇は棘がなくてね。……ほら、このとおり手にするにはぴったりだ。それに小振りな花もキュートだろう?」
「まぁ、ありがとうございます」
あらかじめ用意していたらしい薔薇を差し出すグラニーテ公に微笑みながら、受け取った花に顔を寄せる。そうしてわずかに目を伏せながら「いい香り」と口にした。
「オペラ嬢には花がよく似合う。しかし薔薇の花でさえきみの前では霞んでしまうようだ」
こうした賛辞はオペラにとって聞き慣れた子守歌のようなものだ。しかも投げかけてくるのは同年代の貴族子息ではなくその父親たちで、大抵は公爵家に近づきたいか未来のオペラの地位にあやかりたいかのどちらかを考えてのものだった。
わかっているから何を言われてもオペラの心が動くことはない。それなのにグラニーテ公の言葉からはかすかに熱のようなものを感じ、伏せていた視線を斜め左側に座るグラニーテ公に向ける。
(ボンボール公はガトーオロム家にすり寄る必要がない方。それなのに、どうして熱っぽくおっしゃるのかしら)
オペラを見る眼差しも貴族子息たちの父親とは少し違っていた。いつもと違う何かを敏感に感じ取ったオペラは、警戒しながらも「これなら……」とわずかに肩に力が入った。
(ボンボール公がわたくしを意識していらっしゃるのなら、きっと成功するわ)
一人の女性として見ているのなら話は早い。そう考えながらもオペラの胸がちりりと痛む。
(これはわたくしが悪役令嬢にならないための最善の方法。“ぷろぐらむ”に負けるわけにはいかない、心を鬼にしなくては駄目)
グラニーテ公に気に入られ、今度行われる大きなお茶会でそれらしい雰囲気を周囲に見せなくてはいけない。グラニーテ公が主催するお茶会には有力貴族たちが大勢集まるはずで、そこで恋仲らしい様子を見せれば噂は当日の間に広がる。そうなればオペラが王太子妃候補から外れる日もグッと近づくことになる。
問題はグラニーテ公のほうだ。いかに恋多き人物とはいえ、可愛い甥の妃候補に秋波を送られて嫌な気分にならないかが心配だった。
(でも、この様子ならきっと大丈夫だわ)
グラニーテ公の眼差しは甥の妃候補を見るにしては熱心だ。久しぶりに王城に戻り、昔の恋多き自分を思い出したのかもしれない。それならオペラの誘惑に乗ってくる可能性が高い。そうした恋の駆け引きをしたことがないオペラだが、「きっと成功するわ」と胸の内で力強く頷いた。
「オペラ嬢はチョコレートはお好きかな」
気を引き締め直したオペラは、テーブルに薔薇を置くと「えぇ」と微笑んだ。
「お茶会のときに、たまにいただきますわ」
「では、こうしたものはいかがかな」
テーブルには焼き菓子が並ぶ皿の隣に蓋を被せた皿があった。グラニーテ公がその蓋を取ると、中には果物を使った色とりどりの砂糖菓子が並んでいた。一口大の四角い砂糖菓子の半分はチョコレートで覆われ、そうしたお菓子はオペラも初めて見るものだった。
「こちらはコンフィズリー、こちらはドライフルーツにチョコレートをかけたものだ」
チョコレートがかかった砂糖菓子の隣には、オレンジやレモンを乾燥させ細く長く切ったものが並んでいる。そちらの下半分もチョコレートに覆われていた。
「柑橘類にチョコレートをかけたものが僕のお気に入りでね。ぜひオペラ嬢にも味わってもらいたくて用意させた」
「まぁ、ありがとうございます」
にこりと微笑みフォークでオレンジのものを取ろうとした。ところが「待って」と言われ手を止める。
「こうしたものは指で摘んで食べると、よりおいしく感じるものだ」
そう言いながらグラニーテ公がレモンのチョコレートがけを指で摘み上げた。そのままポイと口に放り込み、「うん、おいしい」と笑う。その様子にオペラは目を見開いた。
クッキーのような焼き菓子ならいざ知らず、砂糖菓子やケーキといったお菓子はフォークやスプーンで食べるのが常識だ。それを無視する姿に驚き、同時に「やっぱりおもしろい方」と思った。それに悪戯が成功したような笑顔も悪くない。
(周りにいるどんな貴族の方々とも違っていらっしゃる)
前回の会話でもそう感じたが、話も仕草もオペラの予想していないことを次々と見せてくれた。少し下世話な話が混じっていても嫌悪感を抱くことはなく、いまのように不作法としか言いようがないことも不思議と許せてしまう。
(だからこそ、いまでもボンボール公は人気がおありなのかもしれないわ)
王城の社交界から去って久しいグラニーテ公だが、いまだに社交界では恋の遍歴が語り継がれていた。
「コンフィズリーは一口で、ドライフルーツは二口で食べるのがよさそうだ」
そう笑いながら「さぁ」と勧めるグラニーテ公をおもしろい方と思うものの、オペラまで指で摘んで食べることなどできるはずがない。
「さすがにわたくしがそのようなことをしては、みっともないだけですわ」
「では、僕が食べさせてあげよう」
「え……?」
