30 / 61
30 噛み合わないパ・ド・ドゥ2
しおりを挟む
「どうかしたのか?」
「え……?」
声をかけられてハッとした。
「絵筆があまり進んでいないように見えるが」
「ちょっと……手法を変えようかと考えていまして」
「なるほど」
苦しい言い訳だが、絵画に詳しくないノアール殿下なら納得してくれるだろう。そんなことを思いながら、絵の具を含ませた筆をキャンバスに載せた。
メインディッシュの皿よりも二回りほど大きなキャンバスには酔芙蓉が描かれている。殿下の執務室から見える庭の奥にたまたま見つけた花で、咲き始めの朝からしぼむ夕方にかけて色が変化するのがとても美しかった。その様子を描いておきたいと思い、手前は朝の白を、奥に向かうにつれて夕暮れの赤色で塗っている。
別に塗り方の手法を変えようとは考えていない。もっとも得意とする写実性を追求する描き方で進めているし、この先も変える予定はなかった。それなのに筆が止まってしまうのは、つい今後のことを考えてしまうからだ。
(あとどのくらい、こうやっていられるんだろうな……)
そんなことを考えるせいで、また筆が止まってしまった。しかしここで筆を置くことはできない。そんなことをすれば殿下に不審がられるだろうし、そこから僕が考えていることを知られてしまうかもしれないからだ。
「もしかして、体調が優れないのではないか?」
「いえ、そんなことはありませんが……」
再び筆を止めてしまったせいで、殿下がまた気にし始めた。何でもないといつもどおりの口調で答えたが、振り返ると殿下の眉が少し寄っている。
「殿下?」
「……いや、わずかに香っていたランシュの香りが、ここのところほとんどしなくなった気がする」
「香り、ですか?」
残念ながら自分の香りのことはわからない。殿下が「しない」というのならしないのだろう。
(そういえば、殿下の香りも感じないような……?)
この前の発情のときには満腹になるほど濃厚なミルクの香りを嗅いだ。それこそ、しばらく焼き菓子を見るだけで殿下の熱を思い出すほどだった。それが、いまはまったく感じられない。
(まぁ、発情は終わったようだし、きっとこういうものなんだろう)
それに、しょっちゅう感じられてもそれはそれで困る。後宮を出れば二度と嗅ぐことができなくなる香りなのだから、いまから嗅げない状況に慣れておいたほうがいい。
ぼんやりとそんなことを考えながら絵筆を一旦置こうとしたとき、目の前に手が現れて驚いた。その手が額に触れ、まるで熱を測るように覆い被さる。
「あ、の……殿下、」
「熱はないようだが……いや、少し熱いか?」
それは殿下に触れられているせいです……なんて言えるはずがない。忙しくなる鼓動を必死に落ち着かせながら、ただじっと手が離れるのを待つ。
「熱ではないなら、発情後だからか……?」
先ほどの言い訳で納得してもらえなかったのだろうか。それとも、僕を心配して……?
(……そんなわけはないか)
妃にするつもりがない男のΩを気にかけても仕方がない。それでも発情後だからと気遣ってくれているのだろう。その優しさが、いまはうれしさよりも痛みとして胸に突き刺さる。
「発情で体調を崩すことはないと思うが、男のΩはわからない部分が多い。気をつけることだ」
「ありがとうございます」
「それに今回は五日ほど続いたからな。体力が落ちていても不思議じゃない」
「……五日、」
「そうだ。途中、少し寝たり水を飲んだりはしたが、ほとんど交わりっぱなしだったから……傷がないことは確認しているが、どこか痛めていたりするか?」
「い……え、大丈夫、です」
なんと、今回は五日も発情していたとは。どうりで尻に太いものが入ったままのような感覚がなかなか取れなかったわけだ。いまも発情のことを思い出しただけで尻がむずむずしてくる。尻だけじゃない。その奥も、むしろお腹の深いところが痺れるような感覚になって……って、僕は一体何を思い出しているんだ。
慌てて記憶を封じようとしたが、ところどころしか覚えていないはずの殿下の熱が思い出されて体がカッと熱くなった。
「何もないならいいが、無理はしないことだ。大事な体なんだから十分労ってほしい」
「……ありがとう、ございます」
どうしてそんな言葉をかけるのだろうか。もしかして、僕が孕んだと思っているとか……? そんなこと……そうあってほしいとあんなに願っていたのに、いまは子ができるほうがつらいに違いないと思えて苦しくなる。
