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一章 鬼に繞乱(じょうらん)されしは
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「あの男は嫌いです」
光榮殿が部屋を出て行っていの一番に金花が口にしたのがこの言葉だった。
「かわいいカラギのことを小馬鹿にしたようなあの態度、たかが陰陽師風情が偉そうに。しかも目障りなあの鬼の話までするなんて」
「そこまで怒ることじゃないだろう?」
本当は「かわいいカラギ」という表現を改めてほしいのだが、いまそれを口にすると怒りの火に油を注ぎかねないので触れないでおく。
「実際、光榮殿のほうが位が高いのだ。それに俺は貴族でありながら武士のようなことをしている。よく思われていないのはいまに始まったことじゃない」
「優しさはカラギのよいところだと思いますが、無礼な相手にまで優しくする必要はありませんよ」
頬を少し膨らませた姿さえ美しい金花の顔に、思わずくすりと笑ってしまった。そうすると怒っていた金花もはぁと息を吐き苦笑にも似た笑みを浮かべる。
「しかし、光榮殿は金花のことに気づいたのではないだろうな」
俺が一番気になっているのはそこだ。俺を蔑ろにしようがどうしようが、これまでと大して変わらないから気にする必要はない。だが金花が鬼だと気づかれたとしたら、そうは言っていられなくなる。
「さぁ、どうでしょう。たしかに陰陽師としては優秀かもしれませんが、阿倍野の若君のほうがよほど才能に溢れていると思います。たしか、春……何とかという名前だったと思いますが」
「阿倍野の……とは、もしや春明殿のことか?」
「そう、たしかそのような名であったかと。彼に見つかりでもすれば、たしかに危ういかもしれませんね」
阿倍野の家といえば有名な陰陽師の家柄だ。直系は帝近くに仕えているため、陰陽寮には親族の誰かが身を置いていたはず。数代前の帝の御世では春明殿という恐ろしく腕の立つ当主が陰陽頭を務め、そのおかげで数多の鬼たちを退治することができたと言われている。
そんな有名な、しかも相当昔の人物を知っているとは……。
(そうか、鬼とは長寿な存在だったな)
蔽衣山で長らく“高貴なる畏怖”と呼ばれていた金花だ、どこかで春明殿を知ったとしてもおかしくはない。人とは違う時の流れを生きているのなら、春明殿がすでに鬼籍に入っていることを知らないのだろう。
(つまり、俺と金花とではそのくらい時の流れが違っているということか)
不意に思ったことに胸がズンと重くなった。
「カラギ?」
「あ、あぁ、いや、春明殿は鬼の間でも有名だったのだなと思ってな。たしか都から出たことはなかったはずだが、おまえまで知っていることに驚いた」
「阿倍野の若君は特別でしょうね。少ししか都にいなかったわたしの耳にもあれこれ聞こえてきたくらいですし」
「は……? おまえ、都にいたことがあるのか?」
「いたといってもわずかの間ですよ。春に来て、秋には蔽衣山に戻りましたから」
「そうか、都にいたことがあったのか……」
「えぇ。時折り御所の様子を覗き見たりもしていました。それであなたに会ったとき、まとっていた香りが御所にいた人の香りに似ていて懐かしく思ったのです」
優しく微笑む顔を見ながら、俺は金花のことをほとんど知らないことに気づいた。どこで生まれ兄弟はいるのか、鬼と“ようま”の親はどうしているのか何も知らない。あの烏の羽根のこともそうだ。それに、鬼である金花がいま何歳なのかも知らずにいる。
(……いや、知らないほうがよいこともあるか)
再び胸に重い石が詰まったような、なんとも言えない気持ちになった。
「都にいた間も蔽衣山にいたときも好いた相手はいませんよ?」
「……何を急に言い出すんだ」
眉をひそめながら金花を見ると、からかうような笑みを浮かべている。
「おや? それを心配して黙り込んだのではないんですか?」
「馬鹿を言うな。そんなこと心配するはずがないだろう。それに過去のことをいちいち気にしたりはしない」
「つまり、いまのわたしが一番に思うのがカラギだと信じてくれているということですね」
「金花」
「ふふっ、カラギを思うわたしの気持ち、信じてくれてうれしいです」
「うるさいっ」