オレンジのチョコレートがけを指で掴んだグラニーテ公が、「さぁ」とオペラの口元に差し出した。まさかの行動にはさすがのオペラも戸惑った。これまでどんなことにも対応できるようにと教育を受けてきたが、こんなことは想定外でどうしていいのか咄嗟に返事ができない。あれこれ考えながら何度もパチパチと瞬きをした。
「さぁ、召し上がれ」
差し出されたチョコレートがけのオレンジに視線を向け、それからグラニーテ公を見る。グラニーテ公の表情はからかっているようには見えない。同時に拒絶するのは難しそうな気配を漂わせていた。
「ボンボール公、さすがにこれは……」
「大丈夫、侍女たちは見ていない」
ちらりと室内に視線を向けると、グラニーテ公が言うとおり侍女たちは誰一人こちらを見ていなかった。王城勤めの侍女らしくどんな状況にも眉一つ動かすことなく、また何を見ても口外することはないだろう。
侍女たちに向けていた視線を再びグラニーテ公に戻した。「さぁどうぞ」というようにさらにお菓子を近づける様子から諦めるつもりはないのだとオペラは悟った。
(どういうおつもりなのかしら)
グラニーテ公と顔を合わせるのは今日が二度目で、こうしたやり取りをするほど親しいわけでもない。親族ならあり得るとしても……いや、オペラは二十七歳の大人だ。社交界で完璧な淑女と言われているオペラ相手にこうしたことをする親族もいないだろう。
「遠慮することはない」
このままでは食べるまでお菓子を差し出し続けそうだ。オペラはあれこれ考えていたことを中断し、膝に置いた手をギュッと握り締め覚悟を決めた。
「……それでは」
「失礼します」というのもおかしい。言葉を続けるのをやめ、お菓子を見ながらわずかに目を伏せた。そうして艶やかな唇をほんの少し開け、子リスが木の実を囓るようにチョコレートがかかっている部分を少しだけ囓る。
最初に口に広がったのはチョコレートの甘い味と濃厚な香りだった。次にオレンジの爽やかな香りが広がり鼻に抜けていく。
「これで二つ目といったところかな」
グラニーテ公が何かを囁いた。しかし思った以上にうろたえていたオペラの耳には届いていない。いつもなら相手をよく観察しているところだが、早く飲み込まなくてはと咀嚼することに夢中になっていたため顔すら見ていなかった。そんなオペラを見つめながら「今日はこの前のお詫びをしたくてね」とグラニーテ公が話し始める。
「お詫び、ですか?」
「そう、お詫びだ」
オペラが視線を向けると、摘んでいたお菓子の残りをポイと口に放り込んだ。「うん、オレンジもおいしいね」と微笑む姿にオペラは唖然とした。
(食べかけのものをお食べになるなんて……)
さすがにそれは不作法すぎやしないだろうか。そう思ったものの、なぜかオペラの胸はとくんと鳴り、続けてトクトクと鼓動が忙しなくなった。同時にグラニーテ公はこういう方だという思いが脳裏をよぎる。
「強引に茶に誘うのは紳士的じゃなかったと、あれから反省してね、それでお詫びにこうしてお茶に誘い直したというわけだ」
「そう、ですか」
動揺しながらもかろうじて言葉を返す。
「確かに僕は以前からオペラ嬢に会いたいと思っていた。できれば話をしたいとも思っていた。だからといって強引に誘うのはよくない。この年になって若造のようなことをしてしまったと恥じたところだ」
「あぁ、もちろん甥っ子の話をしたかったのも本当だよ」と言いながらにこりと笑った。
「あのときのことは、どうぞお気になさらないでください」
「許してくれるかい?」
「許すもなにも、悪いことなどなさっていらっしゃいませんもの。それにカラム殿下のことを心配されてのことだとわかっております。ボンボール公はお優しくていらっしゃいますわ」
ようやく気持ちが落ち着いた。落ち着きさえすればいつもどおりに振る舞うことができる。そう思いホッとしたオペラだったが、グラニーテ公の眼差しを見ると再び落ち着かない気持ちになった。
「さて、それはどうだろう。優しさだと偽ってオペラ嬢に近づきたいだけかもしれない」
若葉色の緑眼がじっとオペラを見ている。それは視線を逸らすのを許さないと言わんばかりの強さで、かろうじて表情を変えずにいるオペラも内心戸惑っていた。
いまらな誘うことができる、狙っていた好機だ。わかっているのに、いざそうなると思考がぴたりと止まってしまう。貴族としての駆け引きには慣れているものの、色恋に関わることは皆無だったオペラは考えていたことの一つも言葉にすることができなかった。
「こうしてお近づきになれたのは本当にラッキーだ。四日後のお茶会も楽しみにしているよ」
ソファから立ち上がったグラニーテ公が左手を後ろに回し、腰を少し屈めながら右手を差し出した。オペラは条件反射で左手を載せた。それににこりと微笑んだグラニーテ公がゆっくりとその手を持ち上げ、指先に触れるだけの口づけを落とす。オペラはその様子をただじっと見つめることしかできなかった。
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