「…………もしかして、発情のときのことを覚えているのか?」
「え……?」
「わたしに……頼み事をしていたことは、覚えているか?」
もちろん覚えている。あれは僕のΩとしての覚悟が言葉になったものだ。しかし、覚えていると答えてもいいものか……。
(Ωからねだるのはよくないのかもしれない。それなら……)
「……気持ちよかったことは、覚えているんですが……」
僕の言葉に、殿下が少しホッとしたような表情を浮かべた。
「そうか。いや、一度目のときも覚えていないと言っていたから、そうではないかとは思っていた」
「僕は何か……おかしなことを口走ってしまったんでしょうか」
「いや、大丈夫だ。それに、余計なことを口にしたのはわたしのほうで……あぁいや、何でもない」
僕が噛んでほしいと何度も訴えたことを殿下は言わなかった。つまり、なかったことにしているということだ。
(……やっぱり、妃にするつもりはないってことだな)
これで踏ん切りがついた。その気がない殿下のそばにいつまでもいるわけにはいかない。このままではアールエッティ王国のためにならないし、何より僕自身がつらくなるばかりだ。
「体調におかしなところはありません。僕は大丈夫です」
声は震えていなかっただろうか。普段どおりの表情だっただろうか。そんな心配をしている僕の髪に、なぜか殿下がそっと触れてきた。そうして手櫛で撫でるように一度、二度と手を動かす。
「発情の間も思っていたが、こんなに美しい銀の髪は初めてだ。手触りも柔らかくて、まるで極上の絹糸のようだな。何度触れても飽きることがない」
その言葉には何も答えられなかった。まるで慈しむような殿下の黒目から逃れるように、そっとキャンバスへと視線を戻した。
「まさか、これを使う日が来るなんてなぁ」
鞄から取り出した瓶を持って、ゆらゆらと目の前で揺らしてみる。揺れているのは、僕がアールエッティ王国を出立する前日に妹のルーシアがくれた香水瓶だ。愛の女神を模した瓶は曲線が多用されていてとても美しい。さすがルーシアのデザインだと鼻高々になる。
そんな香水瓶の中身を聞いたときは「使うことなんてあるのかなぁ」なんて思っていた。それなのに僕はいま、この香水を使おうと考えている。
「……うーん、嗅いでも本物に近いのかどうかわからないな」
ポンプを取りつけてシュッと一押し振り撒いた香水は、ほんのり甘く感じられた。
ルーシアいわく、これはαに効果てき面な“疑似Ωの発情の香り”なんだそうだ。αでもΩでもない彼女に、どうしてそんなものが調香できたのかわからない。しかし以前から懇意にしているΩの姫君に確認しながら作ったと話していたから、それなりに根拠と自信があるのだろう。
「……うん、それなら何とかなるはず」
僕はこの香水を、ノアール殿下に試そうと考えいてる。
首を噛まれていないとわかったあと、体が回復するまでの間にいろんなことを考えた。王太子時代にもこんなに考えたことはないというくらい考え、同じくらい悩んだ。
国のことを考えるなら、妃になれないノアール殿下の元からさっさと離れて新しい嫁ぎ先を探すべきだ。しかし、ノアール殿下以外のαに……と考えるだけで寒気がする。こんな状態では、きっと他のαに嫁ぐことは難しいだろう。
「まぁ、時間が経てば可能かもしれないが」
そう、つぎに進むためにも僕には時間が必要だ。ということは、できるだけ早く後宮から出たほうがいいということでもある。
そう結論づけた僕は、すぐに準備を始めた。
といっても、持ち込んだ画材や追加で送ってもらった画材を鞄にしまうだけだから、帰国の準備はすぐに済む。鞄に収まりきらないものはすでに国に送り返しているし、用意はほとんど終わっていると言ってもいい。
まだ鞄にしまっていないのは、酔芙蓉のキャンバスに絵筆や一部の絵の具、それに描き終わっている黄色い薔薇の絵だけだ。
ベッドの脇に立てたイーゼルを見る。一枚は酔芙蓉の絵で、もう一枚はステンドグラスのように描いた黄色の薔薇の絵だ。この薔薇は殿下の意見を聞きながら初めて違う手法で描き上げた作品で、僕にとって思い出深い一枚になった。
「殿下には、いろいろとよくしていただいた。だから、置いていくこの二枚はお礼なんだ」