まだ笑っている金花を引き寄せながら右手でがしりと頭を抱え、勢いのまま紅い唇を塞ぐように吸った。わずかに驚いているらしい様子に胸のすく思いがしたものの、すぐに愛しい思いとじりじり焦げつくような気持ちが混ざり苛々してくる。それを振り切るように金花の口の中に舌を突っ込み、涎が滴るほど熱い口内を舐り回した。
光榮殿が屋敷に来た三日後、朝廷から正式に御所警備の話がきた。陰陽寮の口添えがあったらしいと兄上から聞いたが、どういう風の吹き回しだろうか。
「あれほど武士の力は借りないと言っていたのにな」
「本当に嫌な陰陽師です」
この話を聞いて以来、金花はより一層光榮殿を煙たがるようになった。
「わたしのカラギをなんだと思っているんでしょうか」
煙たがっている理由を聞くたびに胸がこそばゆくなる。好いた相手にこれほど思われるのはなんと心地がよいことだろうと、思わず口元が緩みそうになった。
「そう怒るな。御所にはあの鬼が現れる可能性が高い。俺や屋敷の武士たちはあの鬼と二度対峙している。だから呼ばれたのだろう」
「だからこそ心配しているのです。あの鬼はあなたを狙っているではありませんか」
「狙って、……ぶふっ」
「笑いごとじゃありませんよ」
「くくっ、ははは、いや、すまない。おまえの口から『狙っている』という言葉を聞くとはな」
誰よりも俺を狙っていたのはおまえだったじゃないかと思うと笑わずにはいられなかった。
「カラギ」
「わかっている」
心配する金花の気持ちは十分に理解している。それでもなお笑わずにいられなかったのは自分を鼓舞するためだ。こうして笑い飛ばしでもしなければ心が折れそうになる。
(あの鬼に俺の腕で敵うとは思えない)
鴉丸を持ってしても、一太刀浴びせることすら難しいだろう。それでも御所警備を断ることはできない。ここで断ったとしても、あの鬼はいずれこの屋敷に現れるに違いないからだ。
(あの鬼は「また会おう」と言っていた)
あの鬼と対峙するなら、母上がいるこの屋敷より警備の固い御所のほうがいい。帝や女御たちはしばらく後壱殿別邸に移るという話だから安全だ。御所が荒れるのは心苦しいが、陰陽寮も総出で対処するとのことだから話に乗らない手はなかった。
(せめて一太刀でも浴びせられれば)
陰陽寮の話では、近々あの鬼が御所に現れるだろうということだった。その日に備え、俺は日々鍛錬を続けている。そうしながらついがむしゃらに太刀を振り回してしまうのは、やはり奥底に恐怖心があるからだ。
それを断ち切るためにも鍛錬を怠るわけにはいかない。あまりに熱心に太刀を振るうからか、屋敷の武士たちは鍛錬中の俺に近づくことさえしなくなった。姿が見えれば鍛錬の相手をさせるのだが、誰一人として姿を見かけない。
おかげで一人きりの鍛錬が続いていたが、そんな俺の傍らにはいつも金花がいた。いまも光榮殿のことを苦々しく言いながら、いつでも俺の汗を拭えるようにと桶に水を用意し、肌触りのよい手ぬぐいを何枚も手元に置いている。そうした金花の姿を見るたびに御所で鬼と対峙したときのことを思い出した。あのとき俺は何がなんでも金花の元に帰るのだと考えた。しかし俺と鬼との腕の違いは歴然としている。今度対峙して、また助かるという保証はない。
(それでも、あの鬼をどうにかしなくてはいけないのだ)
敵う敵わないという問題ではなかった。先送りしたところであの鬼がいなくなるわけではないし、問題の解決にはならない。
(それに、ほかの鬼たちも随分と騒がしくなってきたようだしな)
以前金花が話していたように力ある鬼のおこぼれを小鬼たちが狙って騒いでいるのだとしたら、あの鬼をどうにかしない限り都はますます物騒になる。
(やはり、次でけりをつけなくては駄目だ)
ふぅぅと深く息を吐き出す。右手に持った鴉丸の刀身はますます鋭く光り、まるで鬼の血を求めているかのようにも見えた。再び深く息を吐いてから、柄を握る右手にグッと力を入れた。
ザッ、ザン、ザザッ、ザッ。
地面を蹴る足音が響くなか、刀身を向ける角度や速さ、力加減を確認する。一気に突き進んだかと思えば身を翻すようにさっと後ろに飛び退き、頭上から刀身を振り下ろしながらも途中ですぐさま払うように大きく水平に弧を描く。下からすくい上げるように動かし、さらに前方に鋭く刀身を突き出す動きも忘れない。あの鬼の様子を思い出しながらの動きではあるものの、いずれも軽く躱されるだろうことは容易に想像できた。
(これではまた笑われるだけだ)
それが悔しくも歯痒く、つい力を入れすぎて刀身を大きく振り被ったときだった。背後から何かが飛んでくる気配を察し、すぐさま太刀を向ける。
ヒュン!