そんなことを言いながら、心の中では「二枚の絵を見るたびに僕のことを思い出してもらえるのでは」なんてことを思っていた。我ながらどうしようもないなと笑いたくなるが、殿下にも僕のことを覚えていてほしいと願わずにはいられなかった。
こんなふうに帰国の準備をしながら、ノアール殿下への気持ちを少しずつ整理しているところだ。殿下のことは絶対に忘れられないだろうが、国のため、自分のためを考えると早く思い出にしてしまったほうがいい。そうして帰国し、しばらくは画家として活動したあと改めて隣国のαに打診して嫁ぐ準備をしよう。
それまでの間は、ヴィオレッティ殿下が買ってくれた数枚の絵の代金で何とかしのぐしかない。
「というか、まさかあのヴィオレッティ殿下が僕の絵を買うとはな」
てっきり芸術には興味がないのだと思っていた。いや、ノアール殿下が「ヴィオの母親は絵が好きなんだ」と話していたから、母君のために買ったのかもしれない。二人の妃も絵を見るのが好きだそうだから、贈り物にした可能性もある。
「おかげで臨時収入にしては大きな金額になった。財務大臣からの手紙にも、しばらく何とかなりそうだと書いてあったから大丈夫だろう」
それに僕の支度金も相当な金額だった。あれは妃になれなかったとしても返却しなくてよいと親書に書かれていたもので、財政破綻を免れることができた最大の収入になった。
となれば、あとは僕だけだ。いつまでも未練がましい気持ちを抱いていても仕方がない。それに、最後にしっかりと殿下のことを焼きつけてから帰国すると決めたんだ。
「この香水を使えば、僕が発情していると勘違いしてくれるはず」
二度目の発情からあまり日は経っていないが、この香水はΩが発するαを虜にする香りらしいから、僕が再び発情したと思ってくれるだろう。
「それに、どうやらαはΩの発情に流される傾向にあるようだしな」
そうでなければ、二度目の発情でも殿下が相手をしてくれたりはしなかったはず。それなら香水でも間違いなく成功する。
そうして勘違いした殿下とベッドを共にしようと考えている。僕自身は発情していないから全部覚えていられるはずだ。その思い出があれば、きっとつぎに進める。本心から望んだわけじゃないαとの婚姻を迎えたとしても、思い出があれば耐えられる。
「……そうだ。僕はアールエッティ王国の第一王子で、Ωだ。遅咲きすぎるけど、国のために嫁がなくてはいけないんだ」
だから、自分の気持ちは二の次でいい。そう思っているのに、今夜もやっぱり目頭が熱くなって香水瓶が滲んで見えた。
「え……?」
声をかけられてハッとした。
「絵筆があまり進んでいないように見えるが」
「ちょっと……手法を変えようかと考えていまして」
「なるほど」
苦しい言い訳だが、絵画に詳しくないノアール殿下なら納得してくれるだろう。そんなことを思いながら、絵の具を含ませた筆をキャンバスに載せた。
メインディッシュの皿よりも二回りほど大きなキャンバスには酔芙蓉が描かれている。殿下の執務室から見える庭の奥にたまたま見つけた花で、咲き始めの朝からしぼむ夕方にかけて色が変化するのがとても美しかった。その様子を描いておきたいと思い、手前は朝の白を、奥に向かうにつれて夕暮れの赤色で塗っている。
別に塗り方の手法を変えようとは考えていない。もっとも得意とする写実性を追求する描き方で進めているし、この先も変える予定はなかった。それなのに筆が止まってしまうのは、つい今後のことを考えてしまうからだ。
(あとどのくらい、こうやっていられるんだろうな……)
そんなことを考えるせいで、また筆が止まってしまった。しかしここで筆を置くことはできない。そんなことをすれば殿下に不審がられるだろうし、そこから僕が考えていることを知られてしまうかもしれないからだ。
「もしかして、体調が優れないのではないか?」
「いえ、そんなことはありませんが……」
再び筆を止めてしまったせいで、殿下がまた気にし始めた。何でもないといつもどおりの口調で答えたが、振り返ると殿下の眉が少し寄っている。
「殿下?」
「……いや、わずかに香っていたランシュの香りが、ここのところほとんどしなくなった気がする」
「香り、ですか?」
残念ながら自分の香りのことはわからない。殿下が「しない」というのならしないのだろう。
(そういえば、殿下の香りも感じないような……?)