咄嗟に鴉丸で斬り落としたそれは、やや太めの木の枝だった。なぜこんなものがと思った俺の耳に懐かしい声が聞こえてくる。
「どうやら我が弟子の腕は鈍っていないようだなァ」
現れたのは武士のような格好をした中年の男だった。決して忘れることのない顔に、思わず「師匠!」と喜びの声を上げてしまった。
「おっ、まだ俺を師匠と呼んでくれるのか」
「師匠はいつまでも俺の師匠ですよ! 元気そうでなによりです。いや、そんなことよりどうしてここに?」
「あぁ、ちょいとお偉いさん方に呼び戻されてなァ。それにしても都はやっぱり遠いなぁ。年寄りの足にはキツいったらありゃしねぇ」
ハハハと笑う顔は、最後に会った十年ほど前とそう変わらないように見える。
「お偉いさんということは、朝廷から呼び出しが?」
「なにやら強い鬼が都で暴れてるんだって? せっかく東の地でのんびりしてたってのに、また鬼退治に加勢しろとは因果なことだ」
「鬼退治……ということは、髭切も一緒に?」
「おうよ。ついでに八幡大菩薩様にご挨拶もしてきたぞ」
ハハハと笑う師匠の姿に安堵する気持ちが全身を駆け巡った。これであの鬼にも一太刀浴びせられるかもしれない、いや退けられるかもしれないという希望が見えてきた。そう思うほど太刀の師匠は優れた武士であり、退魔の太刀を振るう強者でもあった。
初めて鴉丸を見た幼い日から、俺はずっとこの太刀を振るいたいと願っていた。しかし由緒正しい貴族の家に生まれた身では武士のような武芸一辺倒を許されるはずもなく、二年ほどはただじっと鴉丸を見つめることしかできなかった。そんな俺に光明が差したのは、当時御所の警備をしていた師匠、源司維殿との出会いだった。
師匠は御所警備を担う蔵人所の中でも抜きん出た腕を持つ人物で、かつて大鬼の腕を斬り落とした嗣名という鬼の討伐隊隊長の血を引いている。鬼の腕を斬った太刀・髭切を操り、当時はあらゆる鬼を退治して回る都一の武士だった。
そんな師匠は退魔の太刀である鴉丸の担い手がいないことをずっと心配していた。それに俺の頑固なまでの願いもあり、武芸を教えてくれることになったのだ。
(あの頃は本当に死ぬかと思ったな……)
師匠は子どもだった俺にも容赦がなかった。半人前のときから「見るより慣れろ」と言って鬼退治の場へ引きずって行くような人だった。それで何度も怪我をし、母上には毎日泣かれていた記憶がある。しかし、そのおかげもあって俺は早く一人前になることができた。晴れて鴉丸を正式に携えることも叶い、何度感謝したかわからない。
その後、師匠は御所警護の任を辞し、十年ほど前に都を離れ東国へと移り住んだ。そのとき髭切も持って行ったと聞いていたが、今回の鬼騒動で朝廷が貴重な退魔の刀を無駄にするわけにはいかないと、再び師匠に都へ戻るよう命じたのだろう。
「それにしても、おまえの奥方はえらく美しいな。いやぁ噂以上だ」
師匠の言葉にハッと我に返った。金花を見れば、几帳の奥に隠れるでもなく御簾を下ろすでもなく、先ほどと変わらない様子で廊下に座りこちらを見ている。
「金、……っ」
咄嗟に名を呼ぼうとし、慌てて口をつぐんだ。師匠は長年鬼退治をしてきた武士だ。どこかで金花の存在を耳にしているかもしれない。名を知っているとは思えないが、何をきっかけに金花が鬼だと知られるかわからない。そんな相手に迂闊に名を口にするのは危険だ。
「それに俺がいるというのに姿を隠そうともしない。いやァ、さすが唐多千の君の奥方だ、肝が据わっている」
「……師匠、それ以上我が妻を見ないでいただきたい」
「おっ、一丁前に嫉妬か? まぁ、俺のご先祖様には美しさで周囲を虜にした、かの光留君がいるからなァ。俺もまだまだいい男だしなぁ? しかし安心しろ。奥方に惚れられても奪ったりはしねぇよ」
ニヤリと笑った師匠は、年齢の割にはたしかに若く見目も整っている。だが、それと金花の姿を見られることとは関係ない。姿形や気配から金花が鬼だとばれやしないか気が気でないだけだ。
「師匠、久しぶりですし手合わせ願いたい」
ニヤニヤしながら金花を見つめ続ける師匠の気を逸らすにはこれしかない。俺は鴉丸の切っ先を師匠に向け、あえて挑発するように口の端を上げた。
「もう昔のように、こてんぱんにされたりはしませんよ」
「ほう、言うようになったじゃねぇか」
思ったとおり、師匠はそれまでとは違う笑みを浮かべて俺を見た。ちらりと横目で見た金花は変わらず廊下に座ったままだ。早く御簾を下ろせと念じながら、鴉丸を握る右手にぐっと力を込めた。
「随分とやられましたね」
「くそっ、あの人は昔からこうなんだ。たとえ時間潰しの手合わせであっても絶対に手を抜かない。おかげで俺はいつもボロボロだった」
わずかな時間の手合わせだったが見事に叩きのめされた。しかも俺が手にしていたのは鞘から抜いた鴉丸、師匠は鞘のままの髭切だったのにだ。「随分と腕を上げたなァ」と褒めてはくれたが、いつになれば師匠を超えられるのかと悔しくなる。
「ツゥ……ッ」
「すみません」
俺との手合わせに満足した師匠は「御所で会おう」と言って帰っていった。それを見届けてから、最後まで廊下に座ったままだった金花に二言三言注意をした。しかしどこか上の空という顔をしている。いまも俺の汗を拭ってくれてはいるが、手つきがいつもと違うように感じる。
「金花、どうし……ツッ」
首から顎へと手拭いが触れたとき、ずきりとした痛みを口あたりに感じ思わず声が詰まってしまった。指で口の端に触れるとびりりとした痛みが走り、指には乾きかけの血がついている。おそらく鞘で殴られかけたときに皮膚が切れてしまったのだろう。ギリギリで避けたと思っていたのだが甘かった。
「師匠はいつもやりすぎなんだ」
はぁとため息をついたところで、金花がじっと俺を見ていることに気づいた。
「金花?」
どうも様子がおかしい。小言を言ったときに反応がなかったことと言い、明らかにいつもと様子が違う。
「どうかしたのか?」
「……血が、」
「あぁ、師匠はいつも容赦ないんだ。だが、うまく避けられない俺も悪い。大したことはないし、もうほとんど乾いて……」
再び言葉が止まったのは金花の姿が変化していたからだ。俺を見上げるように寄せている顔の額には小さな角が一つ見える。目はいつも以上に潤み、気のせいでなければ口の端から尖った小さな歯がちらりと見えた。
「金花……」
「耐えても耐えても、こうして抗えなく……いけないとわかって……いるのに……」
金花の顔がすぅと近づき、口の端に温かく湿ったものが触れた。ぴりっとした痛みにくっと眉が寄ったが、ふわりと漂う伽羅香に気づき、近くにある金花の顔を横目で確認する。その顔は恐れを抱くほど美しく、匂うほどの色気を漂わせていた。
「あぁ……なんて甘美な香り……。それにとても甘くて……。あぁ、駄目、鬼の本性が……いけないとわかって……駄目……」
「金花、」
かすかだった伽羅香がぶわりと広がった。まるで俺を包み込むような濃厚な香りに、嗅いだ瞬間じぃんと頭が痺れ出す。この感じは初めて金花に会ったときに似ている。あのときも濃い伽羅香を感じ、そのうち酒精に呑まれたような覚束ない感覚に襲われた。そして俺は……。
「カラギ、わたしの大事な人。血も精もたまらない……カラギ、どうかわたしに触れて……」
「……っ」
小袿を床に落とし、単の前をくつろげながら金花が擦り寄ってくる。その姿に俺の股座はすぐさま熱くなった。
「ふふっ、うれしい。こんなに逞しくして……」
右手で俺の肩を掴んだ金花は、ほぅと熱い息を吐きながら左手で俺の股座に手を添えた。はじめは袴の上からゆっくりと、それから形を確かめるようにじっくりと手を動かす。
「あぁ、いい匂い」
「な、……ッ」
不意に首筋に生暖かいものを感じてギョッとした。すぅと息を吸い込む気配に慌てて身を離そうとしたが、左肩を掴む金花の手は思ったよりも力強く身動きすらできない。
右耳の下に触れている熱はもしや鼻先ではないだろうか。汗にまみれた体を臭われるのはどうなのだ。左肩に食い込む指が痛い。そんなどうでもいいことばかりが頭の中を駆け巡る。そのくせ金花を押し返すことができないのは混乱しているせいだ。
(そもそも体を匂うなど獣じゃあるまいし、どういうつもりだ)
首筋や耳の下、さらには耳の裏側にまで鼻先をつけてすぅすぅと嗅がれた。その気配に頭にカァッと血が上る。
「いったい何をして、……!」
なんとか金花の体をぐぃっと引き離したが、顔を見た途端に違う意味で頭に血が上った。そこにあったのは、とろりと蕩けた世にも美しい顔だった。それを目にした瞬間、何もかもが吹っ飛んだ。額にある小さな角のことも人にしては目立ちすぎる歯のこともどうでもよくなり、気がつけば金花の体を掻き抱いていた。