この前の発情のときには満腹になるほど濃厚なミルクの香りを嗅いだ。それこそ、しばらく焼き菓子を見るだけで殿下の熱を思い出すほどだった。それが、いまはまったく感じられない。
(まぁ、発情は終わったようだし、きっとこういうものなんだろう)
それに、しょっちゅう感じられてもそれはそれで困る。後宮を出れば二度と嗅ぐことができなくなる香りなのだから、いまから嗅げない状況に慣れておいたほうがいい。
ぼんやりとそんなことを考えながら絵筆を一旦置こうとしたとき、目の前に手が現れて驚いた。その手が額に触れ、まるで熱を測るように覆い被さる。
「あ、の……殿下、」
「熱はないようだが……いや、少し熱いか?」
それは殿下に触れられているせいです……なんて言えるはずがない。忙しくなる鼓動を必死に落ち着かせながら、ただじっと手が離れるのを待つ。
「熱ではないなら、発情後だからか……?」
先ほどの言い訳で納得してもらえなかったのだろうか。それとも、僕を心配して……?
(……そんなわけはないか)
妃にするつもりがない男のΩを気にかけても仕方がない。それでも発情後だからと気遣ってくれているのだろう。その優しさが、いまはうれしさよりも痛みとして胸に突き刺さる。
「発情で体調を崩すことはないと思うが、男のΩはわからない部分が多い。気をつけることだ」
「ありがとうございます」
「それに今回は五日ほど続いたからな。体力が落ちていても不思議じゃない」
「……五日、」
「そうだ。途中、少し寝たり水を飲んだりはしたが、ほとんど交わりっぱなしだったから……傷がないことは確認しているが、どこか痛めていたりするか?」
「い……え、大丈夫、です」
なんと、今回は五日も発情していたとは。どうりで尻に太いものが入ったままのような感覚がなかなか取れなかったわけだ。いまも発情のことを思い出しただけで尻がむずむずしてくる。尻だけじゃない。その奥も、むしろお腹の深いところが痺れるような感覚になって……って、僕は一体何を思い出しているんだ。
慌てて記憶を封じようとしたが、ところどころしか覚えていないはずの殿下の熱が思い出されて体がカッと熱くなった。
「何もないならいいが、無理はしないことだ。大事な体なんだから十分労ってほしい」
「……ありがとう、ございます」
どうしてそんな言葉をかけるのだろうか。もしかして、僕が孕んだと思っているとか……? そんなこと……そうあってほしいとあんなに願っていたのに、いまは子ができるほうがつらいに違いないと思えて苦しくなる。
「…………もしかして、発情のときのことを覚えているのか?」
「え……?」
「わたしに……頼み事をしていたことは、覚えているか?」
もちろん覚えている。あれは僕のΩとしての覚悟が言葉になったものだ。しかし、覚えていると答えてもいいものか……。
(Ωからねだるのはよくないのかもしれない。それなら……)
「……気持ちよかったことは、覚えているんですが……」
僕の言葉に、殿下が少しホッとしたような表情を浮かべた。
「そうか。いや、一度目のときも覚えていないと言っていたから、そうではないかとは思っていた」
「僕は何か……おかしなことを口走ってしまったんでしょうか」
「いや、大丈夫だ。それに、余計なことを口にしたのはわたしのほうで……あぁいや、何でもない」
僕が噛んでほしいと何度も訴えたことを殿下は言わなかった。つまり、なかったことにしているということだ。
(……やっぱり、妃にするつもりはないってことだな)
これで踏ん切りがついた。その気がない殿下のそばにいつまでもいるわけにはいかない。このままではアールエッティ王国のためにならないし、何より僕自身がつらくなるばかりだ。
「体調におかしなところはありません。僕は大丈夫です」
声は震えていなかっただろうか。普段どおりの表情だっただろうか。そんな心配をしている僕の髪に、なぜか殿下がそっと触れてきた。そうして手櫛で撫でるように一度、二度と手を動かす。
「発情の間も思っていたが、こんなに美しい銀の髪は初めてだ。手触りも柔らかくて、まるで極上の絹糸のようだな。何度触れても飽きることがない」