光榮殿が部屋を出て行っていの一番に金花が口にしたのがこの言葉だった。
「かわいいカラギのことを小馬鹿にしたようなあの態度、たかが陰陽師風情が偉そうに。しかも目障りなあの鬼の話までするなんて」
「そこまで怒ることじゃないだろう?」
本当は「かわいいカラギ」という表現を改めてほしいのだが、いまそれを口にすると怒りの火に油を注ぎかねないので触れないでおく。
「実際、光榮殿のほうが位が高いのだ。それに俺は貴族でありながら武士のようなことをしている。よく思われていないのはいまに始まったことじゃない」
「優しさはカラギのよいところだと思いますが、無礼な相手にまで優しくする必要はありませんよ」
頬を少し膨らませた姿さえ美しい金花の顔に、思わずくすりと笑ってしまった。そうすると怒っていた金花もはぁと息を吐き苦笑にも似た笑みを浮かべる。
「しかし、光榮殿は金花のことに気づいたのではないだろうな」
俺が一番気になっているのはそこだ。俺を蔑ろにしようがどうしようが、これまでと大して変わらないから気にする必要はない。だが金花が鬼だと気づかれたとしたら、そうは言っていられなくなる。
「さぁ、どうでしょう。たしかに陰陽師としては優秀かもしれませんが、阿倍野の若君のほうがよほど才能に溢れていると思います。たしか、春……何とかという名前だったと思いますが」
「阿倍野の……とは、もしや春明殿のことか?」
「そう、たしかそのような名であったかと。彼に見つかりでもすれば、たしかに危ういかもしれませんね」
阿倍野の家といえば有名な陰陽師の家柄だ。直系は帝近くに仕えているため、陰陽寮には親族の誰かが身を置いていたはず。数代前の帝の御世では春明殿という恐ろしく腕の立つ当主が陰陽頭を務め、そのおかげで数多の鬼たちを退治することができたと言われている。
そんな有名な、しかも相当昔の人物を知っているとは……。
(そうか、鬼とは長寿な存在だったな)
蔽衣山で長らく“高貴なる畏怖”と呼ばれていた金花だ、どこかで春明殿を知ったとしてもおかしくはない。人とは違う時の流れを生きているのなら、春明殿がすでに鬼籍に入っていることを知らないのだろう。
(つまり、俺と金花とではそのくらい時の流れが違っているということか)
不意に思ったことに胸がズンと重くなった。
「カラギ?」
「あ、あぁ、いや、春明殿は鬼の間でも有名だったのだなと思ってな。たしか都から出たことはなかったはずだが、おまえまで知っていることに驚いた」
「阿倍野の若君は特別でしょうね。少ししか都にいなかったわたしの耳にもあれこれ聞こえてきたくらいですし」
「は……? おまえ、都にいたことがあるのか?」
「いたといってもわずかの間ですよ。春に来て、秋には蔽衣山に戻りましたから」
「そうか、都にいたことがあったのか……」
「えぇ。時折り御所の様子を覗き見たりもしていました。それであなたに会ったとき、まとっていた香りが御所にいた人の香りに似ていて懐かしく思ったのです」
優しく微笑む顔を見ながら、俺は金花のことをほとんど知らないことに気づいた。どこで生まれ兄弟はいるのか、鬼と“ようま”の親はどうしているのか何も知らない。あの烏の羽根のこともそうだ。それに、鬼である金花がいま何歳なのかも知らずにいる。
(……いや、知らないほうがよいこともあるか)
再び胸に重い石が詰まったような、なんとも言えない気持ちになった。
「都にいた間も蔽衣山にいたときも好いた相手はいませんよ?」
「……何を急に言い出すんだ」
眉をひそめながら金花を見ると、からかうような笑みを浮かべている。
「おや? それを心配して黙り込んだのではないんですか?」
「馬鹿を言うな。そんなこと心配するはずがないだろう。それに過去のことをいちいち気にしたりはしない」
「つまり、いまのわたしが一番に思うのがカラギだと信じてくれているということですね」
「金花」
「ふふっ、カラギを思うわたしの気持ち、信じてくれてうれしいです」
「うるさいっ」
まだ笑っている金花を引き寄せながら右手でがしりと頭を抱え、勢いのまま紅い唇を塞ぐように吸った。わずかに驚いているらしい様子に胸のすく思いがしたものの、すぐに愛しい思いとじりじり焦げつくような気持ちが混ざり苛々してくる。それを振り切るように金花の口の中に舌を突っ込み、涎が滴るほど熱い口内を舐り回した。
光榮殿が屋敷に来た三日後、朝廷から正式に御所警備の話がきた。陰陽寮の口添えがあったらしいと兄上から聞いたが、どういう風の吹き回しだろうか。
「あれほど武士の力は借りないと言っていたのにな」
「本当に嫌な陰陽師です」
この話を聞いて以来、金花はより一層光榮殿を煙たがるようになった。
「わたしのカラギをなんだと思っているんでしょうか」
煙たがっている理由を聞くたびに胸がこそばゆくなる。好いた相手にこれほど思われるのはなんと心地がよいことだろうと、思わず口元が緩みそうになった。
「そう怒るな。御所にはあの鬼が現れる可能性が高い。俺や屋敷の武士たちはあの鬼と二度対峙している。だから呼ばれたのだろう」
「だからこそ心配しているのです。あの鬼はあなたを狙っているではありませんか」
「狙って、……ぶふっ」
「笑いごとじゃありませんよ」
「くくっ、ははは、いや、すまない。おまえの口から『狙っている』という言葉を聞くとはな」
誰よりも俺を狙っていたのはおまえだったじゃないかと思うと笑わずにはいられなかった。
「カラギ」
「わかっている」
心配する金花の気持ちは十分に理解している。それでもなお笑わずにいられなかったのは自分を鼓舞するためだ。こうして笑い飛ばしでもしなければ心が折れそうになる。
(あの鬼に俺の腕で敵うとは思えない)
鴉丸を持ってしても、一太刀浴びせることすら難しいだろう。それでも御所警備を断ることはできない。ここで断ったとしても、あの鬼はいずれこの屋敷に現れるに違いないからだ。
(あの鬼は「また会おう」と言っていた)
あの鬼と対峙するなら、母上がいるこの屋敷より警備の固い御所のほうがいい。帝や女御たちはしばらく後壱殿別邸に移るという話だから安全だ。御所が荒れるのは心苦しいが、陰陽寮も総出で対処するとのことだから話に乗らない手はなかった。
(せめて一太刀でも浴びせられれば)
陰陽寮の話では、近々あの鬼が御所に現れるだろうということだった。その日に備え、俺は日々鍛錬を続けている。そうしながらついがむしゃらに太刀を振り回してしまうのは、やはり奥底に恐怖心があるからだ。
それを断ち切るためにも鍛錬を怠るわけにはいかない。あまりに熱心に太刀を振るうからか、屋敷の武士たちは鍛錬中の俺に近づくことさえしなくなった。姿が見えれば鍛錬の相手をさせるのだが、誰一人として姿を見かけない。
おかげで一人きりの鍛錬が続いていたが、そんな俺の傍らにはいつも金花がいた。いまも光榮殿のことを苦々しく言いながら、いつでも俺の汗を拭えるようにと桶に水を用意し、肌触りのよい手ぬぐいを何枚も手元に置いている。そうした金花の姿を見るたびに御所で鬼と対峙したときのことを思い出した。あのとき俺は何がなんでも金花の元に帰るのだと考えた。しかし俺と鬼との腕の違いは歴然としている。今度対峙して、また助かるという保証はない。
(それでも、あの鬼をどうにかしなくてはいけないのだ)
敵う敵わないという問題ではなかった。先送りしたところであの鬼がいなくなるわけではないし、問題の解決にはならない。
(それに、ほかの鬼たちも随分と騒がしくなってきたようだしな)
以前金花が話していたように力ある鬼のおこぼれを小鬼たちが狙って騒いでいるのだとしたら、あの鬼をどうにかしない限り都はますます物騒になる。
(やはり、次でけりをつけなくては駄目だ)
ふぅぅと深く息を吐き出す。右手に持った鴉丸の刀身はますます鋭く光り、まるで鬼の血を求めているかのようにも見えた。再び深く息を吐いてから、柄を握る右手にグッと力を入れた。
ザッ、ザン、ザザッ、ザッ。
地面を蹴る足音が響くなか、刀身を向ける角度や速さ、力加減を確認する。一気に突き進んだかと思えば身を翻すようにさっと後ろに飛び退き、頭上から刀身を振り下ろしながらも途中ですぐさま払うように大きく水平に弧を描く。下からすくい上げるように動かし、さらに前方に鋭く刀身を突き出す動きも忘れない。あの鬼の様子を思い出しながらの動きではあるものの、いずれも軽く躱されるだろうことは容易に想像できた。
(これではまた笑われるだけだ)
それが悔しくも歯痒く、つい力を入れすぎて刀身を大きく振り被ったときだった。背後から何かが飛んでくる気配を察し、すぐさま太刀を向ける。
ヒュン!
咄嗟に鴉丸で斬り落としたそれは、やや太めの木の枝だった。なぜこんなものがと思った俺の耳に懐かしい声が聞こえてくる。
「どうやら我が弟子の腕は鈍っていないようだなァ」
現れたのは武士のような格好をした中年の男だった。決して忘れることのない顔に、思わず「師匠!」と喜びの声を上げてしまった。
「おっ、まだ俺を師匠と呼んでくれるのか」
「師匠はいつまでも俺の師匠ですよ! 元気そうでなによりです。いや、そんなことよりどうしてここに?」
「あぁ、ちょいとお偉いさん方に呼び戻されてなァ。それにしても都はやっぱり遠いなぁ。年寄りの足にはキツいったらありゃしねぇ」
ハハハと笑う顔は、最後に会った十年ほど前とそう変わらないように見える。
「お偉いさんということは、朝廷から呼び出しが?」
「なにやら強い鬼が都で暴れてるんだって? せっかく東の地でのんびりしてたってのに、また鬼退治に加勢しろとは因果なことだ」
「鬼退治……ということは、髭切も一緒に?」
「おうよ。ついでに八幡大菩薩様にご挨拶もしてきたぞ」
ハハハと笑う師匠の姿に安堵する気持ちが全身を駆け巡った。これであの鬼にも一太刀浴びせられるかもしれない、いや退けられるかもしれないという希望が見えてきた。そう思うほど太刀の師匠は優れた武士であり、退魔の太刀を振るう強者でもあった。
初めて鴉丸を見た幼い日から、俺はずっとこの太刀を振るいたいと願っていた。しかし由緒正しい貴族の家に生まれた身では武士のような武芸一辺倒を許されるはずもなく、二年ほどはただじっと鴉丸を見つめることしかできなかった。そんな俺に光明が差したのは、当時御所の警備をしていた師匠、源司維殿との出会いだった。
師匠は御所警備を担う蔵人所の中でも抜きん出た腕を持つ人物で、かつて大鬼の腕を斬り落とした嗣名という鬼の討伐隊隊長の血を引いている。鬼の腕を斬った太刀・髭切を操り、当時はあらゆる鬼を退治して回る都一の武士だった。
そんな師匠は退魔の太刀である鴉丸の担い手がいないことをずっと心配していた。それに俺の頑固なまでの願いもあり、武芸を教えてくれることになったのだ。
(あの頃は本当に死ぬかと思ったな……)
師匠は子どもだった俺にも容赦がなかった。半人前のときから「見るより慣れろ」と言って鬼退治の場へ引きずって行くような人だった。それで何度も怪我をし、母上には毎日泣かれていた記憶がある。しかし、そのおかげもあって俺は早く一人前になることができた。晴れて鴉丸を正式に携えることも叶い、何度感謝したかわからない。
その後、師匠は御所警護の任を辞し、十年ほど前に都を離れ東国へと移り住んだ。そのとき髭切も持って行ったと聞いていたが、今回の鬼騒動で朝廷が貴重な退魔の刀を無駄にするわけにはいかないと、再び師匠に都へ戻るよう命じたのだろう。
「それにしても、おまえの奥方はえらく美しいな。いやぁ噂以上だ」
師匠の言葉にハッと我に返った。金花を見れば、几帳の奥に隠れるでもなく御簾を下ろすでもなく、先ほどと変わらない様子で廊下に座りこちらを見ている。
「金、……っ」
咄嗟に名を呼ぼうとし、慌てて口をつぐんだ。師匠は長年鬼退治をしてきた武士だ。どこかで金花の存在を耳にしているかもしれない。名を知っているとは思えないが、何をきっかけに金花が鬼だと知られるかわからない。そんな相手に迂闊に名を口にするのは危険だ。
「それに俺がいるというのに姿を隠そうともしない。いやァ、さすが唐多千の君の奥方だ、肝が据わっている」
「……師匠、それ以上我が妻を見ないでいただきたい」
「おっ、一丁前に嫉妬か? まぁ、俺のご先祖様には美しさで周囲を虜にした、かの光留君がいるからなァ。俺もまだまだいい男だしなぁ? しかし安心しろ。奥方に惚れられても奪ったりはしねぇよ」
ニヤリと笑った師匠は、年齢の割にはたしかに若く見目も整っている。だが、それと金花の姿を見られることとは関係ない。姿形や気配から金花が鬼だとばれやしないか気が気でないだけだ。
「師匠、久しぶりですし手合わせ願いたい」
ニヤニヤしながら金花を見つめ続ける師匠の気を逸らすにはこれしかない。俺は鴉丸の切っ先を師匠に向け、あえて挑発するように口の端を上げた。
「もう昔のように、こてんぱんにされたりはしませんよ」
「ほう、言うようになったじゃねぇか」
思ったとおり、師匠はそれまでとは違う笑みを浮かべて俺を見た。ちらりと横目で見た金花は変わらず廊下に座ったままだ。早く御簾を下ろせと念じながら、鴉丸を握る右手にぐっと力を込めた。