その言葉には何も答えられなかった。まるで慈しむような殿下の黒目から逃れるように、そっとキャンバスへと視線を戻した。
「まさか、これを使う日が来るなんてなぁ」
鞄から取り出した瓶を持って、ゆらゆらと目の前で揺らしてみる。揺れているのは、僕がアールエッティ王国を出立する前日に妹のルーシアがくれた香水瓶だ。愛の女神を模した瓶は曲線が多用されていてとても美しい。さすがルーシアのデザインだと鼻高々になる。
そんな香水瓶の中身を聞いたときは「使うことなんてあるのかなぁ」なんて思っていた。それなのに僕はいま、この香水を使おうと考えている。
「……うーん、嗅いでも本物に近いのかどうかわからないな」
ポンプを取りつけてシュッと一押し振り撒いた香水は、ほんのり甘く感じられた。
ルーシアいわく、これはαに効果てき面な“疑似Ωの発情の香り”なんだそうだ。αでもΩでもない彼女に、どうしてそんなものが調香できたのかわからない。しかし以前から懇意にしているΩの姫君に確認しながら作ったと話していたから、それなりに根拠と自信があるのだろう。
「……うん、それなら何とかなるはず」
僕はこの香水を、ノアール殿下に試そうと考えいてる。
首を噛まれていないとわかったあと、体が回復するまでの間にいろんなことを考えた。王太子時代にもこんなに考えたことはないというくらい考え、同じくらい悩んだ。
国のことを考えるなら、妃になれないノアール殿下の元からさっさと離れて新しい嫁ぎ先を探すべきだ。しかし、ノアール殿下以外のαに……と考えるだけで寒気がする。こんな状態では、きっと他のαに嫁ぐことは難しいだろう。
「まぁ、時間が経てば可能かもしれないが」
そう、つぎに進むためにも僕には時間が必要だ。ということは、できるだけ早く後宮から出たほうがいいということでもある。
そう結論づけた僕は、すぐに準備を始めた。
といっても、持ち込んだ画材や追加で送ってもらった画材を鞄にしまうだけだから、帰国の準備はすぐに済む。鞄に収まりきらないものはすでに国に送り返しているし、用意はほとんど終わっていると言ってもいい。
まだ鞄にしまっていないのは、酔芙蓉のキャンバスに絵筆や一部の絵の具、それに描き終わっている黄色い薔薇の絵だけだ。
ベッドの脇に立てたイーゼルを見る。一枚は酔芙蓉の絵で、もう一枚はステンドグラスのように描いた黄色の薔薇の絵だ。この薔薇は殿下の意見を聞きながら初めて違う手法で描き上げた作品で、僕にとって思い出深い一枚になった。
「殿下には、いろいろとよくしていただいた。だから、置いていくこの二枚はお礼なんだ」
そんなことを言いながら、心の中では「二枚の絵を見るたびに僕のことを思い出してもらえるのでは」なんてことを思っていた。我ながらどうしようもないなと笑いたくなるが、殿下にも僕のことを覚えていてほしいと願わずにはいられなかった。
こんなふうに帰国の準備をしながら、ノアール殿下への気持ちを少しずつ整理しているところだ。殿下のことは絶対に忘れられないだろうが、国のため、自分のためを考えると早く思い出にしてしまったほうがいい。そうして帰国し、しばらくは画家として活動したあと改めて隣国のαに打診して嫁ぐ準備をしよう。
それまでの間は、ヴィオレッティ殿下が買ってくれた数枚の絵の代金で何とかしのぐしかない。
「というか、まさかあのヴィオレッティ殿下が僕の絵を買うとはな」
てっきり芸術には興味がないのだと思っていた。いや、ノアール殿下が「ヴィオの母親は絵が好きなんだ」と話していたから、母君のために買ったのかもしれない。二人の妃も絵を見るのが好きだそうだから、贈り物にした可能性もある。
「おかげで臨時収入にしては大きな金額になった。財務大臣からの手紙にも、しばらく何とかなりそうだと書いてあったから大丈夫だろう」
それに僕の支度金も相当な金額だった。あれは妃になれなかったとしても返却しなくてよいと親書に書かれていたもので、財政破綻を免れることができた最大の収入になった。
となれば、あとは僕だけだ。いつまでも未練がましい気持ちを抱いていても仕方がない。それに、最後にしっかりと殿下のことを焼きつけてから帰国すると決めたんだ。