「随分とやられましたね」
「くそっ、あの人は昔からこうなんだ。たとえ時間潰しの手合わせであっても絶対に手を抜かない。おかげで俺はいつもボロボロだった」
わずかな時間の手合わせだったが見事に叩きのめされた。しかも俺が手にしていたのは鞘から抜いた鴉丸、師匠は鞘のままの髭切だったのにだ。「随分と腕を上げたなァ」と褒めてはくれたが、いつになれば師匠を超えられるのかと悔しくなる。
「ツゥ……ッ」
「すみません」
俺との手合わせに満足した師匠は「御所で会おう」と言って帰っていった。それを見届けてから、最後まで廊下に座ったままだった金花に二言三言注意をした。しかしどこか上の空という顔をしている。いまも俺の汗を拭ってくれてはいるが、手つきがいつもと違うように感じる。
「金花、どうし……ツッ」
首から顎へと手拭いが触れたとき、ずきりとした痛みを口あたりに感じ思わず声が詰まってしまった。指で口の端に触れるとびりりとした痛みが走り、指には乾きかけの血がついている。おそらく鞘で殴られかけたときに皮膚が切れてしまったのだろう。ギリギリで避けたと思っていたのだが甘かった。
「師匠はいつもやりすぎなんだ」
はぁとため息をついたところで、金花がじっと俺を見ていることに気づいた。
「金花?」
どうも様子がおかしい。小言を言ったときに反応がなかったことと言い、明らかにいつもと様子が違う。
「どうかしたのか?」
「……血が、」
「あぁ、師匠はいつも容赦ないんだ。だが、うまく避けられない俺も悪い。大したことはないし、もうほとんど乾いて……」
再び言葉が止まったのは金花の姿が変化していたからだ。俺を見上げるように寄せている顔の額には小さな角が一つ見える。目はいつも以上に潤み、気のせいでなければ口の端から尖った小さな歯がちらりと見えた。
「金花……」
「耐えても耐えても、こうして抗えなく……いけないとわかって……いるのに……」
金花の顔がすぅと近づき、口の端に温かく湿ったものが触れた。ぴりっとした痛みにくっと眉が寄ったが、ふわりと漂う伽羅香に気づき、近くにある金花の顔を横目で確認する。その顔は恐れを抱くほど美しく、匂うほどの色気を漂わせていた。
「あぁ……なんて甘美な香り……。それにとても甘くて……。あぁ、駄目、鬼の本性が……いけないとわかって……駄目……」
「金花、」
かすかだった伽羅香がぶわりと広がった。まるで俺を包み込むような濃厚な香りに、嗅いだ瞬間じぃんと頭が痺れ出す。この感じは初めて金花に会ったときに似ている。あのときも濃い伽羅香を感じ、そのうち酒精に呑まれたような覚束ない感覚に襲われた。そして俺は……。
「カラギ、わたしの大事な人。血も精もたまらない……カラギ、どうかわたしに触れて……」
「……っ」
小袿を床に落とし、単の前をくつろげながら金花が擦り寄ってくる。その姿に俺の股座はすぐさま熱くなった。
「ふふっ、うれしい。こんなに逞しくして……」
右手で俺の肩を掴んだ金花は、ほぅと熱い息を吐きながら左手で俺の股座に手を添えた。はじめは袴の上からゆっくりと、それから形を確かめるようにじっくりと手を動かす。
「あぁ、いい匂い」
「な、……ッ」
不意に首筋に生暖かいものを感じてギョッとした。すぅと息を吸い込む気配に慌てて身を離そうとしたが、左肩を掴む金花の手は思ったよりも力強く身動きすらできない。
右耳の下に触れている熱はもしや鼻先ではないだろうか。汗にまみれた体を臭われるのはどうなのだ。左肩に食い込む指が痛い。そんなどうでもいいことばかりが頭の中を駆け巡る。そのくせ金花を押し返すことができないのは混乱しているせいだ。
(そもそも体を匂うなど獣じゃあるまいし、どういうつもりだ)
首筋や耳の下、さらには耳の裏側にまで鼻先をつけてすぅすぅと嗅がれた。その気配に頭にカァッと血が上る。
「いったい何をして、……!」
なんとか金花の体をぐぃっと引き離したが、顔を見た途端に違う意味で頭に血が上った。そこにあったのは、とろりと蕩けた世にも美しい顔だった。それを目にした瞬間、何もかもが吹っ飛んだ。額にある小さな角のことも人にしては目立ちすぎる歯のこともどうでもよくなり、気がつけば金花の体を掻き抱いていた。
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