「この香水を使えば、僕が発情していると勘違いしてくれるはず」
二度目の発情からあまり日は経っていないが、この香水はΩが発するαを虜にする香りらしいから、僕が再び発情したと思ってくれるだろう。
「それに、どうやらαはΩの発情に流される傾向にあるようだしな」
そうでなければ、二度目の発情でも殿下が相手をしてくれたりはしなかったはず。それなら香水でも間違いなく成功する。
そうして勘違いした殿下とベッドを共にしようと考えている。僕自身は発情していないから全部覚えていられるはずだ。その思い出があれば、きっとつぎに進める。本心から望んだわけじゃないαとの婚姻を迎えたとしても、思い出があれば耐えられる。
「……そうだ。僕はアールエッティ王国の第一王子で、Ωだ。遅咲きすぎるけど、国のために嫁がなくてはいけないんだ」
だから、自分の気持ちは二の次でいい。そう思っているのに、今夜もやっぱり目頭が熱くなって香水瓶が滲んで見えた。
62
あなたにおすすめの小説
身代わりの出来損ない令息ですが冷酷無比な次期公爵閣下に「離さない」と極上の愛で溶かされています~今更戻ってこいと言われてももう遅いです〜
たら昆布
BL
冷酷無比な死神公爵 × 虐げられた身代わり令息
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
2026/02/14 累計30万P突破御礼バレンタインSS追加しました
2026/02/15 累計いいね♡7777突破御礼SS 19時に公開します。
様々な形での応援ありがとうございます!
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
【WEB版】監視が厳しすぎた嫁入り生活から解放されました~冷徹無慈悲と呼ばれた隻眼の伯爵様と呪いの首輪~【BL・オメガバース】
古森きり
BL
【書籍化決定しました!】
詳細が決まりましたら改めてお知らせにあがります!
たくさんの閲覧、お気に入り、しおり、感想ありがとうございました!
アルファポリス様の規約に従い発売日にURL登録に変更、こちらは引き下げ削除させていただきます。
政略結婚で嫁いだ先は、女狂いの伯爵家。
男のΩである僕には一切興味を示さず、しかし不貞をさせまいと常に監視される生活。
自分ではどうすることもできない生活に疲れ果てて諦めた時、夫の不正が暴かれて失脚した。
行く当てがなくなった僕を保護してくれたのは、元夫が口を開けば罵っていた政敵ヘルムート・カウフマン。
冷徹無慈悲と呼び声高い彼だが、共に食事を摂ってくれたりやりたいことを応援してくれたり、決して冷たいだけの人ではなさそうで――。
カクヨムに書き溜め。
小説家になろう、アルファポリス、BLoveにそのうち掲載します。
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
もう一度君に会えたなら、愛してると言わせてくれるだろうか
まんまる
BL
王太子であるテオバルトは、婚約者の公爵家三男のリアンを蔑ろにして、男爵令嬢のミランジュと常に行動を共にしている。
そんな時、ミランジュがリアンの差し金で酷い目にあったと泣きついて来た。
テオバルトはリアンの弁解も聞かず、一方的に責めてしまう。
そしてその日の夜、テオバルトの元に訃報が届く。
大人になりきれない王太子テオバルト×無口で一途な公爵家三男リアン
ハッピーエンドかどうかは読んでからのお楽しみという事で。
テオバルドとリアンの息子の第一王子のお話を《もう一度君に会えたなら~2》として上げました。
※画像は男の子メーカーpicrewさんよりお借りしました。
いい加減観念して結婚してください
彩根梨愛
BL
平凡なオメガが成り行きで決まった婚約解消予定のアルファに結婚を迫られる話
元々ショートショートでしたが、続編を書きましたので短編になりました。
2025/05/05時点でBL18位ありがとうございます。
作者自身驚いていますが、お楽しみ頂き光栄です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる